思い込み
2025年7月19日

雷のせいではないと思う。その日の昼前に、停電が発生した。アップロードしようとしたとき、プツンと消えた。以前のパソコンならば、ここで重大なトラブルになりかねないところだが、最近のパソコンはなんとか耐えられるようになっているように思う。しかしお使いのマシンや、停電の原因によっては、現象は様々なので、対策は各自でなさるように。ただ、こまめに作成文書やデータの保存やバックアップは、習慣づけておきたいものだ。
電灯も扇風機も一度に働かなくなったから、これは停電だと分かった。冷蔵庫はドアを開けず、できるだけこのまま凌ごう。経験だとすぐに復旧する。が、なかなか戻らない。最近の記憶の中では最も長く消えている。後から知るが、周辺地域でも同様だったらしい。
数分後に復旧したのは幸いだった。パソコンも起動できたし、消えたデータもなかった。電源を切ると自動的にフィルター清掃をするエアコンが、ひとり勘違いをして茶道するくらいが問題だったのと、Wi-Fiが再び接続するまでに少しだけ時間を要したことくらいが影響した。
これで終わったと思っていた。
その日、午後すぐに妻と買い出しに行くことになっていた。そして車に乗りに階下の駐車場に行った。パイロットランプが付いていた。誰かが「非常停止」ボタンを押して、なにかそのままにしていたときに、以前そういうことがあった。駐車場のキーを挿し、操作しようとしたら、動かない。おまけに、キーを抜くこともできない。
画面を通じて、電子制御するタイプのものだ。ゲートを開けるなにげない操作が、できない。初めての事態だ。
結局業者に電話をし、来てもらうことになった。私のキーは抜けないままであったが、後で返すということだった。私たちは、買物に行けなくなった。私はその後に出勤なので、いつもの店までのんびり行くこともできない。仕方がないので、歩いて近い店で買物をした。そこも買物をするには悪くないので、食品調達に困ったとまでは言えないが、買う予定にしていたものが買えないなど、小さな問題はあった。
さて、業者が一時間後に来て、妻がキーを返してもらった。気になるので原因を質問したそうだ。すると、やはり停電のせいであるらしいことが判明したという。このメカニズムについて、逐一お知らせする必要はないだろうと思う。ただ、おおまかに言うと、停電したために、プログラムが初期化され、ゲートの開閉について調整していた指示が無効になったということだった。つまり、初期設定でない設定をしていたのが消えた、ということで、エラーが出たのだ。機械が、指示された内容を忘れてしまい、これはゲートを開けてはいけない事情にある、と思い込んでしまったために動かなかったというわけだ。
人間的に表現をするが、機械も「思い込み」をするのだ。自分が使命を帯びたと固く信じて動かない命令に、忠実に従っただけのことなのだが、人間精神的な用語を使うと、要するに「思い込み」のために、私の指示を全く受けつけなくなってしまったのだ。
「思い込み」は、要するに「自分が間違っているわけではない」という筋を、徹底的に貫くことである。「自分が正しい」という「思い込み」をがあるから、絶対に譲らないのである。
自分が何か間違っているかもしれない、という反省的視点を機械がもっていたら、自分の仕事を考え直し、情況を認識することによって、新たな判断をすることもできただろう。だが、「自分が正しい」ところから動けないでいると、自分の間違いを知ることができない。自分は正しいという前提を疑うことをしないから、事実自分が間違っているのに、気づくことができないのである。
こう考えてきて、自分の心の中に「痛み」を感じた人は、私はまだよいと思う。だが世の中には、これだけお伝えしても、全く「痛み」を感じないタイプの人がいる。要するにその人は、「自分が間違っているとは全く思わない」タイプなのであり、「自分の考えだけが唯一正しい」と信じ込んでいる人である。
いわゆる「ヘイト」ができるのは、そういうタイプの人間である。「誹謗中傷」を繰り返し辞めない者は、正にそのタイプである。「反省」という概念は、自分が悪い、と謝ることではない。正に「自らを省みる」ということであり、「自己認識ができる」というあり方のことを謂う。
それは、「自分を神とする」ということに匹敵するだろう。そして、それこそが、聖書が指摘する最大の「罪」に外ならない。「自分のしていることが分からない」というわけだから、気づかない。私もかつてそうだったから、その怖さは分かる。そして、そこから自らの「罪」に気づいたとき、私は救われることとなった。
世の中には、私が見るに、この「自分が正しい」しか見えないタイプの人が、いま少なくないような気がする。そしてその人たちもまた、選挙で票をもっているし、別の人に、自分と同様に票を使えと迫ったり画策したりもする。
かつての独裁政治は、独裁者が無理矢理権力を用いて独裁を始めたのではない。国民が、それを支持したのである。「自分が正しい」という国民の「思い込み」の自負心をくすぐるその人物が、票を集めたことによって、権力者となることができたのである。「自分が正しい」を各人が喜んで主張できるようになり、それが多数派となり、少数派を殺すことさえ「正しい」こととしていったのである。
いま、その危険がこの国にも拡がっていることに、心ある人は気づいている。「罪」を核心にもつキリスト教を知ること、信じることは、「思い込み」の危険を避けるためにも役に立つと、私は考えている。
但し、この「罪」の自覚のないままに、講壇で説教をしている者も世の中にはいる。「罪」を知らないままに「赦し」や「命」がもたらされるはずがない。それに慣らされた人は、その信仰が壊れていかないか、省みる必要があるだろう。「教会」と名の付いているところだから命が語られている、とは限らないのである。