【メッセージ】真理に導く霊

2025年6月22日

(ヨハネ16:4-15, マラキ2:1-7)

しかし、その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれる。その方は、勝手に語るのではなく、聞いたことを語り、これから起こることをあなたがたに告げるからである。(ヨハネ16:13)
 
◆だからあのとき
 
野球選手の妻が、こっそりスタンドで応援していました。もちろん妻だとは知らないが、馴染みの売り子さんが来て、いつものようにビールを勧めますが、今日はやめておくわ、と応えます。売り子さんは、ではおつまみは、とうまく商売をするのでした。
 
あるアニメのひとつのシーンですが、その後、スタンドから、夫である選手にスマホで連絡が入ります。妻からですが、ミーティングのために当の選手は、しばらくその連絡を見ることができませんでした。後でそれを見ると、選手は涙を流し、試合で活躍をするのでした。
 
赤ちゃんができた、との知らせでした。
 
だから、あのときビールを飲まなかったのだ、と理解できました。後から、「だからあのときは」と分かる。物語ではそれを「伏線」と言いますが、ちょっとほろりときました。
 
イエスの逮捕から裁判、そして十字架刑が、あっという間に執り行われ、弟子たちは自分たちが逃げるので手一杯だったことでしょう。おろおろしている間に、今度はイエスが復活します。何がなんだか分からないばたばたとした中で、弟子たちはそれに何の意味があるのか、落ち着いて考える暇はなかったのではないかと思います。
 
それがいつであったのか、は分かりません。聖霊が降って後かもしれません。弟子たちは思い起こします。そう言えばあのとき、イエスが語っていたのは、このことだったのか。こうなるから、あんなふうにしていたのだ。次第に、イエスの仕掛けた「伏線」に気づいてゆきます。
 
ヨハネ伝の、いわゆる「告別の説教」において、イエスが「聖霊を送る」ということを言っていた――それに気づいた点に、今日は焦点を当てて、聖霊のことを受け止めてゆきたいと思っています。
 
これから世を去るというイエス。でも、新たな助け手を送る、と言われた。それが聖霊のことですが、言われたそのときには、弟子たちは何も理解できなかったことでしょう。
 
私も、聖書を初めて読んだとき、同じように、これは何を言っているのだろう、と分からないことだらけでした。右も左も分かりません。何かを求めて読んだとしても、やはり意味はよく分かりません。しかし、その後あるときを境に、聖書の言葉の意味が「分かる」ようになります。それまでと違う風景が見えてくるし、「ほろりとくる」ではありませんが、心の中が温かくなる変化を覚えます。
 
きっとそこに、聖霊の働きがあったのだ、と私は思いますが、夢中であったそのとき、当人はそんな気づきはありません。ただ、何かの体験を経て初めて、あのとき言われていたことが分かった、と思えるようになるわけです。
 
弟子たちにとっては、それが聖霊降臨であったのかもしれません。私たちもまた、そのとき聖霊が降りてきて、それを受けた、ということなのでしょう。
 
◆聖霊の予告
 
4:しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、私が彼らについて語ったのだということを、あなたがたに思い出させるためである。」 「初めからこれらのことを言わなかったのは、私があなたがたと一緒にいたからである。
 
文脈からこの節は二つの場面に区切って編集されていますが、私たちは今日、続けて読むことにします。イエスが、いずれあなたがたは思い出すことだろう、ということを告げています。そして、それを話すチャンスは、今なのだ、というふうに言っているようにも聞こえます。
 
これは、ヨハネ伝16章です。この辺りは、イエスの逮捕の直前に、イエスが弟子たちにありったけの話をした、という場面がつくられています。一般にここを「告別の説教」と私たちは呼んでいます。本当にこの夜に初めてこれらを全部、蕩々と述べたのかどうか、それは分かりません。ただ、弟子たちはこれを、後に思い出したのです。イエスの言葉が、自分たちの何らかの体験の後に、こういう意味だったのか、と強く実感できたのでしょう。
 
