本のひろば

2025年6月9日

「本のひろば」という小冊子は、クリスチャンにはよく知られていることだろうと思う。ジャンルとしては、その表紙に書いてあるように、「[月刊]キリスト教書評誌」ということだ。税込み78円と値がついているが、岩波書店の「図書」のように、大きな書店では自由に持ち帰ることができるように、置かれている。それで私は、毎月もらってくるようにしている。
 
24頁しかないので、内容が豊富であるとは言いにくいのだが、新刊一覧表もあるし、内容を豊かに伝えてくれるので、大いに参考になる。キリスト教の書籍を読んで評するとなると、だいたい同じような仲間が評することになり、また事情をよく知る親しい人であることもあることもよくあり、非常に好意的に書かれていることは、暗黙の了解だと言えるだろう。
 
こうした関係者の間では、互いに本を贈り合う習慣がある。丁寧に、誰それ先生からの「謹呈」(贈呈?)があった、とSNSで逐一報告する人がいるので、そういう事情がよく分かる。そして、高価な本がどんどん手に入るという様子を、少々羨んでいる。
 
本を出すほどの力のある牧師であれば、教会から給与の他に「図書費」という手当があることが多い。決して月に千円や二千円ではない。その上で、このように高価な本が流入してくるというのは、全部自腹でやりくりしなければならないような者からすると、世界が違うのである。
 
さて、「本のひろば」には、冒頭の1頁目に、「出会い・本・人」という本との出会いのコーナーがあるが、今回は、今井小の実氏が、『自分のなかに歴史をよむ』(阿部謹也)を挙げていた。ここでは今井氏の経験が書かれており、短い叙述なので、この本の内容には踏み込んでいなかったが、これは私はかつてたいへん感動して読んだ本である。実に優れた学問論であると私は思う。「博士課程に進む道を開いてくれました」と書かれていたが、「歴史研究の楽しさに気づかせ誘ってくれた大切な一冊」だというその思いは、とてもよく分かる。同じ本に感動した人の文章は、実に親近感を覚えるものだ。
 
また、「本のひろば」には、「シリーズこの三冊!」というコーナーが続いている。毎月、一人が一つのテーマに沿って三冊の本を紹介するのである。新刊でなくて構わない。これが一番愉しみなのであるが、今回6月号では、「贖罪」を問うということで、最相葉月氏が薦めていた。
 
最相葉月氏といえば、なんといっても2023年の『証し』が私にとっては大きい。わくわくして読んだ。コロナ禍の中、全国を巡り、キリスト者にインタビューを試みた。それは、キリスト者の本音とも言えるものであって、決して模範的な回答が集められたわけではなかった。ある意味で、とんでもない信仰告白が拾われて、活字となったのだ。
 
ここでは、本の著者に遠慮したり媚びたりする必要はなくなる。ただ、薦める以上は、本を批判する場所ではない。私たちにとり、これらの本がどのように意義があるか、そしてその問題はどういうことであるのか、ストレートに語っている。
 
最相葉月氏は、キリスト者ではない。だから、人目を気にすることなく、本と問題に対して、鋭い指摘をすることができる、とも言える。コロナ禍のときに、「自称預言者」が現れたというのは、間違いなく一部のキリスト教会のことである。また、「多くの教会が混乱」していたことにも言及している。こうした言い方は、これまで案外このコーナーではなされていなかったのではないかという印象を私はもっている。
 
レギュラーの書評が幾冊か並んだ後、6月号の最後に挙げられたのは、『説教の聴き方』(朝岡勝)であった。評者は、鎌倉雪ノ下教会の川ア公平牧師である。もちろん、これは本書をお薦めするためであるし、如何に本書が有用かということしかここには書かれていない。しかしその点は、お決まりのことであるから、とやかく言える立場ではない。
 
この本は、今年の1月に発売された。その知らせがあってから、私は実は気にしていた。しかし、買うには至らなかった。宣伝からすると、聴く側の問題ばかりが強調されていたからである。私は、説教を語る側を問題としていたのであれば、買おうと考えていたのだ。しかし少しくらい、それが書かれてあるかもしれない。書店の棚で現物を見たのは、しばらくしてからだった。ぱらぱらとしかめくっていないが、どうやら最後まで、語る側の問題には触れられていなかったように見えた。
 
この書評にも書いてあるように、「『説教で満たされない……』と悩む信徒たちへ/『説教が伝わらない……』と悩む牧師たちへ」というのが、本書のモットーであるようだった。この書評が指摘していることを読んでも、やはりタイトル通り「聴き方」の問題なのであった。
 
もちろん、事はそれほど単純なことではない。「語り手」と「聴き手」との信頼関係が構築されなければならない、ということで、語り手が「孤独に耐えなければならないが、孤立してはならない」という厳しさも記されており、さらにそこでは愛というものが重要であることが指摘されている。
 
やはり、語り手はちゃんと神の言葉を語っているのに、聴き手に基本的に問題がある、という前提のようなものがあることは否めないと思った。私のぱらぱら見たときの印象は、違ってはいなかった。
 
どうすれば説教を恵みのうちに聴くことができ、神の言葉として説教を聴くことができるのか。それを助けようというような姿勢であり、一見、聴き手の身になった、親切なアドバイスのようにも聞こえる。だが、それは違うと思う。
 
学習塾で、私は精一杯教えているつもりである。だが、生徒が分かってくれない。私の説明が伝わらない。このとき、自分はきちんと教えているのに、生徒の聴き方に問題があるのだ、というようなことを考える教師は、一人もいない。もしいたら、その仕事をやってはいられなくなる。
 
どうすれば伝わるのか、考えるのは教える方である。どうすれば聴こうとする気持ちにさせるのか、よしやるぞという気持ちにさせるのか、それはすべて教える側の責任である。生徒がそのようにならないとすれば、教える方に問題があるのである。教えることが、できていないのである。あるいはまた、自分が理解しているその教科内容が間違っているのだ。
 
塾の教師は、そのようにしか考えない。もちろん、そこに「信頼関係」というものが大きいことは、当たり前である。その信頼関係をつくるために努めるのは、教師の側である。つまり、教える内容についても、信頼関係についても、教える方に全責任があるとしか言えないのである。
 
牧師と塾教師とを一緒にするな、と言われそうである。そう、一緒ではない。だが、構造の上で、どれほどの違いがあるのだろうか。説教者の中には、多くの信徒よりも信仰が分かっていないことがあるという実例を、私は目の前で見てきている。説教が説教ではなくなっているし、信徒の方も、説教を聴くために教会に来ているというふうではなくなっていることが、現実にあるのだ。
 
「聴き方」というタイトルを掲げたのだから、その本はその本であってよいだろうし、存在意義はあるだろうと思う。だが、説教で満たされない・説教が伝わらないという問題の根本に、全く別の可能性があることに触れないでいては、問題の解決にはならないであろう。語る側が十分問題なく語っているという前提である中での解決の道を、語る側が本にして著している、ということでよいのだろうか。



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