【メッセージ】復活のイエスのゆくえ
2025年6月1日

(マタイ28:16-20, ヨシュア1:8-9
だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(マタイ28:19-20)
◆イエスとの別れなのか
先日29日が、いわゆる「昇天日」でした。復活祭が日曜日であるため、それは必ず木曜日になります。復活のイエスが、一旦天に帰ったということを記念する日です。その様子を描いたのは、基本的にルカだけですが、マタイのこの箇所も、それに匹敵するものと見なされています。しかし、記事はそれくらいしか見当たらず、昇天日に相応しい聖書箇所となると、非常に限られてきます。そのため、私からのメッセージとしても、この箇所を取り上げるのは、これで三度目になります。但し、かつて「昇天日」として取り上げたのは一度だけでした。
今回も「昇天日」の日付に合わせた形になっていますが、少し違う角度から見つめてみたいと思っています。同じ聖書の言葉でも、その時々や、見る位置によって、様々な受け止め方ができるだろうと思うのです。ちょうど、夏目漱石の小説が、それを読む年代によって、同じ人が読んでも全く違うように理解できる、と言われるように、聖書の言葉も、ひとつの公式ですべて読み取れておしまい、というわけではないはずです。
いま申したように、イエスが天に昇るという場面を記しているのは、ルカだけです。使徒言行録もまたルカ伝の著者によるものだという研究が定説となっていますので、そのルカだけ、ということになります。そして復活のイエスが、弟子たちに大切な教えを最後に伝える、という意味では、マタイ伝ではこの箇所が相応しいと見られます。昇天のシーンはありませんが、それに相応しい場面があるとすれは、やはりここでしょう。
16:さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスの指示された山に登った。
ちゃんと11人だとカウントされています。そもそも使徒としては12人が選ばれていましたが、いまやイスカリオテのユダが欠けています。そして弟子たちは、ガリラヤへ来ています。復活のイエス本人が、女たちに、「行って、きょうだいたちにガリラヤへ行くように告げなさい。そこで私に会えるだろう」(28:10)と告げたからでした。
復活のイエスに初めに出会ったのは、二人のマリアだったことが、マタイ伝の描くところです。
◆ガリラヤへ戻って
弟子たちが登ったのは、「指示された山」でした。これはどこのことなのでしょう。マタイは明らかにしていません。ルカによると、ベタニアで天に昇っています(ルカ24:50)が、弟子たちとの交流は、ひとつの点だけ描かれています。それでも、同じルカの手によるものと見られる使徒言行録には、「四十日にわたって」(使徒1:3)復活の姿で現れた、と書かれています。この辺り、綿密に復活の出来事を辿ることはなかなか難しいようです。
それは、読者――即ちこのメッセージの受け手――がそれぞれに、復活のイエスと出会うことを重視するからではないか、と私は受け止めています。が、いまはマタイ伝をもう少し見守りましょう。但し、比較可能なルカ伝を脇に置いておくと、マタイの特徴が際立つかもしれません。
ルカ伝のイエスは、ひたすらエルサレムを見つめて前進します。ヨハネ伝だと行きつ戻りつの観がありますが、ルカ伝では一方通行です。イエスの眼差しは、ずっとエルサレムを見つめています。そのエルサレムに於いて、イエスは十字架に架けられて死に、三日目に復活させられました。これを経て後、救いの福音が、聖霊を通じて、エルサレムから世界へと拡がってゆきます。異邦人の救いが、使徒言行録で明らかにされてゆくのです。そうした、壮大なプランがありました。
ところがマタイ伝は、弟子たちが一旦ガリラヤへ戻る過程を挿入しました。マタイは、マルコ伝の「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる」(マルコ16:7)を踏まえて描いているのかもしれません。マルコ伝は、ガリラヤでイエスと出会い従って行った弟子たちの歩みに、読者を誘う意図があった、とも考えられていますが、マタイ伝はその意味を理解しているのかいないのか、マルコ伝の形式だけを受け容れて、ガリラヤへ戻らせたような気もします。
このガリラヤで、マタイ伝は、イエスの口から、いわゆる「大宣教命令」の言葉を発するように描きました。
18:イエスは、近寄って来て言われた。「私は天と地の一切の権能を授かっている。
19:だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
20:あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
なんとも大きな宣言です。キリスト者は、この指令を受けて、世界へと福音を伝えに行く勇気を与えられました。そしてしばしば、献身への召命として、この言葉を受けた人の証しが聞かれます。
◆ガリラヤでの出会い