あのときには理解できなかったにしても、イエスの姿を見なくなった後に、弟子たちに及ぶ「霊」というものについて、教えていました。その「霊」は、物体ではなく、神の心のようなものでしょう。但し、聖書という場面では、「霊」という言葉は、同時に「風」あるいは「息」を意味することができます。それでいて、ひとつの神のかたちを示していますから、訳語では、人格的な対象のように描かれています。
 
8:その方が来れば、罪について、義について、また裁きについて、世の誤りを明らかにする。
 
人は、「罪」に気づき、「義」とは何かを知り、神の「裁き」を覚ります。これらについて、世の中で考えられているものは、実は間違っているのだ、ということが分かるらしいのです。ところが、「言っておきたいことはまだたくさんあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない」、とも言います。イエスの口から今すべてを説明する暇がないのです。そして、弟子たちも体験がないままでは、それを理解することができないのです。
 
13:しかし、その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれる。その方は、勝手に語るのではなく、聞いたことを語り、これから起こることをあなたがたに告げるからである。
 
ヨハネ伝は、「真理の霊」と呼んでいます。私たちが「聖霊」と呼んでいるものです。ここでの訳では、「その方」という形で呼んでいます。今日は、このことを中心にして、聖書から、イエスの予告した聖霊について聞きましょう。すでにそれを受けた人が、思い出して気づくようなお話ができたらよいと考えていますが、まだお受けになっていない人が、イエスと出会って霊を受けることができることを祈りつつ、お話しできたら、とも願っています。
 
◆すべてではない
 
この、ヨハネによる福音書の、最後の節を覚えていますか。
 
イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。私は思う。もしそれらを一つ一つ書き記すならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。(ヨハネ21:25)
 
これがヨハネ伝の結びでした。いろいろ研究する人の中には、この章は、それまでとは少し間を置いてから付け加えられた、と推測する人もいますが、とにかく伝わっているヨハネ伝は、こうして終わっています。福音書の記述で、イエスのすべてが尽くされるわけではない、ということを告げているのでしょう。このことは、イエスの口からも、本日開いた告別の説教の中で出ていました。
 
12:言っておきたいことはまだたくさんあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。
 
「まだたくさんある」のです。ただ、聞く方がそれに堪えられない、と言っています。何故「堪えられない」のでしょうか。
 
一つには、神がいずれもたらす恐ろしい結末について、何もかも知ってしまうというのは、堪えられないことであるかもしれません。旧約の預言者は、いとも簡単に、「終わりの日」あるいは「主の日」の出来事を、実に残酷に描きます。それも、どの預言者も、口を揃えて、激しい災いや苦難を述べるのです。イエスの後の終末に於いて、それはまた別の形で現実となるはずです。ヨハネの黙示録が、これ以上ないほどに残酷なありさまを後に描くこととなります。そしてその黙示録は、ヨハネ伝と何かつながりがあるのではないか、とも推測されています。
 
また他方では、そのような預言や終末について、神のミステリーをたっぷりと語り聞かせるにしては、人間の寿命が短すぎる、ということも考えに入れるべきかもしれません。つまり、神の心や計画を、いくら話そうとしても、聞き尽くすことは見込めない、ということです。人間は、有限な時間しか持ち合わせていません。だから、堪えられないのです。
 
それから、話したところで到底理解できない、という含みもあるかもしれません。まだ聖霊を受けたとは言えない状態です。イエスがこの後十字架に架けられ、それから復活するということを、弟子たちは知りません。耳で何か聞いたにしても、何も実感できていません。少しも「体験」になっていないのです。だから理解できないという意味で、「堪えられない」のかもしれないわけです。
 
人は、神のすべてを知ることはできません。いま私たちは聖書を手に取り、聖書についての語りを聞きますが、だから詳しく知っている、などとも、とても言える情況ではないはずです。聖書は実に、知れば知るほど、知識的には分からないことが増えてゆくものです。ただ、知れば知るほど、神が近くに迫ってきて、すっかり包まれてゆくことは、ほっこりと感じるものでもあります。
 
