【メッセージ】たとえ語っていなくても

2025年7月6日

(ヨハネ一5:1-12, ネヘミヤ9:15-21)

世に勝つ者とは誰か。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。(ヨハネ一5:5)
 
◆勝利
 
不思議な手紙です。「ヨハネ」の名前がついています。そういう手紙が、三つ残っています。なかなか魅力的な手紙です。生活についてああだことだ、と述べていないわけではないのですが、どうにも「愛」という言葉が全体を包んでいて、いくらかロマンチックな気持ちにもなります。
 
「罪」についても確かに触れているのですが、パウロの手紙のように、鋭く突き刺さってくるような感じがしません。「罪」という言葉もパウロと同様出てきますが、全体が「愛」というオブラートで包まれているからです。
 
今日は、このヨハネの手紙一の5章から、神より与えられるメッセージを受け止めたいと願っています。「愛」ということについても間違いなく関わるでしょうが、できるだけ、その背景にあるものについて目を留めたいと考えています。
 
4:神から生まれた人は皆、世に勝つからです。世に勝つ勝利、それは私たちの信仰です。
5:世に勝つ者とは誰か。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。
 
1968年に月2回のまんが雑誌として創刊し、翌年に週刊となった「週刊少年ジャンプ」は、その後少しして、三つのモットーを掲げたと言われています。それは「友情・努力・勝利」という三大要素です。まんが週刊誌としては後発だった週刊少年ジャンプが、その後1995年に、653万部という発行記録を打ち立てるに至るのに、この三大要素のいずれかを盛り込むべきだという編集方針ができたのだそうです。
 
その後、「努力」はどうかしら、という意見を交えながらも、「勝利」は揺るぎなく輝いているようです。勝利を目指す、あるいは勝利が与えられる、そうした希望がなければ、前進できないどころか、試練に堪えることもできないかもしれません。もちろん、勝利は約束されるものではありません。努力か幸運だか、勝利は手にしたいものではありますが、ともかくその反対の敗北を味わいたくはない、と誰もが思うことでしょう。
 
キリスト教の結論は、ある意味で簡単です。「世に勝つ者とは誰か」それは「イエスが神の子であると信じる者」に外なりません。信仰すれば勝利を得る。それがないと、信仰する意味もきっとないと思うようになるでしょう。
 
ここで、「神から生まれた人は皆、世に勝つ」という言い方もなされていました。「私たちの信仰」はそうなっている、と。そしてそこから、手紙の論理は目まぐるしく変化しながら展開します。最後には、命を持っている云々というところにまで行き着くのですが、慌てることなく、ヨハネの手紙を受け止めることにしましょう。ただ、おおまかな粗筋としては、「信仰」「勝利」、そして「命」という過程を辿るようであることを、確認しておくことにします。
 
◆血
 
ただ、それらはスムーズにそのまま流れてゆくものではないでしょう。信仰を求める人にとっても、「信じれば勝利です」と言われたところで、それではどんな神々でも掲げて信じればよいというような、「宗教」一般と何も変わらないことになります。キリスト教に、人がそうしたものを求めているとは、考えられません。
 
必要なものは、「十字架」です。それについては、いろいろな表現が可能です。十字架とはこれこれだ、といま私が言い切ってしまうのは無理ですし、一人ひとりの信仰の中核に、それぞれの十字架との出会いがあるだろうと思います。
 
新約聖書の中にも、十字架の意味が綴られることがあります。それぞれの筆者の体験がそこに反映されることでしょう。かなり教会の信条のようにしてまとめられていることもあるでしょう。その教条を、意味もよく分からずに口で唱えて、それを口にすれば信じたことになる、という理解も、ないわけではありませんが、私はそれはどうかしら、と思います。
 
けれども、聖書を実に細かく読むタイプの人もいます。聖書マニアであるのかもしれませんが、中には、聖書については実に細かな研究を重ねる組織があって、現在を含めて歴史上の凡ゆる教会は、聖書を正しく読んでいない、と断定することがあります。このヨハネの手紙に於いても、いったいどこに「十字架」なんて書いてあるのだ、とそうしたアンチ派は主張するのでしょう。
 