弟子たちは、イエスが指示した山に登り、復活のイエスと会いました。マタイ伝はそう描きます。ところでその「指示」というものは、どのように伝わったのでしょうか。
弟子たちより先に、復活のイエスと出会った人物がいます。二人の「マリア」という名の女性たちです。
さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。(マタイ28:1)
二人は、まず主の天使を見ます。そして復活を告げられ、「あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」(28:7)と教えられます。その場を鶴と、今度は行く手にイエスが立っているのを見ます。イエスは女たちに、「行って、きょうだいたちにガリラヤへ行くように告げなさい。そこで私に会えるだろう」(28:10)と言われました。
このことが、弟子たちに伝えられることになります。これを聞いて、ガリラヤへ向かった、というのがマタイ伝の筋書きのようです。
すると、福音書を横断する読み手の中には、不思議な顔つきをする人が現れます。それでは、ヨハネ伝で、エルサレムでひっそりと引っ込んでいた弟子たちの中にイエスが現れたことや、ガリラヤ湖に現れたイエスと朝食をとることは、このマタイ伝のストーリーの、どこに絡んでくるのだろうか、と考えるのです。
後者のエピソードは、マタイ伝とリンクすることは不可能ではないような気がします。弟子たちはガリラヤへとりあえず戻ったが、がっかりしてまた漁師を始めた。夜通し働いても魚が獲れない中で、岸辺にいた人をイエスと知った……。
だとしても、その後またイエスと離れ、いまこうして、「指示された山」に登った、ということになります。この「大宣教命令」は、再会を果たした後、少し間を置いて、ということになりましょうか。ただ、この場面で弟子たちが最初にイエスに会ったときのことが、このように書かれています。
17:そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
疑ったのがヨハネ伝のトマスだとすると、復活後1週間の辺りの出来事になるかもしれず、時系列が乱れてしまいます。
いずれにせよ、これは時間を追って読み合わせるべきものではないことが分かります。先ほど触れましたように、これらの物語は、読者がそれぞれに受け止めるべきエピソードなのであって、ここから史実を再構成するという目的にはそぐわないと言うべきなのです。
◆共にいる
マタイ伝の、よく「大宣教命令」と呼ばれるこの出来事は、恐らく昇天のときの話ではないものと思われます。そもそも昇天の場面を描いたのはルカだけであり、マタイはその場面そのものを書いてはいません。私たちが勝手に、マタイはこの山の場面で昇天を書いたつもりなのだろう、と想像したのなら別ですが、ここはガリラヤです。昇天は、オリーブ山やベタニアという地名に関わるように記されていますから、エルサレム近郊です。今日開いているのは、いわゆる昇天そのときと説明されているわけではないのです。それよりも以前の話です。しかし、イエスが弟子たちに、非常に大切なことを告げたことは確かです。
18:イエスは、近寄って来て言われた。「私は天と地の一切の権能を授かっている。
19:だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
20:あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
決して最後の遺言のようなものではないはずなのですが、それに見合うくらいに迫力がある宣言です。先程から「大宣教命令」という渾名だけを私は先走らせていますが、ここの内容は、すべての民に福音を伝え、洗礼を授け、神の教えを守るように教えよ、と命じていことから、伝道の命令となっています。「伝道」と「宣教」は、基本的に同じ意味です。全世界に伝道せよ、と言っているので、「大宣教命令」と呼ばれているのです。福音書それぞれに、「大宣教命令」に匹敵するような伝道の指示は幾つもあると思います。しかし、なんといってもマタイ伝のここは、記事としてもカッコいい、スケールがでかい。やはりここが一番有名です。
先ほど、イエスの「遺言」のようなものだ、という言葉を使いました。もちろんイエスはこれから死ぬのではありませんが、「遺言」とは「遺す言葉」のことですから、この後復活の姿を天へ隠すようにして見えなくしてしまうため、イエスという形で言い遺すことがここにある、ということになります。
それから、「聖書」のことは英語で「バイブル」と言いますが、それはエジプトの「パピルス」という言葉に由来し、「書物」という意味です。新約聖書の中では、「書かれたもの」という表現をとっています。しかし英語では別に、「テスタメント」という言葉も性を表します。この言葉の元々の意味は「遺言」です。そこには、「契約」という意味が強く入ってきます。聖書は、神と人との間に交わされた契約を記しています。
