闇に光は来る
2025年6月16日

「神よ、あなたの静けさの中に、私の身を置いてください」
説教者が、どこかで聞いたという祈りの言葉を繰り返した。ここにあるのは、暗闇。そして、神の沈黙。神は確かに沈黙を続けることはない。だが神は、エリヤのときのように、「かすかにささやく」声で語りかけることがある。心静かにしていなければ、それは聞こえないかもしれないのだ。
教会に、「明るいとは言えない」知らせがいくつも舞い込んだ。確かに高齢者の多いいまの時代の教会では、葬儀が身近になるということは、ある意味で当然のことなのかもしれない。また、葬儀の頻度が高いということは、それだけ教会員が多いということを意味するとも言える。
また、この世での生を全うするということは、信ずる者にとって、神の懐に抱かれるということを意味するのならば、それはうれしいことだ、と考える人がいてもおかしくない。しかし、よその立場からそんな心ない言葉を向けるようなことを、キリストの教会員はするものではない。
ところが、十日余り前の長嶋茂雄死去の報道については、社会の眼差しは、悲しみもあったが、感謝と笑顔すら漂っていたことを思い起こす。それだけ、長嶋茂雄という存在は、普通の人間とは異なっていたのだろうか。
説教者は、悲しくて寂しい遺族の気持ちに寄り添ったからこそ、主の静けさを求めたのかもしれない。しかし私たちは、実のところ日々そのように、主の静けさの中に身を置くことを求めるべきなのだ。そのことを改めて教えてもらったような気がした。
今日は、マルコ伝からの連続講解説教。この「連続」では、2回続けて、種蒔きのたとえについて語られた。今日はその次に於かれた、やはりたとえではあるが、短い箇所である。イエスの言葉だけをまず挙げておく。マルコ伝4章からである。
21:灯を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。
22:隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、明るみに出ないものはない。
23:聞く耳のある者は聞きなさい。」
24:また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは、自分の量る秤で量られ、さらに加えて与えられる。
25:持っている人はさらに与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
イエスのたとえ話は、基本的に「神の国」についてのものである。「国」という言葉が土地をイメージさせるのだとすれば、「神の支配」と言い換えるのが常道であるが、俗的なきらいはあるものの「天国」でも別段構わないだろう。
ここには、「神の国」を直接指しているような言葉はない。シチュエーションとしては、いきなり「灯を持って来る」である。「枡の下」に置くのは、もしかするとアルコールランプの消火のように、火を消すことをいうのだろうか。寝台の下だと、何をも照らさず、明るくすることがない。当然、「燭台の上に置く」ことになる。
思い起こすのは、マタイ伝5章である(ルカ11章にも同様の言葉がある)。
また、灯をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家にあるすべてのものを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、天におられるあなたがたの父を崇めるようになるためである。(マタイ5:15-16)
ここは、「あなたがたは世の光である」(5:14)と言った内容を裏付けるような意味があった。だが、ここではどうだろうか。言ってみれば、イエスの告げたのは、それだけのことである。解説を加えたようには見えない。謎めいた意味で、「隠れているもの」も「秘められたもの」も明らかにされる、と加えたくらいである。一体それは何のことだろうか。何が隠れていたのだろうか。
さらに、「聞く耳のある者」を求めておきつつ、「何を聞いているか」に心を向けるようにと促す。「自分の量る秤」で量られた家で、すでに「持っている」人はさらに与えられるのだ、と知らせて、語る言葉を終える。依然として謎のスピーチである。
しかし、これらの謎めいた言い方は、ひとつの視点が与えられることで、つながってゆく。それは、最初の文である。
21:灯を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。
新約聖書のギリシア語を、直訳にできるだけ近い形で翻訳した、と言われる、いわゆる「永井訳」を参考にしよう。
燈火は桝の下、或ひは床の下に置かるるために来るや、燈火台の上に置かるるためならずや。
聖書協会共同訳の言葉に直せば、「灯は……来るのか」となる。「灯を持って来る」となると、誰が持って来るのか、当然疑問に思う。だが、原文は灯が来ると言っている。これが不自然だと見えたのか、写本の中には、ギリシア語ゑ組み替えているものがあるが、原文はやはり「灯は来る」なのは確実だ。そういうことを、加藤常昭先生が、その説教全集のマルコによる福音書の、この4:21-25の説教の中で言っている。
