(イザヤ11:1-10, テサロニケ一2:1-8)
エッサイの株から一つの芽が萌え出で
その根から若枝が育ち
その上に主の霊がとどまる。
知恵と分別の霊
思慮と勇気の霊
主を知り、畏れる霊。
彼は主を畏れることを喜ぶ。
その目の見えるところによって裁かず
その耳の聞くところによって判決を下さない。(イザヤ11:1-3)
◆夕焼け
夕焼け 吉野弘
いつものことだが 電車は満員だった。
そして いつものことだが
若者と娘が腰をおろし としよりが立っていた。
うつむいていた娘が立って としよりに席をゆずった。
そそくさと としよりがすわった。
礼も言わずに としよりは次の駅で降りた。
娘はすわった。
別のとしよりが娘の前に 横あいから押されてきた。
娘はうつむいた。
しかし また立って 席を そのとしよりにゆずった。
としよりは次の駅で礼を言って降りた。
娘はすわった。
二度あることは と言うとおり
別のとしよりが娘の前に 押し出された。
かわいそうに 娘はうつむいて
そして今度は席を立たなかった。
次の駅も
次の駅も
下唇をキュッとかんで
からだをこわばらせて――。
ぼくは電車を降りた。
固くなってうつむいて 娘はどこまで行ったろう。
やさしい心の持ち主は いつでもどこでも
われにもあらず受難者となる。
なぜって やさしい心の持ち主は
他人のつらさを自分のつらさのように 感じるから。
やさしい心に責められながら 娘はどこまでゆけるだろう。
下唇をかんで つらい気持ちで
美しい夕焼けも見ないで。
吉野弘さんについては、話し出すといろいろ止まらないだろうと思いますので、我慢します。ともかく、私の好きな詩のひとつです。心をくすぐるような、そしていじらしいような、何かを心にもたらすような気がするのです。
大人になると、少々図々しくなって(?)、席を譲るくらいのことが平気でできるようになります。しかしやがて、大人になりすぎると、優先席に座るくらいのことも平気でできるようになります。
しかし、若い世代には、なかなかこの勇気が出せません。この娘さんは、とても勇気があったのだろうと思います。けれども、機械的に譲ったのではなくて、一つひとつやさしい気持ちから心を注いでいたからこそ、三度目には、何かが気になったのかもしれません。
今日は、そんな「勇気」のことを、少し立ち止まって心に刻んでみたいと願っています。
◆ある種の孤独
とはいえ、優先席にどっかと座り、ひどいときには二つの優先席にまたがるようにして隣りには誰も座れないように圧力をかけながら、スマホに熱中しているのは、ここのところ益々増えているのも、見る限り確かです。もちろん、若者には限りませんが。
他人に無関心である世情は、昔から言われていましたが、近年とみに強くなるような気がしてなりません。スマホを通じて遠いものとはつながるのに、目の前の人のことは全く考えようとしない。スマホを口実に、気づかないふりをしているのかもしれません。
先週、「孤独」のことを考えてみました。「孤独」は自ら選ぶことができるけれど、「孤立」はさせられる。イエスはどうだったでしょうか。期せずして孤立した面がないとは言えないかもしれませんが、自ら寂しいところを求めて祈りへと集中したようなこともありました。そのことは、教えの中にも活かされています。
あなたが祈るときは、奥の部屋に入って戸を閉め、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。(マタイ6:6)
なにも、文字通り暗い部屋に閉じこもればいい、と言っているわけではありません。他人に信仰を見せびらかすような真似はするものではない、とイエスも戒めていましたが、さらに非常に象徴的な意味合いが隠されているようにも読めます。それは、それぞれの方が感じ取って戴ければよいのであって、私が私の捉え方をとやかく押しつけるつもりはありません。どうぞ、誰に見せるためでなく、ただあなたとあなたの神との間に架け橋がありますように、と願っています。
また、その直前には、このような言葉もありました。
施しをするときは、右の手のしていることを左の手に知らせてはならない。(マタイ6:3)
