【メッセージ】戦争と正義
2025年7月13日

(歴代誌下16:1-14, マルコ13:7)
主の目は全地を行き巡り、心が主と一つである者たちに御力を示す。このことについて、あなたは愚かなことをした。今後、あなたには戦争が続く。(歴代誌下16:9)
)
◆「戦争」をテーマにすることへの弁明
「平和ボケ」などと、理想を掲げる人を揶揄する人たちがいます。確かに、深刻で身近なものとして「戦争」を想定していないのが常態であるような時代が、続いたように見えるかもしれません。戦争や紛争は、どこか別の遠い世界の話、という空気があったと言われても否定できないでしょう。
もちろん、戦争への「危機」はあったと言えると思います。それどころか、たとえば沖縄の人からすれば、常にそれは脅威の事柄でありました。けれどもいま言おうとしているのは、核保有国のリーダーの気紛れひとつからでさえ、世界が滅亡するという「危機」のことです。
手塚治虫の代表作の一つに『火の鳥』があります。その「未来編」においては、山之辺マサトとタマミなどを除く全人類が、一瞬にして滅びてしまうのです。コンピュータに支配された人類たちが、幾つかの大都市に集結していましたが、互いに核爆弾を仕掛けて同時に爆発させます。
描かれたのは1967〜68年。キューバ危機を経験した当時の冷戦構造の中で描かれたものであるとはいえ、手塚の感性と危機意識は、いまもそのままに通用することからしても、驚きを禁じ得ません。
今日はタイトルに「戦争」という文字を入れました。しかし、ここで「戦争」について論じよう、というつもりはありません。話題が巨大であることと、私にそんな理解も見聞もないからです。私たちはただ、聖書から、神の声を聴きたいと願いながら、神を礼拝する中で、共に考えることはできようかと思います。しかも、短い時間の中に於いてです。
戦争についての悲しみやその悲惨さ、それを起こす人間の欲望や罪を見つめるか、あるいは時に、その勇敢な美しい犠牲の精神を掲げたいと思う人もいるでしょうか。でも、そうしたことを取り上げると、際限なく話が続きそうです。それはまたの機会に譲り、いまはほんの一段だけでも、階段を昇ればよしとしましょう。
戦争のことや戦争の噂を聞いても、慌ててはいけない。それは必ず起こるが、まだ世の終わりではない。(マルコ13:7)
マタイ、ルカを含め、新約聖書で「戦争」について直接触れられているのは、意外なことにこの脈絡だけです。パウロの手紙の中でひとつ、仮のたとえのようなところで登場することはありますが、「戦争」と訳されているのはここだけです。
ただ、「戦い」という形で、様々な戦闘や兵士の例を挙げて語ることは度々あり、現実のことではありませんが、黙示録の様々な「戦い」は実に壮大です。また、信仰の武具についても説かれることがありました。戦いそのものは、聖書にとってはむしろ当たり前のことだったようにも見えます。だからまた、「キリスト教は戦争が好きなのか」などと言われることもあります。
そして、さも鬼の首を取ったかのように、「一神教が戦争の原因だ」というようなでまかせも、けっこう通俗的で分かりやすく滲透している場合があります。歴史は、省みなければなりません。しかし、聖書の中に描かれた歴史にも、目を向けてみたいと願っています。
◆傍観者の正義
先のマルコ伝には、「戦争のことや戦争の噂」という言葉がありました。これを聞くということは、その人は、戦争の当事者ではない、ということにしておきましょう。言葉は冷たいですが「傍観者」と呼ぶことにします。他方、戦争に直接関わっている人は、「当事者」と呼ぶことにします。
戦争の当事者は、戦うどちらの側においても、それぞれ「自分が正しい」と考えています。自分が正しいので、命を懸けて戦うことができるのですし、相手が悪だという見解があるから、それを殺すことが正義だということになります。
では、戦争の傍観者は、どう見るでしょうか。A国とB国が戦いを始めた。それはB国が侵略したのだ。B国が悪い。たとえばこう考える場合があるでしょう。でも、それで終わりなのでしょうか。
そう考えたのは、「B国が侵略した」というニュースソースに基づくことでありましょう。そのときしばしば、自分の国は政治的にA国の側に立っているものです。B国からの報道が入って来にくい国際関係なのです。だから報道機関も、親しみのあるA国寄りに報道します。もしここでA国をひどく批判したら、貿易や外交に影響が出るかもしれません。