確かに、ヨハネの手紙には「十字架」という語は見えません。それどころか、そもそも普通「十字架」と訳されている語は、せいぜい「木の杭」しか表さないし、イエスが架けられたのは十字形にはなっていなかったはずだ、などと言って、あらゆる「十字架」を否定する場合さえあるのです。
 
一般の聖書学者の中にも、そのようなタイプの人はいます。書かれてある文字については、その活用などにも徹底的にこだわって、鋭い指摘をするのですが、たいていは途中から自分の想像に走ります。そうしておきながら、自分の信念であるような考えこそが聖書の伝えていることだ、と断定していってしまうことがあるようです。そういうのを見聞きすると、私は「文字は殺す」(コリント二3:6)というような言葉が頭に浮かんできます。信仰はそれぞれであってよいのですが、教義を自分の思う通りに定めようと、迷える羊に圧力をかけることは、イエスが福音書できつく禁じていることではないでしょうか。
 
同じコリント後書には、「私たちは、見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に存続するからです」(4:18)という言葉もありました。見えるものだけでなく、見えないところに目を注ぐことも大切ではないだろうか、と思います。
 
実はこの手紙にも、「血」という言葉が告げられています。
 
6:この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、霊はこのことを証しする方です。霊は真理だからです。
7:証しするのは三者で、
8:霊と水と血です。この三者の証しは一致しています。
 
いやいや、ただの「血」ではないか。「十字架」のことではないし、イエスが人間として死んだということを言っているに過ぎないではないか。――そのように解釈する声が、聞こえてきそうな気がします。
 
なんだか、科学の実験をしているような気持ちになってきます。聖書を標本として観察し、実験するのならば、それはそれでよいのかもしれません。要は、それがただの文献であり、学問として証明するしかないものなのかどうか、その辺りの問題なのでしょう。
 
何も、神学は無駄だ、などと私は決して言いません。神学的な研究をじっくりしてくれる人々によって、どれほど聖書について豊かな知識がもたらされることかと思います。ある場合は、自分勝手な思い込みがどうやら違うようだ、ということに気づかされますし、ある場合は、昔の人はそういう目で見ていたのかもしれない、としみじみ教えられることがあります。学者の指摘により、いよいよ深く神の心が迫るような思いを感じることもあります。しかし、鋭い切れ味の刃物は、その使い方が重要です。
 
◆愛
 
さて、先に、「世に勝つ者」というのが、「イエスが神の子であると信じる者」だ、というように書いてあるところを読みました。その人は、「神を愛し、その戒めを守る」はずです。つまりは、律法を守れ、ということなのでしょうか。律法の細々としたことを守らなければならない、として、それのできない庶民を高みから見下ろしていたのは、ファリサイ派の人々や律法学者たちでした。イエスは彼らを、とことん嫌いました。
 
もちろん、人間として憎んだのではありません。そういう考え方、生き方は、神からのものではない、と突きつけたのです。だから、ファリサイ派の人の家で食事をしたり、親しく交わったりしているような様子も時に描かれます。
 
イエスは、一つひとつの律法を守るように強いることはなかったと思います。神の国、あるいは永遠の命のために、二つの根本的な戒めだけは示しました。マルコ伝12章です。
 
28:彼らの議論を聞いていた律法学者の一人が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる戒めのうちで、どれが第一でしょうか。」
29:イエスはお答えになった。「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。
30:心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
31:第二の戒めはこれである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる戒めはほかにない。」
 
律法の要は「愛」であることが示されています。ヨハネ伝はこの流れだと思うのですが、愛することの内に、戒めを守ることを含めて考えています。
 
あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:34)
 
そして今、ヨハネ伝の流れを汲むこの手紙でも、そのことを重ねて主張します。  
2:神を愛し、その戒めを守るなら、それによって、私たちが神の子どもたちを愛していることが分かります。
 
