【メッセージ】キリスト教のすすめ
2025年6月15日

(使徒2:37-42, イザヤ59:21)
この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもたちにも、また、遠くにいるすべての人にも、つまり、私たちの神である主が招いてくださる者なら誰にでも、与えられているものなのです。(使徒2:39)
◆入門
「キリスト教入門」という題の本は、昔からいろいろありました。いまもたくさん出回っています。戦後、戦勝国としてのアメリカ文化が流入したとき、キリスト教ブームがあったと聞いています。さすがにそのときのことは私は知りません。でも、戦後最初の出版物と言われる「日米會話手帳」は360万部を売ったと言われていますし、教会に人が押し寄せた時分があって、聖書も売れたのかもしれません。また、キリスト教入門というような感じで、これを機会にキリスト教を易しく説くものがあったのではないか、と思われます。
ここのところ、小野村林蔵牧師の全集を毎日少しずつ読んでいます。北海道の牧師で、植村正久牧師の弟子です。キリスト者の作家・三浦綾子に洗礼を授けた牧師で、彼女の信仰にも大きな影響を与えたのではないかと思います。その時代の制約もあり、当時の精神的環境も滲み出ていますが、その中に、易しく「キリスト教入門」と言えるようなものもありました。簡潔に、信仰のエッセンスをズバリと語っているのが特徴です。
ところでこの「入門」という言葉に、いつも立ち止まってしまいます。英語の「ABC」、あるいは日本語の「イロハ」というのとは、少し違う印象を与えるような気がするのです。というのは、「入門」だと、「門に入る」というわけですから、言うなれば修行の現場に入るわけです。外から眺めているだけではなくて、中に入ってみることのように思えます。いわば、修行を始める、ということを意味するのであって、決して気楽な「お試し」のようなものではないと思うのです。
「キリスト教入門」というからには、キリスト教に足を踏み入れてみることを意味していると私は理解します。それは、とても勇気の要ることです。
私は、悩んで教会を訪ねようと思ったとき、一歩足を踏み入れるために、たいへんな決意を要しました。足を入れたら、人生が変わってしまうだろう、と緊張していたのです。お笑いぐさかもしれません。ちょっと行ってみるくらいなんてことないじゃん、と言いたくなる人もいるだろうかと思います。でも、遊びに行くのとは意識が違いましたから、一度行くともう出られないという予感を抱いていたのです。いまでも、そう感じている人は、私はきっといると思います。
事実、入門してしまうと、そこから今日まで、私はキリスト教の世界に入りっぱなしになってしまったのでした。
◆聖書の読み方
さて、そのような「キリスト教入門」というような本には、具体的にどのようなことが書かれてあるのでしょうか。もちろん、時代によっても異なるかもしれません。著者の個性が出ていることでしょう。あるいはまた、読むべき対象によって、表現方法や口調、内容まで様々なものがあることが予想されます。
今の時代のものは、今の時代の空気を吸って書かれ、また読まれることでしょう。少し違った時代のものは、今あたりまえだと思えないようなことが常識になっているかもしれず、新鮮な視点を学ぶことができるかもしれません。そこで、いま手許にある1961年初版の『聖書の読み方』という薄い本を覗いてみることにしました。「キリスト教入門」というよりは、聖書入門に傾いたものですが、さしあたりこれに目を移してみようと思います。
『聖書の読み方』は、2024年に亡くなった加藤常昭先生の、確かに初めての著書です。私の手許にあるのは、2007年発行の新装25版です。そこには、「自分がどれだけ深い聖書とのつながりを持つことができるか」ということが大切だと記されています。「聖書を読むということは、結局は、けっして単なる技術の問題や知識の問題でない」とも言っています。つまり、聖書についての知識を得るのが目的ではない、ということです。
書店のビジネス書の棚に、聖書の文字を見ることがあります。国際関係を無視することのできないビジネスの現場で、キリスト教国との関係の仕事が入ることもあるのでしょう。キリスト教に無知であっては話もできない、ということで、聖書についての知識を手っ取り早く得たい、というニーズは確かに少なくないようです。しかし中には、そういう看板を出しておきながら、ほぼ一方的にキリスト教批判に終始する本を見たことがあります。それも、宗教学者という肩書きで、ちょっとした売れっ子のSというライターでありましたから、私は悪質だと思っています。
さて、聖書を読むにあたり、まずは、聖書に何が書かれてあるか、という理解が重要です。しかし、「キリスト教入門」という姿は、物知り知識になるためのものではないように見受けられます。『聖書の読み方』の「はじめに」に、すでにズバリとそれが掲げられていたのだと思います。
しかし聖書だけが目的ではない様子は、次の言葉からも分かります。「教会は聖書を読むことをその生命として生きつづける団体です。」「聖書の読み方が身についてくるということは、教会で生活するということが身についてくるということとほとんど同じようなことだ」(p9)などと書かれています。