そうした前提で、「あらゆる真理に導いてくれる」という「真理の霊」のしてくださることには、強い興味が湧きます。
 
◆真理とは何か
 
ところがその「真理」とは何か、それについては聖書は必ずしもスッキリとして解答を与えてはくれません。イエスの裁判のときに、ピラトとイエスとの、こんな会話があります。
 
ピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「私が王だとは、あなたが言っていることだ。私は、真理について証しをするために生まれ、そのために世に来た。真理から出た者は皆、私の声を聞く。」ピラトは言った。「真理とは何か。」(ヨハネ18:37-38)
 
場面は、ここでぷつんと終わっています。イエスは「真理とは何か」という問いに、答えることはありませんでした。まるで、ヨハネ伝そのものが、この問いを中途半端に切ったかのようです。ということは、この問いを、読者に向けて発した、と見るべきなのだと思います。私たちが問われているのです。「真理とは何か」と。
 
さあ、どうしますか。難しいですね。この「真理」という言葉は、ギリシア哲学で口にされた「真理」と同じ語です。ソクラテスの対話篇でも、盛んに使われています。「アレーテイア」のように読みますが、最初の「ア」は、英語で言えば「not」のような働きをします。「隠れていないこと」を意味するのが、言葉の上での意味です。
 
しかし、新約聖書のギリシア語は、古代ギリシア哲学のギリシア語が俗的に変化したものと言われています。そして、ユダヤの考え方は、ギリシア思想を受け継いだものではありません。
 
その後、近代思想へと移ると、私たちの考え方のベースになっている「真理」の捉え方がメインになります。論理的に正しいことをそう呼ぶ場合と、認識あるいは思惟と対象との一致というように、事物についての現実だという知識を問題とする場合とがあります。さらに現代哲学へと進むときに、意識に現れるものや、実用的なことを中心にする、あるいは、言語的な問題にしたり、社会的な問題にしたりすることを主眼として、「真理」わ定義しようとする見方も現れます。
 
しかし人は、この「真理」というものの中に、普遍的であることや、同じ響きですが不変的であることを見ようとするでしょう。また、必然的であることや、客観的であることを以て説明したくなる場合もあるでしょう。場面毎に、「真理」と呼び得るものが異なることを指摘する人もいるはずです。
 
でも、そんな概念規定をするために、聖書がイエスに「真理」と言わせているのではないことだけは確かです。そしてイエスは、ピラトには言いませんでしたが、福音書の中で弟子たちにはっきりと言っていました。
 
イエスは言われた。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。(ヨハネ14:6)
 
イエスが「真理」だと、ヨハネ伝は明確に示しています。少なくともヨハネ伝が「真理」という時、それはイエス自身のことを指しているはずなのです。だから、ピラトに重ねて私たちが「真理とは何か」と問われたとき、私たちは胸を張って即座にこう応えるべきです。「真理とはイエスである」と。イエスこそ、真理である。キリスト者とは、そう明言できる人のことをいうのだと思います。
 
◆真理に導かれて
 
「私は道であり、真理であり、命である」(14:6)という、ズバリ言い表した言葉によって、その「私」、つまり「イエス」こそが「真理」である。これは、凡そ哲学的には何の意味もない言い方だと言えるでしょう。信じる者にとってはそうであっても、人類に普遍的にそう認められる性質のものではないからです。
 
しかしこの新約聖書という舞台は、これを大前提とします。新約聖書を自分のものとして受け取った者は、イエスが真理である、というところからスタートします。そうすると、真理について書かれている多くのことが、生き生きと自分の目の前に輝きます。自分に命が注がれてくるように感じるようになります。
 
この「真理」という訳語は、福音書の中では、ヨハネ伝に際立っています。他の三つの共観福音書においては、一度ずつしか現れません。しかも、同じ文脈においてです。それは、例の「皇帝に税を納めるべきかどうか」という質問の場面です。いずれも、イエスを陥れるための策略でした。思い切り媚びた姿勢でイエスに近づいてきます。そしてイエスが、「真理」に基づいて神の道を教えている、と褒めそやします。
 