後半は、隣人愛を指し示しているものと思われます。神「から生まれた者をも愛」するものだ、とここでも述べていました。ヨハネ的な隣人愛は、仲間内に限るような言い方のところもあります。実際そうだったのではないかと私も思います。迫害してくる敵に囲まれて、その敵を愛するということを私たちが彼らに強いるならば、私たちは最高度に残酷で冷酷な悪魔のようになってしまうでしょう。懸命に教会を護ろうとするとき、教会の中に愛があるのだ、愛し合おう、と叫ぶことの、どこが足りないのでしょうか。
 
神を愛し、隣人を愛する。互いに愛し合うという姿がそこにあります。そしてその愛は、二つのことではなくて、一つのことだと言えるようにもなるでしょう。これこそが、「世に勝つ」ということのエッセンスではなかったでしょうか。
 
◆霊
 
手紙の筋道は、イエス・キリストとはどういうお方であったか、に向かいます。
 
6:この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、霊はこのことを証しする方です。霊は真理だからです。
 
イエス・キリストは「水と血を通って来られた方」だと言っています。「水」は、洗礼を表しているのかもしれません。私はそれに加えて、「生ける水」に注目したいと思います。サマリアの女との対話の場面でも、「生ける水」という言葉が登場しました。が、より多くの人に叫んだ言葉として、祭りのあの場面での言葉が印象的でした。
 
私を信じる者は、聖書が語ったとおり、その人の内から生ける水が川となって流れ出るようになる。(ヨハネ7:38)
 
「血」については、さしあたり十字架の死を思うことで私などは手一杯です。そしてそのことは、先ほど少し読み込んでみました。いまは、この「水と血」とを前提として、そこに「霊」が関わっていることに心を注いでみたいと思います。
 
「霊は真理」だと言います。「真理」という言葉とその考えについては、先々週に受け止めてみました。真理はイエスのことでした。そのイエスに出会うことが肝要でした。その出会いを出会いたらしめるのは、聖霊の力でした。霊の意義は、イエスを救い主だ、真理なるお方だ、と全幅の信頼を以て知ること、出会いを体験することにありました。
 
何故信仰をもつことができたのか。それは、自分では説明がつかないことなのです。自分の外からくるものだ、と想定した方が無難でしょう。ただ、信じた。もう信じるしかなかった。どのようにも言えましょう。とにかくイエスと出会ったのだ、そういう言い方に尽きる人もいるかと思います。その一つひとつの事例が、キリスト者一人ひとりの人生です。また、そういう一人ひとりの証言のことを、「証し」と言います。
 
ここでも、「霊はこのことを証しする」という言い方がありました。イエスが水と血によって私を救ってくださった、ということは、私の信仰告白でもありましょう。そして、そのように導いた主体は、神です。いえ、導いたのは実のところ「霊」としか呼ぶことができないお方だと言ってよいでしょう。「聖霊」とも呼べます。キリスト教は基本的に、この聖霊もまた、神だとして見ています。
 
◆証し
 
7:証しするのは三者で、
8:霊と水と血です。この三者の証しは一致しています。
 
先ほどは、「水と血」という現象めいたものが浮かび上がり、その背後に「霊」が働いている、という見方が記されていたように思われます。しかし込んでは「霊と水と血」が横並びしています。しかも、それらが「証し」するのであって、さらに「三者」などと呼ばれています。もちろんそれは日本語訳の綾であるかもしれません。ギリシア語では、そこに「3」があるだけなのですから。ですから、いま私たちは、擬人化した「三者」という表現に拘泥せず、三つのものとして捉えておきましょう。「霊」をそう数えるのに抵抗があったから、「者」としたのかもしれませんけれども。
 
イスラエルは、動物の血を流すことで、神に赦しを戴くという儀式を、律法を根拠に、長く続けてきました。農業主体の環境を見慣れている私などには、ずいぶん残酷な気もします。しかし、農業なら農業で、穀物を神に献げるという儀式は確かに日本にもあるわけですから、狩猟や牧畜が主体の生活環境にあれば、それが動物であるということは、さほど不思議ではないことになるでしょう。アイヌ民族には、そういう考え方が強くあったのかもしれません。
 
