小さな愛に生きるために
2025年7月14日

「私の子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。」この言葉から、ヨハネの手紙一の2章は始まる。目的がはっきりとしている。「罪を犯さないようになるため」だという。
誰だって、罪を犯したいとは思わないだろう。だが思う。私たちはそもそも「罪」ということが分かってはいないのだ。「分かる」というのは、「分ける」ことを原理とする、とも言われる。何が罪で、何が罪でないか。それを「分ける」ことが、人間にはできているのだろうか。「分ける」ことができるのは、神のみである。これを認めるとするならば、
誰が知らずに犯した過ちに気付くでしょうか。/隠れた罪から私を解き放ってください。(詩編19:13)
これは私の見解だが、説教者は、「罪を犯さないようにするため」というところに、愛に満ちた眼差しからの言葉を見ていた。それは、「たとえ罪を犯しても」導く神の懐というものを知らせるものであるのだろう。直後に、「弁護者、正しい方、イエス・キリスト」がいるのだ、と告げた。イエス・キリストは、自ら罪を贖うものとなり、命を捨てることによって、ひとを罪から救う道を拓いたのであった。
イエス・キリストは「弁護者」であった。「パラクレートス」というギリシア語で表されるそれは、時に「カウンセラー」あるいは「慰め主」という言い方で説明されることもある。基本的に「聖霊」のことをいうときに使われる語である。それは私たちと並んで立っている。助けるべく呼ばれた方である、という見方もできるだろう。説教者は、「執り成す」という概念もそこに加えた。
神は私たちに、助けを送ってくださる。イエス・キリストを歴史の中に送った。そしてその人としての姿を私たちが見ることができなくなっても、聖霊を与えてくださった。
3:私たちは、神の戒めを守るなら、それによって神を知っていることが分かります。
これをそのまま受け止めれば、私たちには戦慄が走るかもしれない。「神の戒めを守る」ことが、どうして完遂できよう。
私の戒めに耳を傾けさえすれば
あなたの平和は川のようになり
あなたの正義は海の波のようになるであろうに。(イザヤ48:18)
こちらは、少し緩く聞こえるかもしれない。だが、本質は同じで或。神の戒めに適応しなければ、私たちには平和も正義もなく、「神を知っている」と口にすることもできないかのようである。
だが、「神を知る」という言葉が、日本語とはだいぶ重みが違うことを、聖書を読む私たちは正に知っている。「知る」というのは、人格的なものをもつ者が、その人格的な核心を、そして全身全霊を、深く交わらせることを指す。たんなる知識をもつことではない。説教者の言い方によると、それは「親密な関係」を示すものであり、そこには「信頼と愛」が満ちているということになる。だから、「神を知る」ということは、実のところ並大抵のものではないのである。
しかし、手紙の筆者は、譲歩をつけずに言い切る。「神の戒めを守るなら、それによって神を知っていることが分かります」と。ヨハネ文書に於いては、「神の戒め」とは基本的に「愛し合うこと」を意味する。ヨハネ伝やヨハネの手紙が全般に、それを強調する。だが、説教者は今日、「愛」という言葉を解き明かす方向には向かって進まなかった。
但し、正確には、「愛」についてまず宣言している。だがそれは、人間が愛し合うようなところではなかった。「神の愛に応えること」の必要をぶつけていたのだ。もう少し詳しく言うと、「赦されながら、神の愛に応えて歩むこと」を、今日の焦点に置いた。これこそが「信仰」だというのである。
この「赦される」ということは、もちろん、それで与えられた自由を、自分本位で好き勝手に生きるというところへつながるようなものではない。むしろ説教者が言うには、「神の愛と赦しに応えて立ち上がる」ことが必要だという。「立ち上がる」とは、ひとつの「復活」である。
そのためには、神の言葉を「聞く」ことが先ず求められよう。そして、その神の言葉に「応えようする生き方」が、私たちに期待されているのだという。ここに、「神を知ること」が成り立つのだといえる。
いまこうして、神の言葉を私は聞き、そのことに対して「レスポンス」している、というのがこの場の建前である。「レスポンス」とは、正に「応えること」を謂うのであるから、さしあたり口先だけのことに過ぎないのではあるが、説教者の告げることの一端をここで担っているのではないかと考えている。
そうだ、そうしてようやく、ここで説教者は「互いに愛し合う」ことを取り上げる。信仰は、必ずしも個人的なものではないのである。他者がいて、他者との関係の中に、自分の信仰も成り立つ。共に、信仰の光の中で、支え合いながら歩むということが望ましい。