イエス・キリストが来る前から契約はいくらかありましたが、イエス・キリストが現れてからは全く新しい形の契約が交わされました。こちらを新しい契約ということで「新約」と呼びます。対して、それまでの旧約の神の言葉は、旧い契約ということで「旧約」と呼ぶことになります。しかし近年、「旧い」という言葉のネガティブさを考慮して、「ヘブライ語聖書」というように呼ぶことが多くなってきました。すべてがヘブライ語で書かれてあるわけではないのですが、それはそれでひとつの配慮であり、反省点を示すものなのかもしれません。
この「大宣教命令」は、確かに「宣教」、即ち「伝道」を弟子たちがするようになることを宣言していますが、マタイ伝の最後を締め括る一文は、それとは違うことを付け加えていました。
20:私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。
いい響きですね。「I am with you」のような英語でも表現できるでしょうか。そういうワーシップソングが幾つもあったような気がします。原文の語順からすると、普通省略される「私」が強く表に出され、「私はあなたと共にある。いつの日々も。世代の完了まで」というような言い方になっています。
力強い、慰めの言葉です。イエスが言うのです。この私に向かって、言うのです。「いつもあなたと共にいる」と言うのです。あなたにも呼びかけています。それは、「あなたは、独りではない」と告げている、ということでもあるのです。
◆孤独について
「あなたはひとりじゃない。」孤独から最悪の事態へと進まないように、時折このような言葉が投げかけられます。「孤独」は、様々な角度から問題になり得ることです。社会的にも、大きな問題となりました。人混みの中にいるとますます孤独を覚える、という心理も分かっています。孤独なために、心を病むということもあるようですし、また、他人と関係を築けない傾向にある、ということも、いろいろ問題となってゆきます。
NHKに「みんなでひきこもりラジオ」という番組があります。いまは一か月に一度くらいの頻度で放送されています。栗原望アナウンサーが、実にいい味を出しています。いわゆる「ひきこもり」当事者をリスナーに想定しています。言葉を選びながら、まったりとした語りと音楽、もちろんお便り(?)による交流も、番組を盛り立てます。
「ひきこもり」という言葉は、ずっと否定的にのみ捉えられていました。先日、2009年の上智大学神学部夏期神学講習会講演集なる題の本を見ていましたところ、最後のシンポジウムの席で、「引きこもり」について、もう死んだも同然だというような冷たく突き放す言い方で説明し、誰も異議を唱えていない様子が見られました。時代的なこととはいえ、キリスト教神学者たちの会合で、これは悲しいことだと感じました。
NHKもいろいろ考えたのでしょう。この「ひきこもり」に、まるでパラドックスに陥らせるように、「みんなで」という形容を加えました。それだけで、もう、「あなたは独りではない」というメッセージを伝えていることになると思います。孤独の極致のように捉える世間とは違って、当事者たちがつながる場を設けたというわけです。
もちろん、安易にそうやってつながることを好まない当事者もいることでしょう。でも、そこに居場所を見出すリスナーがたくさんいるのは確かです。電波を通じて、時間を共有する。ラジオの魅力はそこにありますが、番組は当初、アンテナショップ的に不定期に放送されていましたが、いまや定期的な位置を得ています。
この番組の中で、「みんなで乾杯しましょう」と誘いかけることがあります。辛くて飲む気にもなれない人は、「一緒に乾杯のフリだけでもやってみませんか」と呼びかけ、「かんぱーい」と声を挙げるのです。見えない仲間がたくさんいて、皆同時に同じ声を挙げる。そこには、「孤独」という言葉は馴染みません。
冷たく見れば、それは「気休め」に過ぎないかもしれません。でも、私はそうは言いたくない。礼拝で、一緒に「主の祈り」を祈るではありませんか。「使徒信条」を唱えるではありませんか。あれはただの気休めなのでしょうか。ただの儀式なのでしょうか。教会こそ、一人ひとり孤立したキリスト者たちが、同じ時を過ごすことで、神の許につながる場ではないのでしょうか。
しかし、社会に於いては、軽視できないことがあります。「孤独」を理由にして、ここのところとみに、身勝手な犯罪と見られる事件を見聞きすることがあります。風潮としても、他人と暮らす「結婚」が疎んじられるようになり、あるいはそれは息苦しいものだ、という空気が広まるようであると、なんだか多くの人が「孤独」を求めているかのようにさえ見えることがあります。
学校の教室では、力のある人やグループに同意しないと、弾かれて孤立し、いじめの対象となることがあるかもしれません。だからまた、その仲間であるために、誰かをいじめることに加担してゆく、ということもあり得るわけです。
◆ヨシュアを力づける
旧約聖書から、ヨシュア記1章をお開きします。短い2節分ですので、ここでお読み致します。
8:この律法の書を口から離さず、昼も夜もこれを唱え、書かれているすべてのことを守り行いなさい。そうすれば、あなたは行く先々で栄え、成功を収める。
