ドラマや映画に
2025年6月27日

妻はテレビドラマが好きである。テレビというものが好きだ、と言ったほうがよいかもしれない。が、ドラマに関しては、自身が医療従事者であるせいもあり、医療ドラマには関心が強い。
だが、作り事ではない本物の現場を日常としている人間である。いくらテレビドラマではあっても、医学的にありえないことについては、厳しい。というより、違和感がまず入るらしい。
私のような者に、それを逐一説明することはできない。また、特定のドラマにケチをつけるようなふうに受け取られても困るので、聞いたことを控えめに話すことにする。
もちろん、そんなに手術がうまくいくはずがない、などという程度の意味ではない。フィクションなのだから、天才外科医がいても、それはそれでいい。問題は、医療の現場からして、許されないような場面が平気で表現されていることだ。
多くの場合それは、衛生管理についてである。妻の表現を借りれば、オペの前に手洗いもなく、ドクターが髪を振り乱してオペをする、といった具合である。麻酔科が登場しないのは場面の展開の故かもしれないが、看護師もいつもお決まりの顔しか登場しないと、大病院らしくないようにも見える。いや、そんなことはどうでもいいかもしれない。移植のオペの場面とは思えないような描き方には憤りすら覚えることがあるという。オペ後にクリーンルームもなく、一般の病室に、普通の恰好のドクターが室内に平気で入ってくる。免疫抑制剤を呑んでいる中、雑菌を振り撒くような場面があると、見るに堪えない。
たとえそれが流行のドラマであっても、ストーリーに必然性があるような演出でもないくせに、現実にそんなことがあったら大問題になるというか、絶対にできないような場面が、平気に描いてあるとすれば、病院とはそういうところなのか、と誤解されかねない怒りすらこみ上げてくるわけだ。
私も、塾業界が、子どもたちに暴力的なやり方を普通のことのように描いていたら、腹が立つだろう。そういうドラマがあったかどうかは、ドラマを殆ど知らない私には判断できないが。尤も、現実には、塾でもあったが、学校内ですら、盗撮と公開という、信じられないような事案が発生している。
だらしない教師が、実は生徒の心を掴みかっこよく振るまい、校長や教頭をぎゃふんと言わせる、というようなことは、昔の青春ドラマでは度々あった。それが人気だったのだろうが、あれも、教育現場の人たちが、どういう思いで見ていたのか、気になる。尤も、面白ければそれでよく、現実はああではない、という了解が常識であったというのなら、すべてはお遊びであったということで、丸く収まるものなのかもしれない。
病院ドラマでも、看護師たちが勤務中にゆったりと人の噂話にかまけている、というようなコミカルな場面に対しては、「そんな暇があるか!」と叫びたくなることもあるだろう。人の命を預かる、言わば戦場のようなところなのである。きゃぴきゃぴ遊びの話をして騒ぐなど、いくらドラマでも、描いてほしくない。最初からドリフターズのギャグだと分かっていたなら、まだ分かるのだが。妻にしてもまだそれならば、お遊びだとせせら笑う程度でいられるかもしれない。ただ、普通人が知ることの少ないような、医療現場に誤解を与えるような描き方には、リアルな描き方をしていてそれだったら、始末に負えない、と見るのではないだろうか。
しかし、実際にはしないであろうことを演者がしていたとしても、作品全体のために、受け容れてもよい、とされることもあるだろう。
映画「国宝」の中に、歌舞伎の世界からすれば、あれはないだろう、と思われる描写もあるにはあったらしい。だが、作品全体については、見事だったと言ってよいらしく、歌舞伎界からも絶賛の評価が出ている。確かに、私のような者でも、歌舞伎に関心をもてた。第一、美しかった。演技の見事さやスタッフの努力はもちろんであるが、もしかすると、日本の伝統芸能の運命をも大きく変えるかもしれない作品となったかもしれない。
妻は、博多座に何度か本物の歌舞伎を観に行っている。それは医院の方針であるが、それで、「国宝」は絶対に観たい、ということで、私もついていったのだった。特に吉沢亮くんについては、映画「ぼくが生きてる、ふたつの世界」で本当に驚いた。その映画の直後から、この「国宝」に取りかかったのだろうか。楽器を覚えることや、ダンスを習得することなど、俳優の技には尊敬するばかりである。「芸能人」とは、こうして「芸」をリアルに見せるために、底知れない努力を惜しまない人のことを謂うのであろう。真摯な作品作りの場には、すべての力を振り絞って芸に挑む役者がいるものだ。