人を生かす言葉を伝えるために

2025年6月9日

過越祭が移動祝祭日であるため、その50日目にあたるペンテコステ礼拝も、毎年移動する。「五旬節」とも言われる所以である。今日は、2025年のペンテコステ礼拝の日。聖霊降臨記念日でもあるし、教会が始まった日と見なされることもある。
 
教会では、複数のトラブルがあり、人の生死に関わることとなった。教会の責任ではない。ただ、人の運命が分かれたということであった。それはどちらも突発的で、誰もが驚かされたことであった。もちろん、それを詳述するつもりはないし、必要もない。ただ、礼拝の時は、福音を語る時である。
 
韓国出身の説教者にとり、日本語で語るということは、ひとつのハンディキャップと言えるだろう。使徒言行録2章の出来事は、他人事ではないと思うところだろう。
 
私たちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、リビアのキレネ側の地方に住む者もいる。また、滞在中のローマ人、ユダヤ人や改宗者、クレタ人やアラビア人もいるのに、彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。(使徒2:9-11)
 
いつも比較的オーソドックスに、開かれた聖書箇所を辿りながら、そこに「人を生かす言葉」の筋道を見出し、伝えようとする説教者である。今日は、使徒言行録2章の前半を取り上げた。また、旧約聖書からは、そこで引用されるヨエル書3章が開かれた。
 
イエスの弟子たちに、一斉に聖霊が降ったという記事がここにある。それは、どこまでどのようにありのままのことを描いているか、分からない。ただ、思い込みで読むのもよくない。私も、かつて思いこんでいたことがあったのだ。ここに現れたのは、「激しい風が吹いて来るような音」と、「炎のような舌」である。端的に言えば、この二つである。風ではなく、音であった。炎ではなくて、舌であった。だからまた、その舌が、日々と二各国の言葉を語らせたのだ、とも言える。
 
もちろん、「風」は神の「息」のことでもあり、「霊」でもある。昔の人は、この言葉の中に、少なくとも三つの意味をこめて用いた。場面により、訳し分けるより外ないのだが、母語で使う人は、ごく自然に使い分けているはずである。私たちも「生物」という文字があるとき、「せいぶつ」と「なまもの」とを、文脈で取り違えることはない。「life」を「生命」「人生」「生活」のどれだ、と混乱してしまう英米人はいないだろう。
 
しかし逆に、たとえ「霊」と訳されていても、そこに「風」の感覚を取り入れて味わうことはできるかもしれない。説教者は、風は人の力で支配できないことを指摘した。風を負うような空しいことを繰り返した知恵者も旧約聖書の中にいた。また、風は思いのままに吹くことを、イエスがニコデモに語ったこともある。風に揺れる葦を見たに過ぎないのか、という批判もあったが、私たちは、葦が揺れるときに、そこに風があることを意識することもできるようになった。霊的な動きが、見える世界の背後にある、と信じるのが、信仰者である。
 
確かにこの世には、望みがない。私は、人間の考え方やしていることについて、かなり絶望的な見方をしている。精神的な方面でいえば、いまは政府を批判したり、戦争は悪だと行ったりするのが常識のように思いこまれている。だが、ひとたび事態が変われば、回れ右で、一斉に戦争支持に変わることは確実だと見ている。しかも、反対者には圧力と暴力を以て臨む、あの戦時中のイメージが、現実になることは間違いない、と考えている。
 
聖霊降臨の現場を目撃した人の間に起きて疑念に対して、ペトロたち12人が立ち上がって弁明した。ペトロは、ヨエル書を引用した。「若者は幻を見、老人は夢を見る」というのは、ひとつのパラドックスである。現実に圧され、希望をもてない若者がいる。老人は、昔のことを繰り返し唇に上らせるばかりだ。将来の夢や理想を語るような老人はいない。しかし、預言によると神の霊が注がれたとき、それらは変わるのだ。「幻」と「夢」が別物であると考える必要はない。ユダヤのレトリックでは、同じことを対句で並べるときには、別の単語を用いるのである。神の霊を受けたキリスト者は、神の国が確かに見えるのだ。見えているはずなのだ。イエスの言葉の中に、それは見えるのである。
 
説教者が、それは「人を生かす言葉」だとはっきり言った。繰り返すことはなかったが、もっと繰り返してほしかった。結局のところ、語る福音、伝えるべき救いというものは、そういう接点を以て、聖書を知らない人の心に飛び込んでゆくものではないだろうか。
 
この霊は、同じ幻や夢を見せてくれる。神の同じ霊を注がれた仲間は、その神の僕として共に集い、つながってゆく。説教者の言葉を借りれば、「聖霊により結ばれた者たち」となる。このとき、ペトロのように「語る」がいる。礼拝説教を「語る」者がいる。しかし、「聞く」者がそこにいることも確かなことである。そして、「語る」ことから「聞く」ことへと、「伝わる」必要がそこにはある。
 
教室で、子どもたちに勉強を教える。いくら教師が、見事な説明をしたところで、生徒には何の理解もできていない、という場合がある。新米教師の陥りやすい罠である。自分が授業で何を喋るか、にしか考えが届かないのである。生徒の目を見て話しているか。生徒がいまどこまでどう理解しているか、その反応を微妙な表情や仕草の中に感じているか。自分の説明が相手に届いているか。受け止められているか。
 