ですから、この本の題は『聖書の読み方』だったのです。どう読むか、ということが主題であるわけです。今の時代なら、本は二色刷くらいにして、見開き2頁で一項目が扱われ、イラストや表などでビジュアルな効果を狙って編集されることでしょう。しかしこの本は、もちろん時代的な傾向だろうとは思いますが、そんなイラストレーションはまるでなく、淡々と文章が小説のように続き、すべてが文字だけのシンプルな本となっています。
このような「読み方」が最初の4分の1くらいで語られると、いよいよ内容に入ります。まず、山上の説教、特にその「さいわい」について深めた解説をしています。ここは説教者としての本領発揮というところでしょうが、この点だけで次の4分の2ほどを使っています。これはもう、加藤先生の礼拝説教の語りと同じです。徹底的に深め、また時に旧約聖書の預言書にも触れながら、「さいわい」についてじっくりと語り、最後はキリストに従うというレベルにまで、読者を導いてゆくのです。
最後は、AとBの二人の対話という形式をとりながら、Bという初心者が疑問に思うことをぶつけた上で、Aが応えるという形式で、いろいろな話題に触れます。今でいうならば「Q&A」というところでしょう。そうして、「信仰を持つ」ということの意味を伝えるように進みます。そして「聖霊を受け、キリストと会い、キリストと共に生きるには教会へ行かなければだめだ」というところに達します。牧会者として当然の成り行きではありますが、これがあってこそ、本書は確かな「入門」なのだと思えてきます。
そうして「自分の考え方や生き方を変えさせられる経験をするということが、信仰に近づくことになる」と言い、そのために、「くりかえし説教を聞き、教会の交わりの中にはいって生活していくうちにはじめてわかってくる」とアドバイスを放っています。対話の最後は、「ゆるがないところに根ざしたあなた自身の人生をつくり出していってください。祈っています」(p141)と結んでいます。
本書には「入門」という語を表に出してはいませんが、私はこれが「入門」という意味なのだろうと思います。が、今の時代では、これはかなり熱く真摯な人生への求めを背景としていて、このままいま若い人にぶつけるのは適切でないのではないか、とも思えます。何しろ当時32歳の加藤常昭先生が、「あとがき」で、次のようなことを思いつつ書き綴っていると言っているからです。「日本の教会が正しく生きる道はここにしかない。若者も老人も人間として健康に生きる道はここにしかない。」(p143)
◆ペトロの説教
先週は、ペンテコステ礼拝と呼ばれる特別な礼拝でした。教会の三大祝祭のひとつです。聖霊が信徒たちの上に降り、教会が始まった事件を記念する礼拝でした。そのときの出来事についての聖書の記述を、先週私はメインに据えることはしませんでした。しかし、そこで何があったかを確認しておくことは大切です。
聖霊現象が起こりました。弟子たちが「同じ場所に集まっている」(使徒2:1以下2章より)とき、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり」ました。それから「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」のです。このことにより、「一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだし」ます。
エルサレムに住んでいた外国出身の人で、神を信じるようになった人々が、この騒ぎに集まってきます。いわゆる「異言」が語られる情景に、人々は驚き怪しみます。酔っ払っているのか、と嘲笑う者も出たので、ペトロと使徒たち全員が立ち上がり、ペトロが代表して「声を張り上げ、話し始めた」のでした。
使徒言行録は、ここからやけに長く、ペトロが語ったという内容を記録しています。まるで人格が急変したかのような話しぶりです。預言書や詩編などを巧みに引用して、イエスがキリストであることを堂々と証明するのです。聖霊が降ってペトロ自身陶酔していたような中で、しかも、これまで考えたこともないようなこの事態の解明を、理路整然とこれだけ語るというのは、殆ど信じられません。筆者ルカは、教会の信仰の一つの教義的な内容を、ここでまとめて読者に知らせているのではないかと推測します。
つまり、ここでのペトロの話は、いまでいう立派な「説教」だと思うのです。
神はこのイエスを復活させられたのです。私たちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。(使徒2:32-33)
だから、イスラエルの家はみな、はっきりと知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。(使徒2:36)
◆教会員となるために
このペトロの説教は、教会で新たに信仰をもちたいと願った人に、まず理解してもらうべく記されたものではないか、と推測します。私たちが考える「信仰箇条」のようなもの、あるいは言ってしまえば「使徒信条」のような役割を担っていたのではないでしょうか。あるいはまた、伝道説教はこのような内容を語れ、というテキストであった、と見ることも可能です。