説教者は、加藤常昭先生のいわば弟子である。そしてその説教を参考にしていることを、教会員にも公言している。だか今回は思い切ったことに、加藤先生の説教の中のこの点についての解説を、「引用」と言ってもよいほどに、殆どそのまま読み上げることをした。こういうときは、やはり引用元に触れたほうがよかったのではないか、と思う。もしもこのままこの礼拝の内容が説教集や公の説教原稿として公開された場合には、厄介なことになりかねないからである。
さて、回り道をしてしまったが、「灯が来る」となれば、その灯は当然光をもたらすものであり、「まことの光があった。その光は世に来て、すべての人を照らすのである」(ヨハネ1:9)というヨハネ伝の冒頭は、イエス・キリストを描いていた。「まことの光」はイエス・キリストであり、私たちはイエスが光そのものであることを知っている。信じている。
説教者は、この「灯」こそイエスであるとして、イエスが来るのは何のためか、という角度から、このたとえを一気に溝に流すように語り始めた。それも、いつものように、その情景が聴く者の脳裏にまざまざと思い浮かべられるように、イメージを湧き起こす言葉を連ねてゆくのだった。
イエスは来る。光である。その光は、私の心に照り輝いている。血に滲む掌を向け、私に差し伸べる。紛れもなく、光は来た。ここへ来たのだ。
説教者は、新約聖書と共に、旧約聖書も開いて説教に備える。今回はエゼキエル書33:10-11であった。これも、加藤常昭先生と同じ箇所となっている。「私は悪しき者の死を決して喜ばない。むしろ、悪しき者がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ」と主はエゼキエルに言い、それをイスラエルへ向けて語れと命ずる。そして続けて、「立ち帰れ、悪の道から立ち帰れ。イスラエルの家よ、あなたがたがどうして死んでよいだろうか」と反語を以て、ぶつけてくる。
要するに、闇から光へ帰れ、と言うのである。あるいはまた、先の光のイメージは、このように悪の道から立ち帰れ、ということを言おうとしていることを知ることになる。
ならば、「隠れているもの」は、ひとつにはその「闇」の部分であろう。つまり人間の罪である。私たちの罪は隠れている。私たちが意図的に隠している場合もある。また、私たちが、それを罪と気づくことすらなく、私たちの目にも隠れてしまっている場合もある。怖いことだが、私たちは自分が何をしているか分からない一面をもっているのである。
他方、「黙示」または「啓示」は、同じ語を別に訳し分けたものであるが、これらは、「隠れていたものが露わになる」という言葉で成り立っている。さらに家ば、ギリシア語では「真理」という言葉もまた、「隠されていないもの」という言い方からできている。このとき、「隠れているもの」は、「神の国」であったのかもしれない。「神の義」でもあるだろうか。いっそ、「救い」と呼んでもいい。
イエスが世に来たことで、人の罪が明らかになり、神の救いがもたらされた。
「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、すべて受け入れるに値します。私は、その罪人の頭です。(テモテ一1:15)
こうなると、「聞く耳のある者」とは、その「隠れているもの」を知る者であることになるであろう。しかし、「何を聞いているかに注意」しなければならない。いまの「罪」と「救い」について、それが誰のものであるのか、まだ問わねばならないからである。
そう。「罪」とか「救い」とか口先では流暢に喋ることは、誰にでもできるのだ。世の中には、その程度で「牧師」になれる「神学校」というものも、実のところ存在する。そして「牧師」として、口先の説教を垂れることすら堂々とできるのだ。そのまがい物に気づき、的確に指摘しなければならないのが、信徒の責任であるのだが、それを指摘した信徒は追い出され、仲良し倶楽部で中身のない「礼拝」を繰り返すことを選ぶようなことも、現実に起こっている。
「自分の量る秤」は、諸刃の剣である。自分に「罪」ということを当てはめることのできない者が、他人の罪ばかり量る者もいれば、正に自分にこそ「罪」というものを知り、そこから神による「救い」を与えられるという「信仰」に立つことができる人もいる。このとき、その「秤」は、神の声を聴くためのものとなるであろう。
それは「自分の」「秤」である。そのようなチンケな「秤」で、神の重みを量ることができるはずがない。だのに、人間は時に、神は云々、と自分がさも神のすべてを理解しているかのように傲慢になることがある。その極みが、自分たちの正義を自国に、また世界に力ずくで押しつけることである。一国の大統領ないし首相が、自分の失政をごまかすためか、自分の思い込みを実現するためか知らないが、強大な権力を以て人を殺すことを正義だと主張し、また実行するようなことが、現にいま進行しているのではないだろうか。
自らの罪を知り、神の救いを受け、信仰による恵みを与えられるという一連の動きは、ターボ式に力を増し加えることだろう。「持っている人はさらに与えられ」る。それは、信ずる者への絶大な恵みである。と同時に、キリスト者の担う責任でもある。私たちは、救いを受けてそれで終わりではない。むしろ、ここからが始まりである。イエスに愛された者は、いっそう愛することに努めるものだ、と聖書は迫ってくる。このことを、説教者は、「今度は私たちが応える番です」と告げた。
闇があるからこそ、光が来る。さあ、このメッセージを聴いた者は、灯が来ているのが見えたはずである。世の闇、自らの内の闇、それを嘆くだけでは終わらない。暗いからこそ、光が分かるゆえに。