してはいけない

2025年7月11日

迷惑を受けているから、それはしてはいけない。そのように主張することもあるだろう。他方、自分は何も迷惑を受けてはいないが、それはしてはいけないから、してはいけない。そのように言いたいときもあるだろう。
 
どちらも、「してはいけない」という結論だが、意味合いは異なる。
 
福音書で、イエスは、ファリサイ派の人々や律法学者たちに対して、とてつもなく対抗意識を燃やしている様子がよく分かる。ファリサイ派という呼び方がすでに、根性の腐った奴のように響いてくることすらあるのだが、それは、先の「してはいけない」の後者に当たるようにも思われる。
 
社会的・歴史的な背景もあるから、事はそう単純ではない。私たちも、福音書から何をどう受け取るかという点については、個人差もあるだろう。それぞれの人が、自分の現状に応じて、自分を見せられるようにしながら、イエスに出会ってゆくことになるだろう。
 
自分が変えられること。自分が当事者になってゆくこと。聖書の言葉が、そのように作用するとき、神のもたらす救いというものを、その人は経験することになるだろう。
 
そのとき、「してはいけない」の言葉が、改めて自分の中に打ち込まれるに違いない。聖書の中にも多くの「してはいけない」があるが、しばしばその表現は、「するはずがない」と神が言っているのだ、と説明されることがある。十戒が特に有名である。その意味が迫るとき、その人は聖書の言葉に、生かされることだろう。その意味で、神の言葉はひとを生かすと言えることだろう。



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