他人に見せるための信仰であってはならないのみならず、自分自身の中でも、何かしら与える行為をしたことを、他の手にさえも知らせるな、と厳しいことを言っています。私たちは、どこまでも徹頭徹尾、孤独であることが求められる場合があるようです。時に、それが善行であったとしても、自分の全身がその思いで喜ぶようなことをしてはならない、というように受け止めることも可能であるかもしれません。
◆勇気は考察されない
いま、NHKの朝の連続テレビ小説、いわゆる「朝ドラ」では、「あんぱん」が放送されています。いまでいう「アンパンマン」がモチーフとなっています。
元祖アンパンマンとも呼べる、おじさん風なキャラクターの絵本を見たことがあります。お腹を空かせた子どもたちにパンを食べさせるのですが、まだ顔をちぎるわけではありませんでした。いまの姿に近くなるのが「あんぱんまん」です。顔の半分がなくなる姿もあり、ついには頭が全くないままに空を飛ぶような絵もありました。
絵本から、「それいけ!アンパンマン」というテレビアニメになったのが、1988年秋でした。歌詞が鮮烈でした。オープニングテーマでは、「アンパンマンのマーチ」の2番が歌われていますが、全体を見るとグッときます。東日本大震災のときに、この歌が人々を慰めたという話も伝わってきています。
愛と 勇気だけが ともだちさ
今日はここだけ取り上げます。これは、ある意味で寂しいことです。ともだちが、愛と勇気「だけ」なのです。けれども、アンパンマンには仲間や味方がたくさんいます。決して愛と勇気「だけ」ではありません。むしろ、愛と勇気を大切にするからこそ、友だちもできる、と見たほうが自然であるような気もします。
アンパンマンは、最初の登場は、実に孤独でした。やなせたかしさんは、こんなことを本の帯に出しています。「ほんとうの正義というものは、けっしてかっこうのいいものではないし、そして、そのためにかならず自分も深く傷つくものです。」アンパンマンも、かなり孤独なように描かれていたと思います。
作者のやなせたかしさんには、晩年、一時「クリスチャン説」が流れました。イエス・キリストの教えにつながることを発言したり、生み出したりしていたからでしょうか。基本的に伝説に過ぎませんが、もしも「いいひと」だから、クリスチャンであるに違いない、というような意味も含まれているのなら、「クリスチャン」の社会的評価が悪くないことを意味しているのかもしれません。
「愛」は確かに聖書も強調しています。では「勇気」はどうでしょうか。西欧の本の翻訳をよく読みますが、あるときに気がつきました。「勇気」という言葉が、よく登場するのです。恐らく日本人の手による日本語の本よりも、もっと頻繁に「勇気」が出てくるような気がします。何気なく、当たり前のように、様々な箇所で「勇気」という言葉を使うのです。
西欧では、プラトンが『ラケス』を「勇気について」ということで著していますし、国家の徳の一つとしても「勇気」を挙げています。その中で出て来た「勇気」は、「戦争で逃げないこと」や「思慮を伴った忍耐強さ」その他対話は進みますが、結局ソクラテスは、持論である「善と悪とを見分ける知」があってこそ、「勇気」も他の徳も成り立つのだ、というところへ皆を連れてゆきました。
プラトンは西洋哲学の基盤ですから、西洋思想の伝統の根柢に、「勇気」は確かに位置していると思われます。しかし、その割には「勇気とは何か」をプラトン以上に突っ込んで考察するほどの主題にはなかなかなりません。新しくはティリッヒが『生きる勇気』という興味深い本を出しています。神学者ですから、そこには神との関係があってこその勇気だという結論が控えていたのだろうと思います。が、なかなかあまり正面から、特別に勇気については取り上げられないようです。
正面から取り上げないのは、むしろ論ずる必要すら感じないほどに、「勇気」の大切さが当たり前になっている、ということなのかもしれません。人が考える中に、行動する中に、勇気が徳として前提されているかのようにも見えます。
