恵まれた信仰を大切にしてほしい

2025年6月11日

信仰という領域に於いて、異端の中で育まれるということが、どんな影響を与えるのか、分からない人には分からないだろう。福音を聞いて信仰を与えられた人が、聖書にそんなことは書かれていない、と信仰から離れてゆくのを見ると、そう思う。自分がどんなに恵まれてきたか、について思いが及ばず、徒にその恵みに背を向ける態度をとっているように見えるからだ。
 
一旦「救い」と思って信じ込んだものを、別のものに取り替えるというのは、経験のない人が思うほど、簡単なことではない。「実はおまえは私の子ではない」と急に言われた子どもが、どう混乱するかを想像すれば、少し近いかもしれない。
 
なんといっても、一度それが「救い」だと思ってしまった事実がある。あたりまえのことだったものが、違うと言われても、俄には信じがたいであろうが、やっとのことで初めて信仰したものが嘘だ、と自ら覚ったときの衝撃は、半端ないものであるはずだ。
 
村上春樹氏が、オウム真理教の信者から苦労してインタビューした内容を明らかにした本がある。相手は幹部ではなく、末端の信者である。概して地下鉄サリン事件は教団のものではないだろう、と当初見ていた者ばかりだった。どうやら風向きが悪いと揺れてきたときにも、それでもその宗教を棄てるというのは難しいような人が殆どだった。
 
もちろん、中には、少し冷ややかに見ていた人もいる。教祖を少し突き放して捉えていたようではあるが、それでもきっぱり背を向けるというのは難しいのだ。彼らはえてして、宗教とは何かを学校で学んだことがないし、最初に出会った宗教体験がオウム真理教であった。外部の人が見るほど、簡単に宗旨替えはできないのである。
 
統一協会についてもそうだ。家を出て悲惨な生活を強いられていても、本人が信じ込んでしまっていると、もはや家族もサタンの手下にしか見えなくなる。家族が、キリスト教会に相談することもある。そうした使命を自覚した牧師などもいて、教団から子どもを取り返そうと動く。すると今度は、それこそが拉致だ、洗脳だ、人権侵害だ、と教団側が大きな声を出す。それは一時非常に多かったのだが、実は最近、統一協会が再び世間から注目され始めたために、再びそうした声が起こっている。元の統一協会を知らない若者に訴えると、その声が正しい、と思いこむようになるのが狙いである。そうした陰謀論は、人の心を簡単に虜にしてしまうことが少なくない。
 
たとえば、ブランド品の偽物というものがある。偽物を体験している人は、本物との違いを知ることができるかもしれない。しかし、本物しか知らない人は、今度は「それは偽物ですよ」と言われたとき、今度は本物を偽物だと思いこむようになる可能性が出てくる。
 
私は偶々、異端的な教義のところに最初に触れた。ただ、聖書という基準があったので、やがてそれがおかしいことに気づくことができた。それでも、一度でも信じたものを自ら否定するのには、勇気が要る。自分の体験すべてが嘘であったのかどうか、葛藤が入ってくるからだ。しかし聖書の言葉を頼りにすることで、神の真実を知ることになった。
 
異端的なものから信仰生活を始めてしまった人の苦しみについては、体験的にわずかでも理解できる。その人の苦しみを知るなどとはとても言えないが、苦しいだろうことは想像がつく。他方その人は、偽物を知るが故に、本物を知ると、逞しくなるだろうということも推測できる。違いが分かるからだ。
 
それがなく、最初から一途に幸福な信仰生活を始めるに越したことはない。だが、そのときの危険性も弁えておいて損はないと思う。つまり、その幸福な信仰内容への疑いが始まると、信仰を棄てるという道に迷い込んでいくのではないか、ということである。そしてしばしば、今度は信仰生活というものを批判する側に回る。ただ批判するだけならまだいい。信じようとする人を惑わし、妨げるようにしてしまうことがあり得る。
 
そういうことのために奔走しているのだ、とファリサイ派の人々を、イエスは非難した。自分ではよいことをしているつもりで、人を殺す者がいる、という指摘もした。私たちは、自分がそういうことをしているのではないか、と常に自問していく必要がある。聖書は、人を生かすためにそこにあるし、そこに神が働いているのだ。



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