水については、どうしても洗礼者ヨハネが思い浮かびます。しかし、旧約聖書の時代にも、水で身を清めることは行われていました。特に、祭司が職務に就くときに、予め水で洗い清めてから、祭壇に近づく、という場合が細かく規定されています。庶民としては、汚れを経験したとき、体を洗うことも必要でした。あるいは、汚れに留まらず、「罪の清め」というものもあり、儀式として水は重要な位置づけがなされていたのでした。
 
しかしここで、「霊と水と血」が「証しする」という意味のことが書かれています。「証しする」とは、キリスト教世界でよく使う用語の一つです。自分が救われた「証し」を語る、というように使います。どのようにして自分は罪の中から神の救いを与えられたか、それをはっきりと他の人の前で告白するようなときに使います。
 
しかしそれだと、「霊と水と血」が主語のときに、説明しづらくなります。日本語だと、「証言する」とか「証明する」、あるいは「証拠立てる」とかいう言葉が仕えるような気がします。ということは、この概念は、漢字の「証」という字がもつ意味合いを伝えるものである、と見てよさそうな気がします。「その証拠となっている」とでも言いましょうか。
 
しかも「霊と水と血」が主語であるというのは、やや無生物主語のような趣がありますから、人を主語にすると、私たちは「霊と水と血」によって、何かがはっきりと証明されるように知ることができる、というふうに捉えられるでしょう。
 
5:世に勝つ者とは誰か。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。
6:この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、霊はこのことを証しする方です。霊は真理だからです。
 
証明されるのは、イエス・キリストが神の子である、ということです。キリスト者が信じていることです。キリスト教の信仰は、「神が存在すること」を信じているのではありません。またいずれ詳しくお話しすることができるかと思いますが、「神の存在」を信じているのだ、という誤解が、哲学を奉ずる人の中に時々見られることを残念に思います。
 
さらに、その「霊」が神であるとして、つまり一種の人格的な姿を見出すことも、聖書ではよく見かけます。パウロも、ローマ書8章で、そのような様を描いていました。
 
14:神の霊に導かれる者は、誰でも神の子なのです。
15:あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、子としてくださる霊を受けたのです。この霊によって私たちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
16:この霊こそが、私たちが神の子どもであることを、私たちの霊と一緒に証ししてくださいます。
 
但し、少しだけ言葉を差し挟みますが、この「証し」が「証人」を表す語として現れたとき、その語は同時にまた「殉教者」という意味をも表すことは、弁えておいてよいでしょう。「証言する者」は、命懸けで証言する、ということです。命を懸けた正義と真実が、そこにあります。信仰の「証し」は、時に「殉教」を招くことがあったことは、歴史が、正に証拠立てています。このことは、忘れてはならないのだと思います。
 
◆出エジプトのときにも
 
さて、「霊」は、イエス・キリストを私たちが信じるように私たちに働きかけてくださることがあります。私たちは、自分が神の子どもとされたことを、「霊」によって知ることになります。神は、私たちに「霊」を与えてくださいました。それによって、神から豊かな恵みを受けていることを知ることもできます。
 
旧約聖書のネヘミヤ記に、神のさりげない恵みについて気づくきっかけとなる箇所があるので、ご紹介します。簡単に言うと、あのバビロン捕囚があって、遠い国で暮らしていた人々が、許されてイスラエルの地に帰還し、神殿を築き直そうとする様子を描く書です。
 
民が、新しく歩み始めようとするときに、民の代表者たちが、罪を告白し、神を称えるネヘミヤ記9章には、民が神に支えられて生きてきたことと、それにも関わらず神に背を向けてきたという歴史が描かれています。
 