やれやれ、A国もB国も困ったものだ。そんな溜息も出るかもしれません。が、概して、B国はいつもそんなことをして困る、なんとかならないか。そうした論調が主流になるような気がします。
伝わってくる報道だけでは、どちらが正義だと言えるのか、本当のところは判断がつかない、それが正直なところではないかと思います。
「戦争の噂」が、どこからどのようにここに伝えられてくるのか、そこも重要です。そうでないと、一方的にどちらかから正しいように思い込んでしまうかもしれません。傍観者は傍観者で、自分は正しいという前提があり、揺らぎませんから、もうそのまま正義と悪者とが定まってしまうことになりかねません。
「戦争」という大きな場ではなくても、日常的に、いわゆるSNSの中では、そうしたことが普通に起こっています。いわゆる誹謗中傷は、声が大きい方がするのであり、しかも匿名で集中砲火もできるという自体が、幾人を死や絶望と恐怖に追い込んできたか、また追い込んでいるか、計り知れません。
いまは比較的、客観的に批評ができているよ、と思う人もいるかもしれません。でも、風向きが変わるとどうなるか、分かりません。朝ドラの「あんぱん」では、少し前に、お国のために、と威勢のいい庶民の姿が描かれていました。見ていてうざったいと思った人が多いかもしれませんが、「自分はああはならない」と冷ややかに見ている人のうち、果たしていざそういう世になったら、どれほどの人がそうなってしまうか、私は極めて疑わしいと考えています。
「みんな」がしていれば自分もする。「みんな」ですれば怖くない。そうした傾向は、いまの社会にも明らかにあるからです。あまつさえ、他人がしていれば、自分がそれをしても自分が正当化されます。弁明が立ちます。「みんな」していることをして、何が悪い、と。自分のしていることは、どんな理由をつけてでも、常に「正義」となります。
人間のそのような性質は、冷徹に見つめておく必要がある、と常々思っています。
◆ユダの王アサ
今日は、ユダの王アサを見つめ、信仰の問題もそこに絡めてみたいと考えています。というのは、このアサは、信仰的には非常に良かった、とされている王であったからです。聖書の記者による評価は、マルでした。神を信じていた、ということです。主に背を向けた、という王については散々な書き方をするこうした歴史書の中で、アサはたいそう立派な王だと評価されているのです。
在位はBC910年頃から、870年頃まで。亡くなるまで、王として南ユダ王国を率いていました。列王記での記述はわずかなものでしたが、歴代誌には、3章にわたり、アサの治世のことが記録されています。歴代誌は、北イスラエルでなく南ユダの立場から書かれているのであることを考えに入れても、これほど特筆すべきことを記録した王は、ダビデやソロモンといったスーパースターを除いては、殆どないように思われます。
アサ王の信仰については、記者は十分評価しているように見えますが、その政策はどうだったでしょうか。治世の最初は「平安を保った」(14:1など)というので、まずまずです。イザヤ書30:15の「落ち着いて信頼すればあなたがたは力を得る」の「落ち着いて」の表現がとられています。
しかし、大国に挟まれた位置にあったイスラエルには、危機が迫っていました。聖書記者は、その中でも平穏であったのは、アサ王の「宗教改革」の故である、と評しています。アサ王自身が「主を尋ね求める」ことをしたからです。
アシェラ像を壊し、民に主を信じさせます。高き所と香の台を取り除きます。「高き所」とは何か。いまひとつはっきりしないようなのですが、何らかの犠牲を献げる場所だったようですし、時にそれは偶像礼拝に結びつくものであったようにも推測されます。偶像を破壊した王は、主を信じて実行した王が幾人もいたかもしれませんが、「高き所」まで取り除いた王は、他にヨラム、ヒゼキヤ、ヨシヤくらいか見当たりません。
さて、大国に囲まれたイスラエルの位置に加え、北イスラエルとの関係もよくありません。同じ民族であると言いながら、考え方の違いにより道が分かれました。あまり好い例ではないかもしれませんが、韓国が北朝鮮に対して警戒の念を怠らないのと重なって見えます。
