光が見せる新しい世界

2025年6月23日

ヨハネの手紙は、ヨハネ伝とのつながりが著しい。それが単純に、使徒ヨハネの手による、と古来考えられていたが、文献学は、その可能性を否定している。但し、何かしら関連があることは確実視されている。ペトロあるいはパウロといったグループとは、別のグループがあって、独自に資料を集めたり、説教を語っていたりしたのかもしれない。それくらい、独自色がある。
 
今日は、ヨハネの手紙第一の1章の、しかも冒頭部から引かれた。
 
1:初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの、すなわち、命の言について。――
 
「命の言」という訳し方は、もちろんヨハネ伝の最初の「初めに言があった」を踏まえている。他に「命の言葉」と訳出しているのは、使徒言行録に二つと、フィリピ書、それかにヨハネ伝でのペトロの告白の中とがある。
 
説教者は、この「言」をもちろん、ヨハネ伝と同様にイエス・キリストのことだと理解するが、聴覚・視覚・触覚を用いて知ったイエスのことを、生き生きと描き出している。イエスと出会った、深い宗教的体験がここに表されている。
 
そのことを告白することを、「証し」という。だが、それは命懸けのことであった。それをあからさまに言うことで、殺される可能性さえあったからだ。信教の自由などという考えが当時あるはずがなく、パウロはユダヤ教から翻ってキリストを語ることで、何度殺されようになったか知れない。そして結局は、殺されてしまう。
 
説教者は、この「証し」について、「自らの体験を語ること」と定義した。それはまた、時に信仰告白にもなる。現実の出来事を語るばかりで鳴く、自分の信じていることを明らかにすることも、そこに含まれているからである。
 
さあ、この世での命を全うした方々を見るに、私たちもいずれ天に召され、そこで交わりを与えられることになるだろう。私たちもまた、そこに招かれていることを信じている。その信じている時点で、すでに神との霊的な交わりの中にいることを喜ぼうではないか。
 
説教者は、「この交わりの中に置いてください」と祈るのだ、と語った。神の前に生きるのだ。弱さがある。疵がある。罪もある。これらが、神の前に明らかにされる。
 
9:私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。
 
自分に罪がない、などともしも言うならば、自己欺瞞である。そこに真理はない。真理とはイエス・キリストである。自己欺瞞の魂には、キリストは来てくださらないのだ。
 
その罪を明らかにするものは何か。説教者は今日の説教の中心概念を掲げる。それは「光」である。光が照らすことにより、自分の中の罪、あるいは闇というものが、明確になるのだ。
 
それは私もそうだった。私の場合、「あなたはどこにいるのか」という問いが光だった。私だけが、闇の中にいることを思い知らされた。頭をハンマーで殴られたような気がして、傲慢の限りを尽くした自分が、ぼろぼろの姿になって、光なる神の前にひれ伏していた。アダムと同じように、物陰に隠れて、神の前にこそこそしていた自分だったが、その問いによって神の前に引きずり出されたのである。
 
そこには、十字架のキリストがいた。凡そ目も当てられないほどの惨めな姿だとしか言い様のないキリストが、私の前で輝いていた。光の筋が与えられて、もはや救いはそこにしかなかった。
 
さて、説教者は今日は厳しい指摘をした。教会で信仰深く振舞っていても、口でどんなに正しいことを言っていたとしても、実は魂がクリアでないばかりか、汚い心が闇の中にいるということはないだろうか。教会でにこにことして交わっていたとしても、神の目にそれがそのままに映っているとは限らない。
 
だが、果たしてその教会に、そうした人が明らかにいるようには思えない。にこにこ接し、立派な祈りを口にし、奉仕に励み、礼拝にいつも出席している。そうした人々の中に、説教者のこのような指摘は、かなり残酷である。聞く人によっては、腹を立てることがあるかもしれない。
 
しかしながら、神の見るところは違う。「人は目に映るところを見るが、私は心を見る」(サムエル上16:7)とあるように。そして、イザヤ書にも、はっきりと記されている。
 
私の思いは、あなたがたの思いとは異なり/私の道は、あなたがたの道とは異なる/――主の仰せ。
天が地よりも高いように/私の道はあなたがたの道より高く/私の思いはあなたがたの思いより高い。(イザヤ55:8-9)
 
確かに、信徒の誰それのことを仄めかして、説教壇上でこのような皮肉を告げたとしたら、それは問題である。牧師がそのようなあてこすりをした、ということで傷ついて、教会を去ったというような話を幾つも聞いたことがある。牧師も弱い時があるだろう。教会の問題を、あからさまではないが、当人に伝わるようにするのが教育的効果だ、と話をしてしまう誘惑に駆られることがあるかもしれない。いや、現にあったのだろう。
 