エジプトを脱出させたのも神でしたが、飢えれば天からパンを与え、渇けば岩から水を与えました。それに対して頑なな先祖たちは、あろうことか偶像をつくり拝み騒ぐようなことまでしてしまいます。それでも――
 
19:あなたは深い憐れみをもって/彼らを荒れ野に見捨てることは/なさいませんでした。/昼は、旅路を導く雲の柱を/夜は、彼らにその行く道を照らす火の柱を/彼らから取り去ることをなさいませんでした。
20:あなたの恵み深い霊を授けて彼らを悟らせ/彼らの口からあなたのマナを絶やさず/彼らが渇けば、あなたは水を与えられました。
21:四十年間、あなたが養われたので/彼らは荒れ野にあっても不足することなく/衣服は朽ち果てず/足も腫れることがありませんでした。
 
神は「恵み深い霊を授けて」、自らを知る道を与えてくださったのです。また、これら神の絶大な恵みについて、そして神の愛について、証明されたと自覚するのです。
 
出エジプト記をご存じない方には、何のことか意味不明でしょうけれど、よろしかったら、その20章辺りまででも、目を通して戴ければ、あるいはダイジェストでも結構ですからお調べくだされば、これらの言葉の背景が納得できるのではないかと思います。
 
いずれにしても、私たちが、このように神の恵みについて覚ることができたのは、神が授けた「霊」によってに違いありません。「霊」が証人として、神のしてくださったことを、私たちが理解できるように、働いたのです。だからこそ、私たちはそれを知ったのです。
 
◆永遠の命
 
ヨハネの手紙に戻りましょう。そこには、清めの「水」も必要でしたが、イエスの流した「血」というものがありました。イエス・キリストの血は、動物の犠牲に遥かに勝る、救いの業でした。尊い犠牲となったイエスの命が、死で終わることなく、復活されられることによって、私たちにも、その救いが与えられることとなったのです。
 
それは同時に、あるいは結果的に、と言った方がよいのかもしれませんが、「永遠の命」を与えられた、というふうに捉えてよいことになるでしょう。それは、「神の証し」を信じる者にとっては、その「神の証し」というものがどのようなものであるか、について、次のように明示されているからです。
 
11:この証しとは、神が私たちに永遠の命を与えてくださったということです。そして、この命は御子の内にあります。
 
私たちは、御子イエスを信じています。でも「信じる」というだけに留まりません。「霊」の働きを身に受けているならば、私たちの内にその「証し」を有しています。つまりは、御子イエス・キリストを内に有しています。だから、「御子を持つ人は命を持って」いるのだ、とヨハネの手紙は断言しています。
 
キリストを信じる者は、「永遠の命」を与えられたということです。そして、それは悪魔に対して、そして神に反する世なるものに対して、勝利を与えられたということのはずでした。
 
5:世に勝つ者とは誰か。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。
 
なんとも強く、頼もしい宣言であることでしょう。私たちは、世で悩みます。挫けそうになります。弱気になります。そのとき、この手紙を開くとよいと思います。これらの言葉は、私たちをきっと立ち上がらせてくれることでしょう。「立ち上がる」というのは、原語のニュアンスでは、「復活する」ことと重なります。
 
ところが、ここでは「復活」という訳語は見られませんし、そのように訳す必要は全くありません。けれども、「復活」「復活」と語ることがなかったにしても、ここには「復活」の福音があるのです。聖書は、言葉尻を探り揚げ足を取るようなことで崩れるような信仰書ではありません。
 
そもそもギリシア語という外国語で書かれているのですから、ギリシア語の活用や用法を証拠に、別の世界の解釈へ走るような必要もないのです。もちろん研究者の成果はありがたいのですが、神の真実を受け取るのは、聖書に向き合う一人ひとりです。その一人に対して与えられる言葉を通じて、神の霊の働きが、命をもたらします。たとえ文字によって語っていなくても、聖書から私たちは、豊かな命を受けることができるのです。そして私たちは、そのことの証人として、顔を上げて明るく歩むことができるのです。世に勝利して生きることが、許されているのです。



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