ゲストのために

2025年6月3日

教会員になると、いわゆる「奉仕」という役割が与えられる。「ボランティア」という言葉だと、「自発的」が本質と見られるが、「奉仕」だと、与えられる「任務」の要素が含まれるだろうか。それでも、自分にできることだから、ひとつやってみよう、という方向性がそこにはあるように思われる。
 
担当が固定的なこともあるが、交替で回転する場合もある。礼拝の受付などがそうである。来た人を笑顔で迎え、週報を手渡す。週報というのは、その日の礼拝のプログラムや、諸連絡が記されている小さなパンフレットである。教会は実質、日曜日に活動するところであるから、「週」の字がついている。
 
何かその日の礼拝で特別に必要なものがあれば、それも手渡し、説明する。たとえば、いつもの賛美歌にない曲を歌うときには、別紙を渡すし、資料が必要なこともあるかもしれない。
 
が、一番大切なものがある。初めて来た人や、自分で聖書を持っていないような人に対しては、聖書と賛美歌をお貸しすることになる。これがなければ、礼拝に参加できない。
 
私がそこに座ったとき、比較的暇だったせいでもあるのだが、賛美歌に栞を挟んではどうか、と考えてやってみた。その日歌う賛美歌の頁に、予め栞を入れておくのだ。もちろん、毎週来ている信徒や、慣れた人にそれをする必要はないが、初めての人には、てきぱきとできないものである。司会者が、次は何番を、とアナウンスしてすぐに伴奏が始まるのが通例であるから、間に合わずばたばたしているケースを、現に時折目撃している。
 
賛美歌なら、番号順に並んでいるので、そう難しくないかもしれない。だが、「交読文」というのは、司会者は説明なしに流してしまうが、初めてだと、どこを開けばよいか分からない。特にそこに栞は必要と思われる。
 
また、その日に開かれる聖書箇所にも挟んでおく。新約聖書の何頁、とアナウンスしても、聖書の終わりの方だとは、初めてだと分からないで、旧約聖書の頁を開きたくなるのが当然ではないだろうか。
 
せっかく準備しても、その聖書や賛美歌をお渡しする該当者がいない場合もある。事後、また栞を抜いておく。それでも、備えたことに、ささやかな自己満足をもてばよいことにする。
 
ただ、私が偶々それを実行しても、迷惑がかかることがある。栞入りの聖書を受け取った人が次回また来てくれたとき、今度は受付担当者が違って、そういうものがなされていなかったら、どう思うだろうか。逆にがっかりするかもしれない。
 
こうしたことは、スタンドプレイであってはならないし、ただの自己満足であってはならないものなのだ。次の受付担当者に、私の独断でプレッシャーを与えるとなると、妙にギスギスしてしまうかもしれない。小さな栞が、関係を崩すようなことにもなりかねない。
 
いずれにしても、そこにあるのは、教会が新しい人をどのように迎えるか、という姿勢の問題である。内輪だけの組織であれば、名札などは要らないだろうが、外から来た人にとっては、それが名札があることは非常に心強い。教会員の名札問題は、あちこちで時々持ち上がるらしい。
 
その他、ゲストのためには、いろいろな注目点があるだろう。気づいた人が、提案できる環境があるといい。つまり、提案が容易に検討され、できればフットワークが軽い雰囲気である。もちろん、思いつきでちょろちょろやったとしても、続かないようなことは、どうかとは思うのだが。



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