それを堕落と呼んでよいのか
2025年7月3日

「イランというどうしようもない宗教ファシズム国家はつぶさないといけないと思う。」
こんなことを、良識ある人間の顔をして、全世界に振り撒く者がいる。とにかく自分の考えが世界で一番正しいのであって、それに対する考えはすべて誤りであり、それを主張する者は馬鹿だと罵る。そんなことを、一日中呟いている。
デマを流す者は、簡単にデマにのっかる。それで自分が正義そのものだと思い込むから、最も危険なのである。
しかし誰も、自分がデマを流している、などという意識はもっていない。自分は詐欺に騙されない、という思い込みが最も危ない、という話も聞くから、デマについても、そういうことなのだろうかと思う。自分が正しいと思うことは、なにがなんでも正しいとしか考えられないからである。
『福音と世界』誌で、長らく、「日本的キリスト教」についての連載があり、楽しみにしていた。プロテスタントが日本に伝えられてから、我こそは、と聖書に親しみ、聖書を日本に根づかせようとした先人たちを毎回取り上げていた。
だが日本の軍国主義の時代には特に、天皇や神社との関係がどうなるか、という点で闘いがあったのではないかと思われる。国体とのバランスやそれとの辻褄を合わせようとして、聖書について、いまここから見れば珍奇な解釈を施している思想がたくさんあることを知った。また、そもそもこうした日本の風土で自分が育ってきたものだから、聖書を日本の思想で解釈するという人も多々いるのであった。
それを、今の観点から批判することは簡単である。戦時下の教会を問うことは、確かに大切なのである。「戦時中、日本の教会はなぜ国家に従い、信仰をゆがめたのか?」と問うことは、次の戦争をもたらさないためにも、重要なことである。
ただ、それを「教会の堕落」と捉えることには、私は賛成しない。天皇を拝む教会、戦闘機を献金で納めるなど、褒められたものでないことは承知しているが、それを「堕落」と片づけるようなところに、私は立ちたくないと思っている。
いまずっと、小野村林蔵牧師の全集をちびちびと読んでいる。第二巻は、ほぼ日中戦争前夜から太平洋戦争という、日本が戦争に邁進していた時期の文章が集められていた。1883年生まれの牧師である。生まれたときから、明治大帝の恩恵の社会の中でどっぷりと暮らしてきた。聖書についてはなかなか骨のあるメッセージを出しているのだが、天皇や国体といったことについては、特にこの時期の文章は、実にお国のためという主張を次々と出していた。
だが、牧師は教会を守らねばならない。そのように天皇に賛同していながらも、聖書の福音を語ろうとしていた小野村牧師は、官憲に目をつけられ実刑判決を受けたこともある。それほどに、当時の思想統制は厳しかったのだ。
いまの人権だとか新教の自由だとかいう平和なところに立っている私たちが、戦時下の教会は「堕落」していた、と言い放つことでよいのだろうか。
小野村牧師の声によると、キリスト者は酒を飲まないのが当たり前だったらしい。もちろん、聖書が酒を飲んではならないと戒めていない、ということは百も承知で言っている。だか酒の危険と、酔い痴れてはならないことについては、聖書は確かに触れている。この小野村牧師から見れば、酒もタバコも自由であるかもしれないいまの教会は、「堕落」しているように見えても仕方がないのではないだろうか。その他、男女のことについても、そこから見れば、いまは確実に「堕落」しているように見えるはずだ。
ほんの百年前の小説を見ていても、そこには、信仰生活が生き生きと描かれていることが多い。もちろん、その背景には、女性の権利を認めないとか、同性愛を犯罪とするとか、問題点がないわけではない。だが、聖書にはこう書いてある、神さまは云々、礼拝はこのように、というようなことが、実にあたりまえのことのように描かれているのを見るとき、いまの私たちがなんと世俗にまみれているか、またそれを当たり前で善いことのように自ら見なしているか、省みるべき眼差しを与えられるような気がしてならないのだ。
私は危惧している。「右へ倣え」とか「みんなと同じように」とかいう、同調圧力に弱いことは、日本という風土にしみついた考え方や性質であるだろう。幾分頑固な人間も現れるようになったとはいえ、組織というものは特に、何かと自身の姿勢を弁明するために理屈を立て、「これが正義だ」とか「やむを得ないのだ」とか言って、後の時代からすれば「堕落」と呼ばれるようなことを自己義認してしまうのではないだろうか。
昔はよかった、と言っているのではない。自分だったら、あの先人たちよりも、もっと「堕落」していたに違いない。これから同様のことが起こったら、自分たちはもっと「堕落」するだろう。そのような捉え方から、まず始めることくらいが、まず必要なのではないか。その前提から、そしてその前提に徹して、考えることが必要である。そのように私は言いたいだけである。