アサ王は、ユダの町々に防備設備を築きます。城壁、櫓、かんぬきといった具体例も書かれています。しかも、私たちが主を求めたから、この壁は破れない、との信仰を根拠に、民の信頼を集めたのでした。
しかし、南からも敵は狙ってきます。聖書の舞台であるユダやイスラエルは、大国間の交通の要地にあるのです。アフリカからでしょうか、クシュ人ゼラフが、膨大な軍を率いて近づいてきました。
ここでアサは、主に助けを求めます(14:11)。ユダの軍勢は、敵の半分強くらいのものでしたが、アサはとにかく主に寄り頼むことをした、と記者は記録します。人の数ではなく、神に信頼したのです。主はこの祈りを聞き、クシュを打ち破ることができました。
◆アサが頼るべきもの
アサ王の治世は、40年を超えるほど続いたと記録されています。これだけ長く一人の王が上に立っていると、世の中も変わるでしょう。そして王の姿勢も、多少変わってくるものと思われます。
先ほど、アサ王が「高き所」を取り除いた、と申しました。確かに14:2を見ると、はっきりそう書いてあります。しかし、時期が空いて15:17になると、このように書かれています。
高き所はイスラエルから取り除かれなかったが、アサの心は生涯を通じて主と一つであった。(歴代誌下15:17)
アサの心は信用されていますが、「高き所」は取り除かれなくなっています。
このとき、アサ王の母マアカが、アシェラという偶像崇拝をしていたため、王母の地位から退けたという記事があります。その行為は信仰的にはよかったのですが、このように王の身内にまでも偶像礼拝が忍び込んでくるくらいですから、「高き所」についての押さえも利かなくなっていたのかもしれません。
つまり、アサの信仰にも、衰えが生まれた、ということです。アサ王自身の評価は下がったとは言えませんが、それでも、時が流れるにつれ、アサの心にも油断が生じたのでしょうか。あるいは、人間がまるくなったら、そうなる、ということなのでしょうか。
ユダは、北イスラエルのバシャとの対立が大きくなると、さらに北にあるアラムの王ベン・ハダドに接近します。賄賂を送るように金銀を贈り、北イスラエルを侵攻してほしい、と頼みました。その騒ぎで、ユダに向かっていた矛先を収め、イスラエル軍は北の防備に走ります。その間に、ユダは北イスラエルの南部を陥れました。
問題は、ここでありました。政治的には優れていたかもしれない、この政策について、予見者ハナニが来て、猛烈な批判を浴びせます。このハナニについて、聖書は「予見者」というような表記を用いており、普通よくいう「預言者」という語を使っていません。預言者は、主から言葉を受けて預かる者です。しかし予見者は、先々を見通すということはあるものの、それは主の言葉を語るというよりは、主から与えられた才能により知恵が授けられ、語るというような違いではないか、と想像することができます。
いまの時代に、予見者はいるかもしれませんが、果たして預言者はいるのでしょうか。いるべきだとは思いますが、安穏と楽観しているよりは、いないものだと感じます。むしろ、神から言葉を預かったから自分は正しい、という構えの人がいるようで、私には危険な存在だというように見えます。
ハナニがアサ王を批判する場面が、今日お開きした聖書の箇所です。やっと、ここまで辿り着きました。ハナニは、アラムに依り頼んだことを、愚かだと言い切ります。アサは、神に聞くよりも、自分の判断を優先させてしまったのです。ハナニは、もっと主への信頼に徹すべきだった、と強く指摘します。
ここで、政教が分離した様を見届けます。決して政策としては失敗ではなかったのでしょうが、アサ王がかつて堂々と示していたような信仰的態度ではなかったのは確かです。
ダビデ王は、ナタンに罪を指摘されると、神の前に頭を垂れました。しかしこのときのアサ王は、怒りを表し、ハナニを投獄します。足枷を付けたことがわざわざ書かれています。これは、晩年アサが、足の病で苦しむことになったこと(16:12)に関係しているのだ、とも考えられています。
戦争というものに、神への信仰が絡むと、私たちには少しばかり考えにくいものになりかねせん。信仰で国を動かすのか、政策で国を護ろうとするのか、王たる者の判断にも、難しいものがあったことでしょう。
◆池田晶子