共観福音書に於いて「真理」と訳されている語が登場するのは、この場面だけなのです。それに対して、ヨハネ伝では、17節にわたり「真理」という訳語が使われています。そしてそのどれもが、適切に神の真理、イエスの真理を示しています。尤も、新しい聖書協会共同訳に於いては少々事情が異なってきており、従来「真理」と訳されていたところが、「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真実をもって礼拝しなければならない」(4:24)というように、「真実」に置き換わっているところがあります。
 
こうしたすべてを挙げる暇はありませんが、私たちがよく聞き知っているであろうところだけを挙げると、まず、「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」(1:17)と、冒頭の箇所で挙げられていました。それから、「真理はあなたがたを自由にする」(8:32)というメッセージもありました。これは少しばかり言及を広める働きがあり、少々哲学的な議論にも使えるような言葉となりました。
 
そして本日お開きした箇所では、「真理の霊」という言い方で、いずれ来てくださる聖霊のことを示していたことになります。聖霊は、私たちを「真理に導いてくれる」とはっきり告げています。もし、「真理」が「イエス」のことであるのならば、これは「イエスの霊が私たちをイエスに導いてくれる」という様子を表していると理解できることになります。
 
この霊はイエスに「栄光を与える」と言っており、「これから起こること」を私たちに告げることになる、聖書が、これを信じた者がこれからどうなるのか、様々な形で予告をしていると言えます。ある種の「伏線」のようにして、いまは私たちには判然としないかもしれないけれども、やがていつかそれが「なるほど」と分かるようになる時が来るのだ、と言いたいかのようです。
 
鈍い私たちです。確かに、それは何のことなのか、分かりません。言われたことを信じるのがせいぜいのところで、はっきりと顔と顔を合わせて見るほどには至りません。けれども、聖書は何かを指し示しています。せめてそれくらいのことには、なんとか気がつくようでありたいものだと思います。
 
◆祭司たる者
 
旧約聖書からも、何か参考になる支えのような言葉はないか、探してみました。今日は、マラキ書の、祭司へ向けての預言を繙くことに致します。旧約聖書の最後に置かれた小さな預言書ですが、新約聖書への橋渡しの役割を担うように見られています。幾つかのよく知られた言葉がありますが、この2章は、特別に有名だというわけではありません。
 
これは、預言者から、ユダヤの祭司への言葉です。時代的な背景は確定はしづらいと思いますが、バビロン捕囚から民は戻ることはできたものの、荒れた国土と萎えた人心は、なかなか元のような国には戻りません。神殿の再興というよりは、それぞれ自分の生活の方が重要であるようです。それはどこか仕方がないようですが、神の祭司すらが、信仰心を失ってきているように見えた預言者が、祭司こそいま目覚めるべきだと訴えます。
 
1:祭司たちよ、今あなたがたにこの命令が下される。
2:万軍の主は言われる。もし、あなたがたがこれを聞かず、私の名に栄光を帰すことを心に留めないなら、私はあなたがたに呪いを送り、祝福を呪いに変える。いや、すでに呪いに変えてしまった。あなたがたがこれを心に留めなかったからだ。
 
これに続いて、「レビと結んだわが契約」という言葉が出て来ます。神殿祭儀に関する人々のことですが、ここでは「レビ」も「祭司」も、特に区別する必要はないだろうと思われます。
 
5:レビと結んだわが契約は命と平和であり/私はそれらを彼に与えた。/それは畏れをもたらす契約であり/彼は私を畏れ、わが名のゆえにおののいた。
6:真実の律法が彼の口にあり/その唇に不正は見いだされなかった。/彼は平和と正しさのうちに、私と共に歩み/多くの人々を過ちから立ち帰らせた。
 
場合によっては祭司を呪うぞと脅しながらも、神は豊かに力を注ぎます。「契約」という形で、イスラエルの民と神とを結ぶものを、確かなものとしようとするのです。イスラエルの祭司は、変わることができる。それは、「真実の律法」によってです。「平和と正しさ」に包まれた言葉によってです。「人々を過ちから立ち帰らせ」ることができる、「真理の法」なのです。
 