日本人の考察では、内田樹の『勇気論』というのが面白かったのですが、それも、勇気について論じているものが見当たらないから、書いてみよう、ということのようでした。学術的なものではないエッセイのような感じで、語るように柔らかく書かれていますから、機会があれば、開いてみると面白いと思います。
◆聖書の中の勇気
聖書でも、勇気というものが特にテーマになって考えられている様子はないのですが、それよりも、「勇気を出せ」というような意味で、案外たくさんの「勇気」が登場します。新約では「勇気」というの訳語は6つの節に使われるくらいですが、旧約には26節現れます。
「勇気」という語ではありませんが、頭にすぐ浮かぶのは、ヨシュア記です。その最初のところで、ヨシュアに主が何度も何度も「強く、雄々しくあれ」という言葉をかけます。逆に言えば、ヨシュアが怯んでいた、ということになるのでしょうが、それは「勇気を出せ」ということと重ねて捉えてもよいような気がします。実際、聖書の中で「勇気を出せ」という言い回しも、旧新約併せて8つの節に見出されます。
これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。(ヨハネ16:33)
勇気を出せ。すでに世に勝っている。この言葉が礼拝説教で取り上げられるときには、決まって「世に勝つ」ところが強調されます。しかし、私の知る限り、「勇気」をメインに取り上げた礼拝説教はありません。知らないだけかもしれないとは思いますけれども。
しかし、一旦「勇気」を気にしてしまうと、聖書の中のいろいろな場面が思い起こされるのではないでしょうか。イエスが十字架で殺されて葬られた後、ペトロたちは、人目につかないように隠れていたはずです。しかし、女たちがイエスを見たと言うのを聞いたとき、墓まで走って行ったといいます。それができたのも「勇気」の故ではなかったでしょうか。
イエスに出会った後のパウロの人生は、もう「勇気」の塊です。命を狙われてなお、イエスは主であると伝えるのを止めませんでした。異邦人に福音を伝えるというときもそうでした。散々な目に遭うことが分かっていても、伝え続けました。これを「勇気」と呼ばずに何と言えばよいでしょう。よくぞあんなことができたものです。
「ペンテコステ」と呼ばれる礼拝です。そのときには、使徒言行録の2章が開かれるのが通例です。少なくとも、その場面が、正にこのペンテコステの礼拝がある根拠だからです。けれども、それは周知のものでしょう、という意味も含めて、取り上げない教会も多々あります。私も、今回はその考えて則ってみました。
けれどもそれは、この記事を無視する意味ではありません。どうか読んでください。礼拝の後、家に戻ってから、むしろ読んで戴きたいのです。礼拝が終わって、やれやれ、とすべてを過去に流してしまうのではなく、そこから始まる1週間を見つめながら、聖霊が降った出来事を、隠れたところでお読み戴きたいのです。
すると、そこにもたくさんの「勇気」が潜んでいたことに気がつくことでしょう。人々に注文されても平然としている弟子たち。とくにペトロは、悔い改めの説教を大胆にも語りました。聖霊が来て、彼らは変えられたのです。危険を計算せず、神の霊がさせるがままに、大胆に神の命に生きる生き方を表に出したのです。
◆イザヤ書に見る主の霊
「聖霊」というのは、確かに聖書に出てくる言葉です。「聖なる・霊」という2語によりできています。しかし、いろいろな言い回しで用いられますから、「聖霊」という語そのものは、新約聖書では100に満ちません(92)。福音書の中でもルカが使う頻度が最も多く、同じ筆者によるものとされる使徒言行録に至っては、新約全体の45%ほどを占めています(41)。
旧約聖書には、「聖霊」という言い方はありません。ただ「霊」と呼ぶことが多い(以下のものを含めて172)のですが、「主の霊」という言い方は幾らか見られます(25)。「神の霊」もそれに近いくらいあります(19)。今日、「勇気の霊」という言い方が、聖書の中でただひとつ登場する箇所を開くことにしました。イザヤ書11章です。
1:エッサイの株から一つの芽が萌え出で/その根から若枝が育ち