さて、ここで突然ですが、本を二冊ご紹介します。というよりも、二冊の本の中に、「戦争」について分かりやすく記述したものがあったことをお知らせします。どちらも、中学生ないし高校生をターゲットに語られた、「哲学者」の文章です。そして、偶々ですが、どちらも女性の哲学者です。現代日本でよくその本が読まれている二人の、「戦争」についての哲学的な思考に基づく呼びかけを、それぞれに受けてみたいと思います。
まずは、2007年に46歳で惜しまれつつ亡くなった、池田晶子氏の『14歳の君へ どう考えどう生きるか』からです。幾つかの、哲学的なテーマに沿ったエッセイが語られるのですが、中学生に向けて、語りかけている口調が、鋭いけれど優しいように感じられます。
池田氏はもちろんソクラテスを師とするような哲学徒であり、若者に向けても本書のように多くの良い導きをしています。そうなると、この「戦争」というテーマも避けて通れない課題であると思います。論旨を辿ってみます。
まず、日本の平和憲法を評価します。しかし、「平和がよいもので、戦争は悪いものだと思う」のが適切かどうか、問いかけます。「いやなことが悪いことだとは限らない」からです。また、「平和が平和だとわかるのは、戦争というものがあるからだ」という理屈も、確かにあるでしょう。
人間は、「置かれた立場によって、ものの見方」が全然違います。戦争についても、いろいろな立場や見方があるでしょう。では「戦争とは、本当は、何なのか。」
まず事実を押さえておきます。「人間の歴史とは戦争の歴史」であることです。戦争の原因は、「とても一言で言うことはできない」わけで、「どうして自分たちが戦争しているのか、本当はわかっていないのではないだろうか」とも指摘します。
では、「史上のすべての戦争に共通する、本当の原因」はないでしょうか。池田氏は身を乗り出して言うように告げます。「すべての戦争、どの時代どの場合でも必ず、人間によって行われるすべての戦争は、必ず集団によって行われている」のだ、と。
その集団とは、何らかの「共同体」です。そして共同体とは、「あくまでも人々の「考え」だ」ということを押さえます。「国家」というものが実在しているわけではありません。人間が考えて想定しているものです。考えの中にしかないものは、一種の「作り事」です。たとえそれを「民族」と呼んでも、「人々をひとつの集団に結束させようというのも」同様に作り事の世界なのです。
私たちは、その「共同体のメンバーとしての自分が自分なのだと思い込んでいる」のです。「有史以来戦争を繰り返してきた人間は、すべてこの勘違いを犯している」と池田氏は言います。そして、自分をそのような何者かに規定するということは、「同時に「自分以外の者」をも規定することになる」故に、敵と味方という「対立へと変化する」ことになる、という構造を明らかにします。
だから「戦争とは、「自分たち」が「自分たち以外の者」を、「敵」として武力で排除しようとする集団的な心の動きだと言うこともできる」のです。人は、「正義の名の下に、団結を固くすることもできる」故に、「共同体は戦争という行為を正しいものにしてくれるのだ」という指摘は重く感じられます。
しかし、哲学者は強く言います。「各人の頭の中にしかない作り事の、正、不正を、どうやって判断することができるだろう。人間にできるのは、現実に存在する人間、現実に存在する個人が、その置かれた現実の中で、いかに正しく行為できる、それだけなんだ」と。「戦争反対」などと「口で言うのは簡単だ」けれど、、もっと深いところのものを「見抜いてゆくこと」を大切にする著者のスピリットが強く吐き出されていると言えます。だから私たちは、「考えることをやめられなくなる」し、それでよいのだ、と結んでいます。
◆永井玲衣
次は、2003年生まれの若い哲学者。いえ、本人は「哲学研究者」と称しています。著書がよく読まれていますが、哲学に関する様々な活動をしていると聞きます。
今回は、その著書ではなく、この5月に発売された、岩波ジュニア新書『生きるためのブックガイド』に寄稿されたものを取り上げます。これは、1979年以来発行されてきた岩波ジュニア新書の1000冊目の本として記念出版されたもので、22名が、64冊の本を薦める形式となっています。中高生を対象に組まれた新書ですが、私は大人でも十分役立つものばかりだ、と常々考えています。
