神の国と種
2025年6月30日

マルコ伝の連続講解説教。開かれた箇所は4:26-34である。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」(1:15)と宣して、イエスの宣教は始まった。また、それはマルコによる福音書の告知でもあった。説教者は、この宣言によって、「もう待たなくてよい」という意味が伝えられているのだ、と説いた。それはもう「手の届いた」ものであり、「始まっている」というのである。もちろん、それは神の国の完成を意味するものではない。近づいているのだ。
これは、イエスが当時告げたという意味でもあるのだが、その後このマルコ伝を読む人々すべてに、届けられた「よい知らせ」である、とも言うことができよう。
説教者は、近年の「戦争」の知らせの悲しみを目の前に挙げる。コロナ禍で失われた多くの人の命も、悲しい知らせであった。あるいはまた、コロナ禍を含み、世界に嵐のように勢力を増している「不信」と「分断」のことも、私たちは悲しんでいる、とも言える。
だが、マルコ伝の宣言により、神の国は、確かに近づいている。言い方によっては、「始まっている」とも言える。説教者は、この見方を伝えることによって、この説教を「よい知らせ」としようとしたようだ。
イエスはよく「神の国は次のようなものである」と話し始め、目に見えず、手に触れることのできない「神の国」というものを、何か別の方法で覚ることができるようにしている。「たとえ話」は、特に当時の人々にとっては、身近な題材を用い、体験的に納得できること、生活感覚から養われる想像力により感じ入ることができること、それをイエスが企図した成果であった。
しかし、イエスがたとえを語りさえすれば、安楽に伝わったとは思えない。時折説き明かしを弟子たちに向けてしなければならなかったし、聞いて悟らないという事態も当然のことのように予知している。ただ、「神の国を見つけてほしい」という思いで話していたのだろう、と説教者は想像する。それは、説教者自身が今こうして語っているその思いのことでもあるだろう、と私は感じた。
「球根の中には」という賛美歌がある。ナタリー・スリースというアメリカのメソジスト教会の牧師夫人の作詞作曲であるという。いまは日本の『讃美歌21』にも入るほどに有名になったが、最初にその曲が出版されたのは1986年であるという。経堂緑岡教会の松本敏之牧師が、直訳で元の歌詞を公開してくれている。
約束の讃美歌(Hymn of Promise)
1 球根の中には花があり、種の中にはりんごの木がある
まゆの中には隠れた約束。まもなく蝶が飛び立つ!
冬の寒さと雪の中では、春があらわれる準備をしている
その時が来るまでそれは隠され、ただ神だけが知っている
2 すべての沈黙の中には歌があり、言葉とメロディーを探し求めている
すべての暗闇の中には夜明けがあり、あなたと私に希望を届けようとしている
過去は未来へと向かう、神秘を内に秘めて。
その時が来るまでそれは隠され、ただ神だけが知っている
3 私たちの終わりの中に私たちの始まりがある。私たちの時の中に無限がある。
私たちの疑いの中には信仰がある。私たちの命の中に永遠がある。
私たちの死の中に復活があり、最後には勝利がある。
その時が来るまでそれは隠され、ただ神だけが知っている。
この歌詞には、「イエス・キリスト」や「教会」「聖書」といった言葉がない。自然神学的に詠われているが、キリスト者には、これは聖書のことだとよく分かる。新しい時代感覚の中で生まれた賛美歌と言えるかもしれない。
これは正に、本日開かれた箇所に重なり合うところの多い歌詞である。
また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が地に種を蒔き、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。地はおのずから実を結ばせるのであり、初めに茎、次に穂、それから穂には豊かな実ができる。実が熟すと、すぐに鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」(マルコ4:26-29)
私たちは気を楽にすることができる。これはいったいどうなるのだろう。失敗したら自分の責任だろうか。ああ、神よ、なんとか成功しますように。
私も日々、そういう思いがよく湧き起こってくる。とんでもない失敗をし、それが悪い結果をもたらさないように、と祈り願うのだが、ここのところ、ぎりぎりでそれが助けられ、大きな悪につながることから守られていることが多い。この試練を神は私には荷が重すぎると思われたのだな、と感謝することが幾度もあった。
イエスはさらに「神の国を何にたとえようか」と問うが、もちろんこれはレトリックである。「神の国は次のようなものである」と基本的に変わるものではないはずである。
また、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。地に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」(マルコ4:30-32)
