子育てと教育の行方
2025年7月9日

私たちの、あるいは私の「常識」というものは、時代や地域が違うことで、全く正しいものとはならないものだ。
きちんと調べているわけでもないし、知識があるとも言えないので、話半分に聞いて戴きたいのだが、子どもをどう育てるのか、という人類のすべてが関わる問題にも、思惑の違いが歴然としているように見える。
プラトンの『国家』に描かれる、妻子の共用のようなものは、まだフィクションの域を超えないはずだが、ローマ帝国時代に、父親が認知するかどうかで子の運命が変わったというような話を聞くと、ずいぶんと世界観が変わってしまうような気がする。否、それは現代社会にもこっそりあるのかもしれない。
近代ヨーロッパでも、子どもを捨てるというようなことは当たり前のことで、捨て子養育院が育てていた、というような常識があったように聞いている。歴史に詳しい方から実際のところを学びたいとも思う。教育論をあれほど熱心に綴ったルソーが5人も子どもを捨てたなどという逸話から、私にはそうしたことに目を開かせたものだった。だがそれはもう、当時は問う必要もないほどの「常識」であったのだ。
少子化の中で、一人ひとりの子どもが大切にされているとすれば、それはまたよいことかもしれないが、中国のいわゆる「一人っ子政策」が35年ほど続いたことは近年のひとつの驚異だが、そもそも「国家」がそういうことを法で決めるということの是非も、考えねばならないであろう。
それはまた、「国家」が人の結婚や出産を応援するという、逆の政策にも言えることではある。出産のみならず、結婚そのものを奨励しなければならない、というのはどうしてなのか。経済的あるいは社会的な条件が、結婚を無価値に思わせているとすれば、政策自体が、そうさせているということが根柢にあると言えるのかもしれない。
捨て子という制度も、子を殺すよりはずっといい、と考える人もいるだろう。親が生活できなくなると、残される子が不憫だからまず子を殺してから親も死ぬ、というような発想が、日本では「常識」めいたものとしてあるのだとするならば。
経済的背景が、子どもに対する考えを変えるという側面も確かにある。しかし同時に、同じ社会にいながらも、若い世代がどのように子を育てるのか、その価値観というものがどうなのか、気になるものである。親に自分が育ててもらったことから、それを当たり前のように思うのか。その逆もあるのか。
私たちの世代も、その親世代から見れば、実にふがいない、頼りないものであったことだろう。そしていま、私たちの目から見て、子育てそのものも変化していると見なされ得る。ただ、子どもをどう教育していくのか、という次の展開になったとき、生活教育をしようとしていないように見えることがあるのも事実である。自分たちもそう見えたことだろうが、いまの子どもたちがどう育ってゆくのか、気がかりでもある。
単純に善悪で測るようなことはできないし、しないつもりだ。子どもそのものは信頼したいし、できると思っているのだが、どう育てられるかということについては、不安な材料があるのも確かだ。
そうなると、人間教育というものも問題である。なるほど、政治家世代の「常識」が、子ども世代の「常識」からすればズレているというのも、こうして年齢を重ねてくると、納得がいく。だから、「思想」というレベルで、そこに関わることにも意味がある、とは考えている。日々、子どもたちと向き合う中で、水の上にパンを投げるような営みでも、実践している自分だが、一抹の責任を抱き、実践しているのだというところは、忘れることができない。
時代がどう変わろうとも、変わらない人間性というものは、何かあるに違いない、とは思っている。聖書の解釈にも、時代的なものはあるわけだが、自分の思い込みだけがすべてだ、と決めつけることがしにくい中で、それでも何か変わらない信頼や愛というものが、あるに違いない、と根柢で信じているのと、どこか似ているかもしれない。