しかし、この説教者の口からは、そのような個人のことを想定した様子は少しもなかった。むしろ、聞く者が一人ひとり、それぞれに信仰の問題として抱えていてもおかしくはない、一般的な真理を告げているのだ、と私は思った。私たちは、救われたと口にしても、心の奥で、何か引っかかりがある、という場合が殆どなのである。
 
その引っかかりを、笑いながら、自嘲気味であってもむしろ笑いのネタとしてのように、そしてそれが謙遜であるかのように、言う、ということがある。「いやいや、私なんか、不信仰なもので」などと。京都の牧師は、それをよく戒めていた。自分のことを「不信仰」だなどと言ってはならない。それでも信じたい、信じさせてください、ならばまだしも、謙遜傲慢の典型として、「不信仰なもので」などと言ってならない、と釘を刺すのだった。そういう人に限って、「本当に不信仰ですね」などと相手が言ったら、憤るものだ。「そんなことはないですよ」と返すことを当たり前だと期待しているだけの、さもしい心だ、と言うのである。
 
説教者は、一人ひとりが、自問しなければならない、ということを教えたのだ。表向き美しい姿を装っても、心は疲れているということはないか。そこではあなたの「信仰」が問われている。罪を軽く見てはならない、ということを痛感しなければならない。
 
光は、罪を指摘する、と言った。影かくっきりとできることで、自らの罪を覚ることにもなるからだ。だが、キリストは、赦しの中で生きることをも教えたのだった。その赦しもまた、確かに「光」だと言えたのだ。私にとりキリストの十字架が光だと見えたように、救いの道として「光」が自分の前に敷かれる、ということがあるのだ。
 
そのとき、その「光」は、大切なことが見えてしなかった私の目を開いた、と言うこともできるだろう。「心の目を開く光」だと説教者は言った。
 
妻は長年視力が優れず、その原因が近年明らかになったことで、目の手術を受けた。眼球の濁りが消え、目に埋め込んだレンズにより、視力がよくなった。分厚い眼鏡は必要なくなった。冬の、年の初めにオペを受けたのだが、くっきり見える、とえらく驚いていた。特に、春の花々、新緑の眩しさは、生まれて初めて見た鮮やかな色だ、と感動するのだった。世界はこんなにも輝いていたのか、と初めて知った、と。
 
キリストと出会うこと、キリストを知ること、それも、これと似ているのだろう。私は精神的に、それを経験した。くすんで濁って見えていた世界が、イエスに出会ったとき、それまでとは違うクリアで明るい世界に変わって見えた。説教者が、「心の目を開く光」と説いたのは、それに近いことではなかっただろうか。つまり、「霊的に見えるようになる経験」が、救いなのだ、ということである。
 
説教者は、そこから歩む新しい人生を、「光の中を歩む」ことだ、と称した。また、この光は、人を孤独にはさせないことをも告げた。「光の中を歩む」のは一人ではない。仲間がいる。共に歩む仲間と出会い、互いに交わりをもつようになる。
 
しかし、神が光の中におられるように、
私たちが光の中を歩むなら、
互いに交わりを持ち、
御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。(ヨハネ一1:7)
 
これは、赦された者たちの交わりである。赦されながら、共に生きるのだ、と説教者は強く語った。それは単に「教会」という組織に属するのだよ、と言いたかったのではないだろう。時に、牧師はそのことを、「教会生活が大切」ということに結びつけて話したくなる誘惑があると思う。どうしても、「教会経営」が頭にちらつく、という人もいるのではないかと思うし、無意識の内にそういうものがあって、つい口をついて出る、ということもあり得ると思う。
 
だが、いま説教者が語ることには、そのような空気はなかったと思う。互いに責めるためではなく、赦し合い、共に歩むために、信仰の仲間がいるのだ、という真実を告げたに過ぎない。同じ信仰をもつパートナーに恵まれた人は、幸せだと思う。信仰を同じくして語り合い、支え合うことができる環境にある人は、幸せだと思う。
 
神の「光」によって心の目が開かれたら、新しく見えるものがあるだろう。それまで見えなかったにしても、「信頼」という絆でそこにつながっていることが分かったら、なんと喜ばしいことではないか。私たちは、十字架の愛のもとに、光を受けて、神の命に生かされていることを胸に抱き、いまここから、また歩み始めようではないか。



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