「からし種」は確かに小さいようだ。聖書の植物は、果たして私たちがそう訳している通りでよいのかどうか、いまのどれそれの植物のことだと言ってよいのかどうか、確実でないこともあると聞く。特に旧約聖書となると、たとえば「私はシャロンのばら」(雅歌2:1)というその植物も、諸説あるらしい。「からし種」は、種の小ささが特徴であるだろうが、さて、私たちのイメージと一致するのかどうか、私はよく分からない。
かつて、京都で学習塾の一支部を任されたことがあった。キリスト教系の塾であり、教室をたたむ経緯の中での任務であったが、少ない生徒たちに、独自に「成績表」を学期毎に渡すことにした。塾としてそういうことをするのは異例であろう。塾内でのテストや学習姿勢について、一人ひとりコメントという形での応援メッセージを書き送った。私はその「成績表」のタイトルを、「からしだね」にした。ここでの小さな努力は、決して小さなままで終わるものではない、という思いを伝えようとした。
この「からし種」という名は、調べると、社会福祉団体の名前にちらほら使われているようだ。もちろん聖書を知る組織であると思われるが、世の小さな存在に、勇気を与える名前であるには違いない。
説教者は、蒔いたことさえ分からないほどに小さい種だが、いつかそれは大きく育ってゆくことを告げた。神の国もまた、そうなのだ。そこには、数字では見えないもの、計算できないものの実在が隠れている。神の言葉は実現する故に、言葉と存在とが一致するものと理解されているが、神の約束も必ず成就するのだから、小さな確信を軽く見てはならない、ということを伝えようとしたのではないかと思われる。
数字を頼りにて、その数字から計算したり、統計を考えたりすることは、社会的には大切な段取りであるだろう。だが、神の国の原理は、数字に基づき、推測できるというタイプのものではない、というわけだ。それどころか、私たちはこのからし種を蒔いているのだ、という点へと、メッセージはシフトしてゆくようにさえなる。
そのとき、私たちは当然、伝道ということを考えてよいのだが、如何にも伝道するぞ、伝道しました、という自認がそこに必要であるのではないことに、気づかねばならない。私たちは、自ら気づかずして、からしだねを蒔きつつ生きているのかもしれない、という視点を、メッセージはもたらそうとしていたのだ。
エゼキエル17:22-24を説教者は引いて、この箇所との関連を説いた。杉の梢を挿して高い山に植えると、見事な杉になる、という預言だ。だが、イエスがこれを読んでいたが故にこのたとえへつながったのだとしても、イエスの場合は、先の「地はおのずから実を結ばせる」という神の業への信頼がさらに強く、深いものとなっているように思う。
からし種は小さく、弱い。だが、その弱さの中にこそ、神の国が働いている。イスラエルが小さな国であったからこそ愛し導いたのだ、という申命記のメッセージは、ここにも活きている。説教者はこのとき、「慰め」という言葉を選んだ。弱い私たちの中に、神の国がすでに始まっている、ということは、大いなる「慰め」ではないか、と。
「慰め」と聞くと、どうしても私には、「魂の配慮」=「牧会」という路線と、教会が「慰め」そのものであれかし、という構図が心の中に浮かんでくる。そして説教が、その「慰め」を語ることにこそ、命を与える力がある、というようなつながりが迫ってきて、切なくなり、またうれしくなる。
説教者はさらに、説教に限らず、聖書に立って言葉を放つ者は、聖書が、私たちに夢や幻を与えるということを忘れずにいたいことを示す。私たちはこの朝、神の国が小さなところで、すでに始まっていることを知った。いま感じられなくても、目に見えることがなくても、小さな種が命を含んで芽生えようと、すでにそこにある。小さな陰で、神の国は確実に始まっているのだ。たとえ世の中で目立つものではなくても、他人の賞賛を得るようなことがなくても、そうである。
但し、そのためには私たちが種を蒔いている必要がある。自ら気づいておらずして、蒔いていることがあるのは本当だが、意識することも当然あってよい。そのとき、私たちが蒔いたのであるにしても、育てるのは神だ、ということを忘れないようにしたい。
そんなうまく蒔かれているなどということがあるだろうか。そういう疑いは、少なくとも重大な事実を忘れているところから発される。私の内へも、そのからし種がいつしか蒔かれていたのであって、だからこそ私は神の前に立ち、神の前に罪あることに気づき、神の救いに与ったのである。ここに私が救いを知っている限り、それはいつしかどこからか、からし種が蒔かれていたということの、何よりの証拠ではないか。
あの賛美歌の元の題がそうであったように、神の勝利が「約束」されている。今日はその「約束」を信じることの重大さを、改めて教えられることとなった。「新約聖書」とは、新しい「約束」の聖書、と受け取った方が、どうやら分かりやすそうである。