諦めない神

2025年6月2日

幼い子どもたちに聖書の話をすることがあるが、子どもたちは、たとえ話が好きだ。説教者はそのようなところから語り始めた。時も場も遠く離れたこの地の子どもたちが、思わず聞き入るような話をした、ということは、イエスはたとえ話の妙手である。
 
コメントも付いているとはいえ、それがなかったとしても、福音書の比喩の中でも、意味の分かりやすいたとえであると言えよう。先週に続いて、マルコ伝の連続講解説教であることはもちろんのこと、先週と同じ箇所が開かれることとなった。聞く側とすれば、ますます聞きやすくなることだろう。
 
でも、本当にそうだろうか。加藤常昭先生がかつて僕として説教を毎週語っていたときも、2週連続で同じ箇所から語るということが、時折あった。説教集にそれが残っており、2週目のときには、聖書箇所が印刷されていないのである。「とても一週では語りきれない」ということのようだ。だが、もしも私が語るのであれば、何週間あっても語り「きる」の無理だ。聖書の泉は、私にとっては太平洋の海よりも広いように見える。
 
もちろん、説教者は2週れば「語りきれる」と考えているわけではない。恐らく、その箇所から、2つの視点で語るチャンスが与えられてほしい、ということなのではないか。それは一度の説教の中で語ることが不可能であるわけではないが、別々のほうが述べやすく、また聞きやすいことは間違いない。小説の中で、その記述において一人称の視点と三人称の視点が頻繁に入れ替ったら、非常に読みにくいという事情に似たところがあるかもしれない。
 
種蒔きの話だ。今日は、その種そのものに焦点が当てられる。否、「種を蒔く人」こそがスポットライトを当てられる人だ。種を蒔く人は、種をばらまく。耕すのはむしろその後のことだという。ここで、蒔かれた種にはいくつかの型ができている。
 
@ ある種は道端に落ちた。
A ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ちた。
B ほかの種は茨の中に落ちた。
 
これらは、まずい結果となった種である。@は鳥が来て食べた。Aは、芽を出したものの、根づかずに枯れた。Bは、茨に塞がれて実を結べなかった。
 
C ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結んだ。
 
これが成功例である。30倍、60倍と実を結び、中には100倍にも実ったものがあった。
 
説教者は、まず衝撃を与える。「これは愚かな話なのです。」これには聞く者ははっと目覚めさせられる。「目を覚ましていなさい」というのは、こうしたことを言う場合があるかもしれない。
 
いくら「よく聞きなさい」と注意を喚起しても、授業中、聞かない者は聞かない。聞いているようでも、別のことが頭にある子もいる。聞いたつもりになっても、何も頭に残らない子もいる。こうして現代では教室の風景としてたとえることができようかと思うが、要するにイエスが民衆に語ったたとえというものは、こうした部類であったのだろうと推測できる。
 
「愚かな話なのです」との爆弾発言に、会堂は色めき立つ。説教者はそれをどう説明するのか。ここからどう話が展開するのか。身を乗り出すようにして「聴く」ようになる。
 
何故「愚か」なのか。この「種を蒔く人」は、どうしてそんな見込みのないところに種を蒔いたのか。まともな農業者ならば、そんな蒔き方を、するはずがないではないか。しかし、そんな非常識な奴がいるものか、と背を向けては、この福音が語られるチャンスを、みすみす失ってしまうことになる。だから「聞く耳を持つ者は聞け」というのであり、「自己満足で話を聞こうと決めている者は態度を改めよ」と厳しく迫ってくるのである。
 
大人は、予想しないことが起こると、なんとか説明をつけたがるものだ。説明は、実はなんでもいい。何も理由がなくその現象が起きた、ということは不安でたまらない。眉唾ものでも、奇想天外なことでもいい。何かしら明確な理由を示されれば、それはそれで落ち着く。それだから、「先祖のたたり」だとか「生まれ変わり」だとかの説明に惹かれてしまう一面があるのであり、「法外な値段の壺」などを買わされることになるのであり、しかも「それは自分の意志で買ったのだ」というところまで洗脳されることにもなる。
 