そこに寄稿した永井氏が、選んだ3冊の本の根拠としたテーマが「戦争」でした。これは私にとっては新鮮なふうに思えました。もっとお洒落な話題でもよかったのに、しかし、気になって調べたら、ふだんからこの人は、戦争と平和について発言し、また活動をしているようだと分かりました。
まず、考える材料として、「対話」を挙げます。「対話」は「話しあい」というよりも「聞きあい」として捉える方がよいと提案します。「対話」とは、「暴力ではなく言葉のちからで相手とつながろうとすることでもある」と告げると、「いちばん拒みたい集団のあり方は、戦争です」と断言しました。それは永久に声と言葉を奪うことでもあるからです。
戦争についての語りでは、よく後に「しょうがないことだった」という言葉を聞くことに、筆者は怒りを覚えます。しかも、そういう気持ちが自分の中にもあることを見つめています。それはとても大事なことだと思います。
さてそこで、原爆ということについての本を読む必要が起こるのだと言います。「しょうがない」ことにさせないために、ひとびとが社会を変えようとする試みこそが、「社会運動」なのだ、とも言い、私たちの行動が必要なのだ、と伝えます。また、だからこそ、問い続けなければならない、と言いますが、これは池田氏とやはり同じことにつながるでしょう。哲学とは、そういう問う姿勢がその営みであるはずなのです。
さらに、最後に推薦するのが、この岩波ジュニア新書であるというのが、やや宣伝的に思われるかもしれませんが、カント哲学入門としての『自分で考える勇気』でした。カントは最大級の哲学者です。哲学書は難しそうに思われますが、「仲間と協力しあいながら読み進めるものなのだ」というヒントを掲げます。これは、永井玲衣の真骨頂であるとも言えるだろうと思います。いつも口にする「哲学対話」というモットーが、こうして裏打ちされているように見えてくるからです。
そのカントの本の著者である御子柴善之氏が言うには、平和という問題は、「日本で過ごしているひとには実は身近な言葉だ」ということです。日本国憲法の前文に「恒久の平和」という言葉があるからです。憲法が、押しつけだとか理想論だとかいう、気分的な訳知り顔の者が、ここから消え去るような気がしました。
永井氏は、「自分で考える勇気」という題の意義についても、さらに触れます。戦争について「考える」こと、対話することには、確かに勇気が要ることでしょう。でも、「たくさんの声をきくからこそ、自分で考えることができる」という言葉は、本書の意義をすべて締め括るほどの力をもっているのではないでしょうか。「戦争を欲しないならば、本を読み、声をきき、一緒に考えませんか」と結ぶその短い紹介は、もっともっと注目されてよいと私は思うのです。
◆平和をつくる者
戦争のことや戦争の噂を聞いても、慌ててはいけない。それは必ず起こるが、まだ世の終わりではない。(マルコ13:7)
聖書は、世の終わりを想定します。人間が招くことでもありますし、神の裁きというものがあることを、この信仰は前提しています。しかし、それを恐怖の対象として遠ざけるのではなく、神の救いの成就の中で見出したいものだと思います。
「戦争の噂」は、いまも日々報道されています。当事者でない限り、それは「噂」のようなものに過ぎません。でも、国際化時代に於いて、戦争は一部の地域だけの問題ではありません。世界的に協力して、なんとか回避したいとも思います。というのは、「戦争」という言葉の意味が、聖書に書かれてあるその時代の「戦争」とは、もはや全く別のものになっているからです。80年前に一応幕を閉じた大戦も、それまでとは相当に違う「戦争」の姿となりましたが、いまやそれさえも霞むほどに、ひとつの動きで世界が破滅しかねないものとなっています。このことは、最初にも触れました。
私たちは、祈ります。そしてまた、言葉を発し、行動することも必要かと思われます。しかしまた、自分本位な「正義」を主張して片付くことではないことも、弁えます。人間の正義、自分の正義ではなく、神の正義とは何かを、問いたいのです。
いまは、「戦争と正義」について、イエスのこの言葉を、深く胸に刻みたいと願います。世界が、そして私が、ピースメーカーとなることを望みつつ。
平和を造る人々は、幸いである/その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ5:9)