言葉からの危機
2025年7月17日

「目に入れても痛くない」という言葉は、小学六年生の子どもたちに全く通じなかった。
国語で諺や慣用句を学ぶ場になると、いろいろな発見をする。いや、諺というものが絶滅危惧の範疇にあることは、当然分かっていた。生活の中で使うことがない。へたすると親も知らないとなると、子どもが知るはずもない。むしろ、塾に来ている分、子どもの方が、とりあえず覚えることになるかもしれない。
いくらかでも古い本に触れていれば、当然目に入る言葉である。が、本に対する絶対量が少ないし、軽い本を書く側もまた、古い本に触れることがなければ、諺や慣用句を使うはずもないから、益々先細りになってゆくのであろう。
「目に入れても痛くない」ように可愛がられていないからなのか。それも考えたが、塾に来ている子にそれは当たらないようにも思う。あるいは、それほど愛されているのに、それを当たり前のことだとしているから、特別に感じないだけなのかもしれない。
無責任な分析はしないでおこう。愛されていることに感謝を覚えないどころか、愛されていることに気づかないでいるとするなら、そうした言葉を必要とすることもなく、使うシチュエーションもない、ということになる。同じ授業で、「謙遜」という言葉が問われたが、これも小学生には意味不明な語の一つだった。分からないでもない。若い世代にとり、「謙遜」は無縁な語となっているのかもしれないと思った。
言葉は、人間の思考をつくる。思考に見合った言葉が生まれ、使われるが、思考しない言葉は廃れる。いわゆる「差別語」が排除されるのは、人に対して使うとか、人を傷つける形で使うとかいう方向性であるべきだと思うのだが、言葉という形を失うと、言葉なしに行動で、同様の、あるいはさらなる差別をしてしまうことになる。
そして、平気で差別を言論の場に持ち出すと、聞いたことがないから、えらく新鮮に聞こえもする。世間が黙秘していることを、彼らは堂々と言っている。それが眩しく見える、ということになるかもしれない。「陰謀論」なるものも、人の心を引っかける力が強いから、これまで誰も言わなかったことは、世が陰謀により隠していたからだ、従って堂々と本音を叫ぶ彼らは、真実を言って居るのだ、私の中にもそれに同調する思いがあるぞ――そんな具合に、靡いてゆく頭数が増えてゆくことが、いま起こっているように見える。
「哲学」を学ばせない教育も、それを助長している。私はそう考えて止まないが、いまそのことについては追究しないでおこう。さしあたり、言葉というものにだけ注目して戴ければ幸いである。
言葉の欠如、いわゆるボキャブラリーの貧困というものが、世の中を動かすようになることについては、百年前の歴史から、学ぶべきなのだが、どうもそうはいっていないようだ。「民主」という言葉を偶像化してゆく百年であったかもしれない。私たちは「言葉」を通じて「思考」していることに気づく者でありたいと願う。
聖書は、その「言葉」への最大のリスペクトを払う場である。なにせ、ことばは神であった、とまで言うのだ。聖書は、人間の自己義認を暴く本だと思う。その視点は人間の、そして自分の立ち位置を知るためにも、貢献することだろう。