自分を安心させるためだったら、聖書は要らない。というよりは、聖書への向かい方が、根本的に誤っている。その人は、神を自分に従わせたいだけなのだ。自分が納得したい結論を聖書に求め、自分の解釈のままに聖書を改造しようとすることを、あの黙示録の最後の戒めは禁じているような気がしてならない。
 
説教者の話はいろいろな角度から迫り、多くの話を提供してくれる。それをご紹介するのがここでの目的ではない。あくまでも、私の受け止め方であり、私が感じた光を証しするに過ぎない。ただ、押さえておくべき点には触れなければならない。
 
それは、「想像力」ということについてだ。そこに、「現実を造りかえて、新しい世界をもたらそうとする創造の力」を認めるのが、理性の立場、哲学の眼差しだとしよう。では神を基準にすると、「想像力」についてどういう見方ができるのか。「他者を自分の内へ招き入れる力」という考え方があるのだ、と説教者は教えた。それは、他者を自分の枠に無理矢理歪めて嵌めこむことではない。他者は自分と異なる、という大前提を以て、しかし拒絶しないで受け容れるのだ。
 
その「他者」が隣人であるのならば、これでいい。その他者を愛することへ、その姿勢はつながるであろう。しかしそれが神であるのならば、人は絶対的にその支配下にある。私の側がその他者なる神を支配する方向性は、決して生まれない。その神から、たとえ話が向けられる。否、突きつけられる。おまえはこの話の中の、何なのか。おまえは神の言葉の世界の中の、どこにいるのか。その問いかけに応えることによってのみ、新しいことが始まることができるのである。
 
こうして、この種を蒔く人のたとえが、この説教の後半でとことん検討される。このたとえ話の中のどこに、おまえはいるのか。
 
問題は、次の一点である。「種を蒔く人」とは、誰のことなのか。
 
『種を蒔く人』は、神の言葉を蒔くのである。(マルコ4:14)
 
イエスは、この「種」が、「神の言葉」であることは認めている。これを崩すことはできない。また、それはこのたとえを信仰の心で読む者には、当然分かることである。しかし、「種を蒔く人」とは誰なのか。説教者は、巧みにこれからの話を展開し、語り続けた。だが、失礼だがいまはそれに拘らない。私の拙い信仰の中で、与えられた光だけを綴ろうと思う。
 
一説には、私たちのことだ、という理解がある。キリスト者として、神を信仰する者として、神の言葉を蒔くことは、ひとつの義務である。もちろん、それは自主的なものであって、内から突き動かされるべきものである。キリスト者は、喜んで神の言葉を蒔くことになるだろう。
 
確かに私たちは、ここぞという相手にだけ聖書の言葉を伝えればよいのではない。誰でも、どこにでも、撒き散らすように知らせる必要がある。もちろん、時と場合がある。黙して黙しているべきこともある。政治的に圧迫されているときに、正直になんでもあけすけに語ればよいわけではない。そしてここぞというとき、ここぞという相手にだけ、神の言葉を語る、という知恵が必要なこともあるわけだ。
 
しかしまた、それを理由に、すべてにおいて沈黙を守ればよい、というのでもない。救いの言葉、神の言葉を、語る。語った。だが、語ったからと言って、それで聞いた人が信じるというわけでもない。語った言葉が、何も聞かれないことがある。配ったトラクトが無造作に捨てられるのを見るような思いも、味わわなければならない。
 
「なるほど、いいお話ですね」と聞いてくれた人がいたとする。また教会に来ます、と笑顔で受け容れた人がいたとする。だが、そこには罪の自覚がなく、悔い改めも起こっていない、ということもあるだろう。すると、少々の困難に出会ったときに、救いの命を保つことができなくなる。根がない切り花が挿してある花瓶のようなもので、間もなく枯れてしまうことになる。
 