2:その上に主の霊がとどまる。/知恵と分別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れる霊。
3:彼は主を畏れることを喜ぶ。/その目の見えるところによって裁かず/その耳の聞くところによって判決を下さない。
聞いたことがある方も多いでしょう。クリスマスのときにもよく開かれます。「エッサイの根より」と始まる賛美歌もあります。ダビデ王の父がエッサイでした。従ってこのイザヤの預言は、ダビデ王の登場を表しています。いえ、実際のダビデ王の登場は、イザヤの時代から300年ほど以前のことです。そのため、エッサイの子孫、ダビデの子孫としての、キリストを示しているのだ、とキリスト教徒は理解しています。
ここに、さかんに「霊」が登場しています。「主の霊」は、もう少し詳しく言えば「知恵と分別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れる霊」だというわけです。
イエス自身を「霊」と呼ぶのは難しいので、イエスに霊が注がれた、というような表記を新約聖書はとっています。
イエスは洗礼(バプテスマ)を受けると、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の霊が鳩のようにご自分の上に降って来るのを御覧になった。(マタイ3:16)
また、イスラエルの初代の王サウルには、「すると神の霊が彼に激しく降り、サウルは彼らのただ中で預言者のようになった」(サムエル上10:10)というようなことも起こっていました。これは、どこか酔ったようなことでもあり、ペンテコステの聖霊降臨のときにも、異国の言葉が口から出ているなどの騒ぎから、酔っているのかと疑われるような場面が描かれていました。
ところが、イエスの上に聖霊が降ったときには、イエスは静かに霊を受けていたように思われます。
4:弱い者たちを正義によって裁き/地の苦しむ者たちのために公平な判決を下す。/その口の杖によって地を打ち/その唇の息によって悪人を殺す。
5:正義はその腰の帯となり/真実はその身の帯となる。
救い主メシアとして、イエスは歩みますが、イザヤの預言したこの霊のとどまる人物もまた、イエスのように正義をもたらしています。そしてそこには平安が訪れます。平和が臨みます。イザヤはそのことを、象徴的に描きます。これもまた有名な情景です。
6:狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。/子牛と若獅子は共に草を食み/小さな子どもがそれを導く。
7:雌牛と熊は草を食み/その子らは共に伏す。/獅子も牛のようにわらを食べる。
8:乳飲み子はコブラの穴に戯れ/乳離れした子は毒蛇の巣に手を伸ばす。
9:私の聖なる山のどこにおいても/害を加え、滅ぼすものは何もない。/水が海を覆うように/主を知ることが地を満たすからである。
これは救い主のもたらす世界だ、ということになっています。人間が実現せよ、と言われているのではないとは思います。しかし、人間は余りにも、これに反することばかりしていないだろうか。私がその平和をぶち壊しているのではないだろうか。省みたいと思います。
◆聖霊は来ている
今日はペンテコステ礼拝。復活のイエスに出会った弟子たちが、天から神の霊を受けて、ここから力強く歩き始めることを覚える時です。激しく、ドラマチックな現象が起こったように、そこには記録されています。この使徒言行録が記すような現象がなければ、神の霊は注がれないのでしょうか。救われないのでしょうか。そのように心配する人もいます。
でも、そんなことはないでしょう。アンパンマンのマーチの「愛と勇気だけ」の「だけ」が愛と勇気の他のものをも連れてきたように、それは文字通りの「だけ」ではありませんでした。そのように、ドラマチックな現象だけがすべてではないはずです。激しい救いの体験をした人もいます。それはそれでよいのですが、必ずそうでなければならない、というわけではありません。
確かに、激しい霊の現象を求める教団もあります。でも、よいのです。復活のイエスに出会った者が、聖霊を求めること、あるいはすでに聖霊を受けていること、そのことを確かなことと信じているならば、見た目の現象に囚われる必要はないと考えます。