これを信じましょう。これが、ユダヤ教ではない、キリストの教えです。キリストの弟子として、ユダヤ教の聖書の本当の意味での救いを与えられるのは、この教えを信じ、導かれたときなのです。こうして新興宗教としてのキリスト教は、しっかりした教義というものが必要でした。そして、それを信じ、受け容れた人が次に何を必要とするか、というと、教会に加わることです。キリストの弟子の仲間になること、今でいえば教会員になるには、どうすればよいか、これも定めておかなければなりません。
人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロと他の使徒たちに、「兄弟たち、私たちは何をすべきでしょうか」と言った。(使徒2:37)
こうした対話としての展開を踏まえて、ペトロは答えます。
そこで、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、聖霊の賜物を受けるでしょう。(使徒2:38)
ルカ伝の信仰の捉え方からすれば、「悔い改め」は必須です。そこで、ここでは端的に「悔い改めなさい」からストレートに入りました。それから「洗礼を受け」ること、それは即ち「罪を赦していただ」けるということに外なりません。「そうすれば」とペトロの言葉はひとつ溜めてから、「聖霊を受ける」ということを持ち出します。ルカ的には、そこに救いが全うします。少なくとも、救いへと必ず導いてくださるものです。以上が、信じた者の辿るメカニズムです。続いて、この福音が伝えられる範囲を明らかにします。
この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもたちにも、また、遠くにいるすべての人にも、つまり、私たちの神である主が招いてくださる者なら誰にでも、与えられているものなのです。」(使徒2:39)
「誰にでも」ということは、この先、異邦人にも福音が伝えられてゆくプランを先取りしています。使徒言行録全体のストーリーがここに滲み出ています。だからまた、この聖霊降臨のときにペトロが喋っただけの文章ではないわけです。
ペトロは、このほかにも多くの言葉で証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と言って彼らを励ました。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼(バプテスマ)を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。(使徒2:40-41)
「邪悪なこの時代から救われなさい」ということは、ルカにしてみれば、読者すべてに対するメッセージであるのでしょう。イエスが地上で人々に語ったことを受け継いで、イエスに成り代わり、いまペトロが伝えています。それはとりもなおさず、ここから弟子たちによる宣教が始まり、イエスの教えが世界へと進み拡がってゆくことを含意しているのです。
それはよいのですが、これは何ですか。「その日に三千人ほどが仲間に加わった」のはいいにしても、それが洗礼を受けた人の数をも意味しているのだとすると、まさか、としか思えません。ガンジス川で水を浴びるだけだとしても、難しい人数でしょう。10時間続けたとしても、1分あたり5人の計算になります。洗礼を授ける者が10人いたとしても、1人あたり2分しか使えません。
◆三千人の居場所
もちろん、これを文字通りに、また数字通りに受け取る必要はありません。「すべてのイスラエル人が集まった」というような記述に、旧約聖書で時折出会いますが、どう見てもレトリックとして思えないことがしばしばあります。ここでも、やはり一日のうちに三千人とは信じがたいものです。いえ、それをある意味で、私たちは信じます。
と言っても、徐々にそうなった、という合理的な説明がしたいのではありません。「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ」た、と書かれていました。「これ」とはペトロの説教です。そのペトロの説教は、教会における伝道説教のようなものであり、教会生活をするための信仰箇条であったのではないか、と先ほど考えました。だとすると、この教会の伝道の仕方が、たくさんの人を洗礼に実際に導いたのだ、ということを、この場面で描くには、正にいま書かれていたような書き方が適切であったのかもしれないではありませんか。
そうでないと、洗礼の不可能性もさることながら、ペトロたちが潜んでいた家に、その三千人以上の人が押し寄せてきたということになります。ペトロの説教を聞いた人数が洗礼者の人数以下ということは考えられないからです。プロサッカーの試合では、なかなか観客が集まらない試合に、とにかく三千人を集めよう、というプロジェクトを立てているチームが、いくつもあるようです。
この聖霊降臨のときでなくても構いません。聖霊を受けて激変したキリストの弟子たちのことは、多くの人の注目を浴びたということでしょう。「天下のあらゆる国出身の信仰のあつい人々」(2:5)というのは、出身そのものはユダヤの地ではないにしても、ユダヤ人の神に対して信仰をもっていた人々のことを意味している可能性が高いように思います。「敬虔な人」(使徒10:2)のような言い方が、そのような立場の人を表していることがあるからです。
彼らが、事件を目撃しました。そして、ペトロの説教を聞いて、その全員ではないにしても、仲間になっています。
ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。そして、一同はひたすら、使徒たちの教えを守り、交わりをなし、パンを裂き、祈りをしていた。(使徒2:41-42)
普通、ここからの説教では、この「教えを守り、交わりをなし、パンを裂き、祈りをしていた」という聖句から語られることが多いものです。もちろんそれにも興味がありますが、いま注目すべきは、彼らが「一同」と呼ばれる立場になったことです。「仲間」として、「一同」と呼ばれる存在は、ありがたいものです。そこに居場所があるということです。神の国がそうであるのだとしても、教会というところが自分の居場所であるのは、うれしいことであるに違いありません。
◆何をすべきか
使徒言行録が成立したのは、研究者たちの判断では、紀元1世紀の遅い時期であるようです。少なくとも、この初期の教会の出来事については、半世紀ほどの時を経て、過去の出来事として記録したことになります。
確かに、キリストの弟子は増えていったのです。その数を推定するのは、全くできないとしか言いようがありませんが、ローマ帝国の中で迫害されることが多々あったにせよ、やがてローマ帝国をキリスト教は覆うように精神的な指針となってゆきます。もちろん、使徒言行録が書かれた時点では、そのような気配は全くありません。それでも、ルカは、そのような時が来ることを願っています。いえ、聖霊により、そうなることを知らされている、とでも言えばよいでしょうか。
私たちは、ここで歴史を捜索しているわけではありません。使徒言行録の記述が、歴史と一致しているかどうかを研究しているのでもありません。しかし、これらが神の言葉であること、つまり神からのメッセージであるものとして受け止めるだけの、ささやかな信仰は与えられています。
その信仰の眼差しからすると、この人々の反応は、過去の一時的な出来事に過ぎないものではないことになります。ペトロの説教が、いまもなお響いてくるべきものとして記録されているように、それに対する人々の反応もまた、私たちのものとしてここに書かれていると理解したいものだと思います。
そうです。「兄弟たち、私たちは何をすべきでしょうか」と人々はペトロたちに問いました。これは、私たちが問うべき言葉でもあるはずです。あの時代、あの土地で投げかけられた問いかけは、いまこの時代、この場所で、神を求める誰もが、問わねばならない言葉であるとして、私たちも口にしてみましょう。「兄弟たち、私たちは何をすべきでしょうか」と。
ペトロは、「悔い改め」「洗礼」「罪の赦し」そして「聖霊を受ける」ことを並べました。それは私たちへも同時に向けられていることです。その理由は、ペトロも確かに言ったではありませんか。「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもたちにも、また、遠くにいるすべての人にも、つまり、私たちの神である主が招いてくださる者なら誰にでも、与えられているものなのです」と。
私たちは、こうして教会に属する者となるのです。けれども、地上にある「教会」という宗教法人組織に属することがどうしても必要であるのかどうか、それは決定打ではないと私は思います。西欧社会はそれを固く守ろうとして、歪みも生みました。日本の寺請制度は分野は違いますが、「属する」ということについて、いろいろ考えさせる歴史上の出来事です。
従って、キリスト教入門は、「聖書の読み方」という本のように、「聖書」を開いてみることを中心に捉えて然るべきではないかと考えることを、まずはお薦めする次第です。
◆神の言葉
聖書に書かれてあるものは、歴史文献ではありません。調査の対象で終わるものではありません。聖書からは、神からのメッセージが聞こえてきます。遥か遠い時間を超えて、遥か遠いイスラエルの地を超えて、時間的にも空間的にも制限を設けないままに、神の風が吹いてきます。風は霊であり、人を生かす息です。神の恵みは、聖霊降臨の日のように、かつて注がれ、いま私たちへも注がれています。
それは、将来にも注がれるでしょうか。イザヤの預言の中に、慰めの言葉が、大きく響かせようと待ち構えています。
これが彼らと結ぶ私の契約である――主は言われる。/あなたの上にある私の霊/あなたの口に置いた私の言葉は/あなたの口からも、あなたの子孫の口からも/その子孫の子孫の口からも/今より、とこしえに離れることはない/――主は言われる。(イザヤ59:21)
ここのところ、イザヤ書から多くの勇気を与えられています。きっと聖書をお読みの方にも、そうした経験がおありでしょう。詩編もそうですが、イザヤ書は、新約聖書にたくさん引用されている旧約の文書です。預言者はしばしば「主は言われる」と宣言します。一番その言い回しが多いのはエレミヤ書ですが、イザヤ書はそれに次いで多く、幾度も「主は言われる」という言葉が挟まれてきます。
神の霊は、あなたの上から離れない。神の言葉は、あなたの口から離れない。今も、そしてとこしえに。イザヤの逞しい言葉がここに力強く響いています。神の愛は、あなたから離れないのです。離れたくないのです。
神が告げる救いの恵みは、「誰にでも、与えられ」るのです。そうして、「邪悪なこの時代から救われ」るというのです。
正にこれが、キリスト教入門に相応しい、知らせでありました。そうです。「キリスト教のすすめ」と呼ぶべきものの本質が、ここにあるのです。