説明の巧拙はもちろん関係している。だが、近年とみに感じるのは、「言葉」そのものである。語る側には常識的な言葉であっても、聞く生徒の側には未知の言葉というものが、いくらでもある。子どもだから知らない、という点は、語る大人は誰でも考えるだろう。それでも、同じ語を連呼して授業を進めるばかりの教師も、いないわけではない。同じ意味のことを、複数の言葉で言い換えながら説明を続けることが必要なのである。そのうちのどれかひとつでもその子に引っかかれば、意味が伝わる可能性ができる。そう考えて、様々な言葉を使うことが望ましいのだ。
 
だいたい、「レンゲソウ」や「ミズスマシ」などの生き物も殆どの子どもが知らない。諺など、外国語を聞くような目で見つめられる。ちょっとした動詞や形容詞も、伝わっていないことが度々ある。だが、伝わる言葉を使って説明しないのは、語る者の側の失策である。
 
説教者が、誰もが自分の言葉で福音を語ることができる、と言ったのは、そのような狭い意味ではない。神の霊はもっと自由に働く。説教者は告げる。「あなたも語る者とて選ばれている」と。
 
韓国から日本に来た説教者が、言語的な点で苦労を抱えることは先に挙げたが、しかしそれをとやかく考えてはいない。同じ主を仰ぎ、同じ聖霊に満たされて、ひとつになっているとなれば、それだけで十分だ。ただ、自分のこの導きの中に、「ペンテコステの出来事の続き」を見るという信仰が、頼もしい。聖霊の働きはいまもあるのだから、聖書に書かれた出来事は、いまもこの現実の中で受け継がれているし、展開している。聖書を読む、聖書を信じるということは、そういうことを言うのである。
 
アフリカへの宣教師の逸話が語られた。この説教者にとっては、このようなタイプの逸話を交えることは、比較的珍しい。内容は、要するに現地の言葉で伝えようとしたときに、初めて福音が伝わった、ということだ。当たり前のことであるかもしれないが、先の授業の例にも通ずることであり、私たちが何かを「伝える」ときには、大切な基礎となるだろう。
 
だったら、キリスト教会は果たしてどうであるか、顧みる必要もあるだろう。教会内で、教会用語を使うのは差し支えないのだが、教会外へも、それを使って福音を伝えようとしていなかつただろうか。理解できないほうが悪いのだ、と言わんばかりの高みから、聖書の教えを垂訓めいて語るのだぞ、という態度が覚られるようではなかっただろうか。
 
否、そんなつもりはない。きっと教会は言うだろう。だが、自分はいじめていない、自分は差別などしていない、という自己言明が、最も信頼のおけないものであることは、いまや常識である。明治期以来、どちらかというとエリート層から受け容れられ形成されていったキリスト教なるものの中に、そういうものがない、などとどうして胸を張って言うことができるだろうか。
 
説教者は、この後、教会の姿を描いた。聖霊で結ばれた新しい家族である、というように。その聖霊は、喜んでいる人にばかり注がれているわけではない。迷う者、疲れた者、泣いている者にも、聖霊は同じように来てくださっている。それは風のように見えないが、確かに神の霊として働いている。そして神の命を吹き込まれて人が生きるものとなったように、人を昨日も今日も、そして明日も生かし続ける。
 
聖霊により、人は変えられる。人は、聖霊によって変わることができる。聖霊は、人を立ち上がらせる。つまり、復活させる。そのためには、人は死ななければならない。滅びの詩ではない。罪に死ぬのだ。だが、その罪の自分は、イエス・キリストの十字架に共に死んでいる。それを信じるならば、罪は無効となる。イエス・キリストの死の故に、無罪となる。これもただ恵みである。私が何かをした故ではない。ただ神のために、でしかない。私たちは、その神を称えるしかない。神の栄光をほめたたえるばかりである。
 
「しかし、主の名を呼び求める者は皆、救われる」というヨエルの預言を、ペトロは引用した。説教者は注目する。「皆」とあるではないか。呼び求める者は皆、救われるのである。これは神の「約束」である。あなたの立っているそこは、聖霊の働きの「現場」である。聖霊の「場」にあなたは立っている。それは、その神の「約束」によって立っている、ということである。
 
心が奮い立つ、と言うと少しニュアンスが違うかもしれない。だが、心に勇気が与えられ、確かに、さあ立ち上がるぞ、という現実を強く覚えるようになる。メッセージを聞いて、そのようになるのだとしたら、確かにこの説教には、聖霊が働いていたのだ。いま私たちは聖霊を受けて、内に燃えるものを確かに感じたのだ。
 
それを、自分の言葉で、そしてできれば誰かに対しては、その相手に通じるような言葉で伝えたい。今日の説教の中では直接触れなかったが、そこにあるのは確かに「愛」である。聖霊が与えるのは「愛」だ。そのような向きで、また新たなメッセージを綴ることが、できるのではないか、と密かに思うのであった。



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