聖霊とは、即ち神そのものです。父なる神を目にしたら死ぬと言い伝えられていたことが、聖書の文化から見てとれます。そのせいか、人が神的なものに接したら、それを「天使」と呼ぶことが多々あります。天使とはメッセージを伝える者です。神からの言葉を伝えます。でもそれはあくまでも「使い」であって、神そのものではありません。
それに対してイエス・キリストは、人の形をとり、確かにある特別な時代に地上に現れました。その「時」は特別すぎて、聖書では「カイロス」という語を使い、かけがえのない唯一の「時」であることを指し示しています。
イエス・キリストは復活後、再び姿を隠します。いまは肉体的に見える形で現れはしません。しかし、身を隠したのは一時的であって、再びまた地上に現れるときがくる、と聖書は告げています。聖霊は、そのような時代に、人の心に訪れます。聖霊は見えません。触れません。しかし、確かに導き支え、助ける力を働かせる神です。
聖霊が働いたからこそ、私たちは信じることができたのです。ただ風にそよぐ葦が見える風景がそこにあるかもしれませんが、その風があることを人は信じることができます。「霊」は「風」と同じ語です。また、「息」とも訳せます。神の息がかかっているのです。神の息が吹き入れられることにより、人は生きる者となります。
恐れることはありません。あなたも聖霊の風を受けています。聖霊降臨の日、「激しい風が吹いて来るような音」(使徒2:2)がしています。それは「音」として認識されていますが、確かに「風」と証言しています。聖霊が訪れたのです。
◆ささやかな勇気を
とはいえ、聖霊に励まされても、私たちの現実の苦しみがたちまち消え去るわけではありません。その現実に向けて、新約聖書のテサロニケの信徒への手紙から、神が実際に助けてくださる言葉を受けて、メッセージを結ぶこととしましょう。
それどころか、知ってのとおり、私たちは以前フィリピで苦しめられ、辱められましたが、私たちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中でもあなたがたに神の福音を語ったのでした。(テサロニケ一2:2)
パウロは苦しめられ、辱められたと言っています。パウロの上に、聖霊降臨のような激しい音や顕著な現象が、その都度いつも起こっていたのでしょうか。だから神の福音を語り続けることができたのでしょうか。私はどうもそのようには思えません。もしピンチの時に必ずそうなるのであれば、使徒言行録などには、毎回スーパーヒーローが大暴れして、悪の組織をやっつけるシーンが幾度も描かれていたことでしょう。
最初に、吉野弘の「夕焼け」という詩をお読みしました。あの娘は、よくぞ勇気を以て二度も席を譲ったものだと思います。青年期の人など、席を譲ることは自然になかなかできないものです。そこに必要なのは何でしょうか。大胆な度胸が、そのような人にいきなり沸き起こり、人格が変貌したように、突然できるようになるのでしょうか。いえ、そこに必要なこと、あればよいものは、ほんのわずかな、ひとかれらの勇気だと思います。ささやかな勇気、それが必要なのです。
さあ殉教するぞ、という覚悟が信仰者として理想だ、と息巻くようなタイプの教団もあります。カルト宗教にもそういうのがあります。しかし、派手なパフォーマンスが必要なのではないと思いませんか。聖霊降臨のものすごい現象がなくてもよいと思いませんか。異言を語らなくてもいいとは、思いませんか。
わずかな勇気を、聖霊はあなたに与えるだろうと思います。でも、いや、困った、できない、勇気がない、そのように思う人もいることでしょう。けれども私は思います。そのように思ったその時点で、すでに実は聖霊が来てくださっているのだ、と。聖霊がもう静かに囁いているからこそ、そのように感じ、思うのだろう、と信じて止みません。すでに気になっている、そわそわしている、それが証拠なのだと思います。
今日、聖霊が、ささやかな勇気をあなたにもたらしてくださることを、私は信じています。