しかしまた、それは教会という場に限定されない。説教者が挙げた例は、子どもが、親を喜ばせたいという一心で、何かに打ち込み、行動するという場合であった。また、親の期待に応えたいという潜在的な思いもあるだろう。私たちもまた、互いに人を喜ばせたいという気持ちもあってよいのであるが、肝腎なことは、主に喜んで戴きたいというところである。
二つの大切な戒めは、神を愛することと、人を愛することであった。先ずは、神への愛であった。主が喜ぶことを思う、というのは真っ先に、自分の原理でありたいものである。それは極めて日常的な営みである。大袈裟なことではない。ちょっとそのゴミを拾ったら、イエスは喜んでくれるかしら。不揃いな本をちょっと揃えたら、神は微笑むかもしれない。そのような小さな思いで、小さな行為を、なにげなくででもよいから、続けてゆく。そのとき、もしかすると人目が気になるかもしれない。もしかすると自分は急いでいるかもしれない。だが、そのような自分の「都合」を、ほんの少しでも殺して、善いことの方へ導かれてゆく、ということをいまここで提言している。小さな小さなことに過ぎないが、自分に死に、愛に生きるということである。罪の自分に死に、神の愛に生かされるということを、そのような、誰も気づかない、自分さえも意識しないようなところに見る、というのは、説教者の謂おうとしたことではないかもしれないが、私はそのように受け止めてみたいと思った。
6:神の内にとどまっていると言う人は、イエスが歩まれたように、自らも歩まなければなりません。
今日のメッセージは、「イエスが歩まれたように」の言葉に集約していった。キリストに倣う歩みでありたい、という説教者の願いがこめられていた。「キリストに倣う」という表現を聞くと、どうしても、トマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』が頭に浮かぶ。キリスト教の霊的な瞑想を支え続け、多くの人にキリストにある生き方を与えてきた名著である。プロテスタント教会では殆ど取り上げられないが、もったいないことだと思う。
「キリストに倣う」という言葉には、私はどうしてもストンと胸に落ちない何かを感じてしまう。ひとつには、それは憧れである。だが他方では、そんなことができるわけがない、という諦観がある。原理的に、倣って同じようにできるはずがないのである。それでいて、どこまでも理想としながらも、キリストの姿は、自分の生き方の模範でありたい、と思うのも確かである。
説教者もそのことは恐らく分かっている。だから、完璧を求める必要はないことを告げた。しかし、私たちは、従いたいという思いを大切にしなければならず、とにかく実際にキリストを見つめながら歩んでいこう、というような思いを伝えていたように思う。
もしできたとしても、それは小さな一歩ずつであるかもしれない。しかしそれを積み重ねることで、「歩み」というものが成り立つ。一つひとつの選択が続けられることによって、「歩み」となる。それが教会では「奉仕」となるし、一人ひとりの生き方の現れとなる。
心の中にあなたの仰せを納めています/あなたに罪を犯さないために。(詩編119:11)
ヨハネの手紙の言葉と並行するメッセージは、気がつけば、旧約聖書の中にも息づいていた。だが、詩編のときのままに、神の言葉が響いてくるのではない。私たちには「パラクレートス」がいる。説教者は、「恐れず踏み出せ」という言葉を用意していた。また、「勇気」があれば共に歩める、というようなことにも触れた。そのエールを受けてなお、いまいちどヨハネの手紙の言葉を身に受けようと思う。
4:「神を知っている」と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であり、その人の内に真理はありません。
5:しかし、神の言葉を守るなら、その人の内に神の愛が真に全うされています。これによって、私たちが神の内にいることが分かります。
説教者は、この否定的な方面に走ることはなかった。純朴に、イエスに倣う歩みをしよう、という方向でメッセージを送っていた。だが、最初に触れたように、私たちは「罪」について完全に弁えているわけではない。「罪」に気づかないことさえあるのである。
それは、自分で自分を裁くべきではない、ということをも意味する。もちろん、他人を裁くことの危険性と歪みも、そこから明らかになっていた。私たちは喜びつつ、しかし慄きつつ、「「神を知っている」と言いながら、その戒めを守らない」ようなことがないように、神の言葉を受け、神の愛に気づく、日々の小さな歩みを営みたいものである。