旧約の光の下で、それは祭司に向けて与えられました。しかし、その後私たちは、二千年単位の長い時を経て、「宗教改革」という歴史を刻みました。「聖書のみ」と言って、神の言葉に明確な基準を設けようとしました。また、「万人祭司」との合言葉は、もはや特別な祭司職だけが神と関係を結ぶのではなく、一人ひとりが聖霊を伴い、神に仕えることこそ望ましいのだ、と受け止める信仰を築きました。
 
神を見上げ、イエスの十字架により救われ、救い主と呼ぶ者は、それぞれが「祭司」と呼ばれるに値することを、私たちは自覚したのです。マラキが呼びかける「祭司」は、特別な責任者に限らず、信じる者それぞれがその役割を担うことができるようになったのです。現に、イエス・キリストという「真理」なるお方と、私たちは出会いました。直接に、救いの言葉を以て立ち上がらせ、聖霊を以て導き、慰め、支え続けてくださっています。
 
これからは私たちは、旧約聖書で「祭司」と呼ばれるときの出来事を、引き受けようではありませんか。恵みを受け、また人々へもたらそうではありませんか。
 
◆真理に出会う
 
ヨハネ伝の「告別の説教」は、長いものです。そこには、世を去るイエスから、弟子たちへ向けて絶唱とも言えるほどに、伝えるべきことが凝縮されていました。そのことは、いろいろ引いてくることができるかもしれませんが、私はいま、今日開いたヨハネ伝の16章から挙げてみることにします。
 
15:父が持っておられるものはすべて、私のものである。だから、私は、『その方が私のものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。
 
父の持ちものは、イエスのもの。人間にもたらされるレベルにおいては、神と御子イエスとの区別はないのかもしれません。
 
13:しかし、その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれる。その方は、勝手に語るのではなく、聞いたことを語り、これから起こることをあなたがたに告げるからである。
 
私たちは、この「真理の霊」について知りたいと願って、時を過ごしてきました。しかし、一口で捉えられるほど、神の業は底の浅いものではありません。少しずつ、1mmずつでもいいから、神の扉が開いて差し込む光を身に受けたいと願います。
 
聖書が提げることには、父の持つものはすべて子なるイエスが触ってよいことになっています。ただ、その恵みを人間にもたらそうにも、御子イエスの姿を地上に求めることはできません。イエスの言葉やイエスの救いをもたらすものは、「聖霊」という形の神でした。
 
そのとき、ヨハネ伝に特徴的であると言えると伝えました。神は全能であり、人間が把握し尽くすことはできない、という前提があるかと思いますが、文字面からそれを証明しきっているわけではありません。聖霊という形で、神は私たちの心にひっそりと影響を与えます。聖霊は、私たちに信仰を与えてくれるのです。
 
ギリシア哲学では、「真理」という概念について、哲学的に検討しようとしました。しかしヘブライ文化では、「真理」は端的に神を表すというふうに捉えて然るべきだと考えました。「真理」とは、ひとつのシンボルに過ぎないかもしれません。しかし、人間の認識のために、大きな道しるべとなったに違いありません。
 
聖霊は、確かに私たちに、言うべきことを授ける、という役割を宣言していたと思います。
しかし、言うべきことがすでに書きことばの文字として準備されている、というわけでもありません。私たち氏は、下書きなしに、次々と話をすることができるようになっています。
 
ともかく、私たちは、イエスについて証しをすることができます。イエスについて説明することができるし、自分が出会ったイエスについて長々と語ることもできます。しかしまた、「真理」はイエス自身であるとして、それを私たち人間の言葉に酔って、語り尽くすことはなど、考えてみればできるわけがありません。
 
真理は、時に言語を絶する形で、私たちに立ち現れてくるものなのかもしれません。だからまた、イエスご本人にお会いなさい、と私は強くお薦めします。会うとはどういうことか。それは人様々でしょうが、その備えとして、「真理」なるお方について、私たちはしばし立ち止まり、見上げる時を持ちました。あなたの道が、真理であるイエスの道と重なることを願って止みません。



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