そしてまた、自らの罪を悔い改め、強い信仰を与えられた、恵まれた魂にも出会うかもしれない。だが、悪魔はそうした魂を直に狙ってくる。試練が襲う。パウロのように、その試練をも力にしてゆくような人ならばよいのだけれど、試練の中で、信仰が弱くなり、ついには失ってしまうという場合も、悲しいけれどあり得るものである。さらに、自分の中に湧き起こる欲望に対して負けてしまい、信仰から離れてゆく、ということもあるだろう。結局、実を結ぶことがないのである。
 
しかし、本当にこの図式でよいのだろうか。私が種を蒔く人である、というのは、気づかないうちに自分がずいぶんと偉くなってしまっているとは言えないだろうか。私はそんなに、立派な伝道師気取りでよいのだろうか。この「種を蒔く人」自身はどうなっているのか。他人が、聖書の言葉を聞いてくれないとか、信じたのに残念だなあとか、そんなふうに眺めている立場にいるのだとしたら、私はいったい何者なのだろうか。
 
説き明かしの場面が、この種を蒔く人のたとえには付いている。そこには、こうした書き方がなされていた。
 
@ 道端のものとは、こういう人たちである。
A 石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。
B 茨の中に蒔かれるものとは、こういう人たちである。
 
これは翻訳による解釈が入っているとも言えるが、「こういう人たち」と、完全に人間扱いしている。「蒔かれるもの」は「種」に外ならなかったが、この訳では、「種」が「人たち」であると断じている。不思議なことだ。「種」は「神の言葉」でもあった。だから、構造上、やや不安定な捉え方とならざるを得ない。二重構造があると言われても仕方がないだろう。
 
だが少なくとも私たちは、「種を蒔く人」ではない。「蒔かれた種」であるかどうかは定かとしないでおくとしても、無造作にばらまかれた無数の種の、一つひとつが、億単位の人間であり、私なんぞは、そのうちのたった一粒であるに過ぎないとすると、いくらかよいことはあるだろう。私たちが、蒔かれている。そして私たち一人ひとりの中に、神の言葉を聞こうともしない者がおり、ちょっとしたことで信仰を捨てる根無し草のような者があり、頑張るが結局欲望に負けて信仰を離れる者があるという、幾らか謙遜な生き方が可能になるのだ。
 
このとき「種を蒔く人」は、イエス・キリストであるよりほかはない。少なくとも、そう考えることによって、人間は自分を神よりも偉いというような立場にある、と自認する危険からは逃れやすくなるだろう。
 
説教者は、私たちは種であり、種を蒔く人はイエス・キリストである、という捉え方を、ここで提案した。そして、私たち人間が、あまりにも神を信じないこと、あるいは信じているという恰好をつけておきながら、その実、魂が茨に塞がれて身を結ばないでいるものが、果てしなく多いことを想像させるのだった。
 
だが、イエスはずっと種を蒔く。私たちを通じて、神の言葉をばらまく。私たちは、神の言葉そのものになりたい。神の言葉となって、私たちが世で遣わされてゆくという図式を思い描きたい。そうすれば、「種」は聖書の言葉であると同時に、私たち人間である、という少々難しい適用も、可能になることだろう。
 
イエスは、あのときからずっと、種を蒔く。昨日も今日も、そして明日も恐らく種を蒔く。神はなんと諦めの悪い方なのだろう。なんと絶望しない方なのだろう。言葉が道に落ちようと、言葉を宣べ伝えよう。昔ならば、捨てられるトラクトがあっても配ろう、というところだろうが、いまは資源問題を考えても、それよりも電子媒体でいくらでも発信することができる。私たちが種となって、イエスによって蒔かれて散らばってゆけばいい。
 
この種自身が諦めてどうするのだ。なにしろ種を蒔く人は、ちっとも諦めてなどいないではないか。諦めない神は、十字架の姿で、神の言葉を蒔き続けている。復活のイエスの姿で、神の言葉を蒔き続けている。そして私たちは、相応しい種でありたいと願い、事実そうであると受け止めたい。言葉が空しく消えることはないのだ、ということを、信じているのである。御言葉を聞いて、受け入れたからである。



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