9:強く、雄々しくあれと、私はあなたに命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行っても、あなたの神、主があなたと共にいるからだ。
エジプトからイスラエル民族を脱出させるのが、モーセの職務でした。しかし、モーセは、目的のイスラエルの地、当時は「カナンの地」と呼ばれていましたが、そこに入る直前で亡くなります。モーセの後を継いで、いよいよ神に約束された地へ入るために与えられたリーダーが、ヨシュアでした。この名は、後のギリシア語では「イエス」というような発音になります。もちろん、ヨシュアがイエス・キリストと関係が深い、というような読み方が単純にできるわけではありませんが、何かしらイメージをもつことは許されるかもしれません。
しかし、ヨシュアの時代を描くこの「ヨシュア記」は、なんとも読後感のよくない文書であることは否めません。どうにも血生臭いのです。また、現代のパレスチナ問題の原因にもなっていることを含めて見るに、ここに描かれたのは一種の侵略に外なりません。私たちはいま、イスラエルがガザへ攻撃を続けている時代の中にいます。その意味でも、このヨシュア記は、読むだけでも心苦しくなるような一面を有っています。
そこで、ちょっとだけ限定条件を付けましょう。もし、そのような現実の殺戮などを度外視して、霊的な意味に限定して読むならば、まだ幾らかは私たちの信仰に役立つものはあるかと思います。私たちが、世で何らかの戦いをしなければならないとするならば、その戦いのための狼煙とすることは可能ではないか、と考えるのです。
この最初のところでは、しきりに「強く、雄々しくあれ」「恐れてはならない」のような響きの言葉が繰り返されます。「雄々しい」という言葉はジェンダー的にどうだろうか、という気もしますが、いまここではとやかく言いますまい。ただ、この繰り返しは、逆に言えば、ヨシュアが怯えていたためだ、と解することもできるでしょう。決して、勇猛果敢なリーダーであったわけではないのだ、と。
そうすると、怯む私たちも、少し慰められます。私たちもまた、神の言葉を聞いて、勇気を与えられるはずだ、と立ち上がりたいのです。ここでも、神は告げているではありませんか。「あなたがどこに行っても、あなたの神、主があなたと共にいるからだ」と。
◆大宣教命令
20:私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。
マタイ伝の最後は、この言葉で締め括られていました。イエスの動きをもう一度追います。
18:イエスは、近寄って来て言われた。「私は天と地の一切の権能を授かっている。
19:だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、
20:あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
イエスは、11人に近寄って来たのでした。復活のイエスは、「一切の権能」を授けられています。「だから」という接続詞による論理に支えられて、「すべての民を弟子としなさい」と命じます。
弟子とするということは、具体的なしるしを必要とします。「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」、使徒たちに命じたことを守るよう教えよ、というのです。このような一種の権力をもつようになるのは、「あなたがた」です。「あなたがた」とは直接的にはイエスの直弟子たちですが、マタイ伝の執筆された時代には、そのすべてまたは殆どが、もうこの世にはいません。いまの私たちへもつながる「あなたがた」でありましょうが、さしあたり「教会」のことだと受け止めて然るべきだろうと思われます。
使徒言行録や、その後の書簡に「教会」という語が見られるのは理解できます。しかし、福音書に「教会」という語があったらどうでしょう。それは何を指すのでしょうか。もしかすると「うっかり」なのかもしれません。福音書の中に2箇所、「教会」という語が見られます。ならば、これはいまの私たちの感覚とは違うような「共同体」を指していると見るべきでしょうか。「弟子仲間」という程度で捉えるのがよいのかもしれません。
私も言っておく。あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てよう。陰府の門もこれに打ち勝つことはない。(マタイ16:18)
それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。(マタイ18:17)
ペトロの場合はまだ未来だから、という言い訳も出せましょうが、後半のイエスの命令、「きょうだいがあなたに対して罪を犯したなら」(18:15)の文脈の中では、いったいその「教会」とは何か、と尋ねたくなります。
よいのです。このイエスの言葉は、確かに「教会」に向けられているのです。マタイ伝は、そういう書物です。「福音書」という文学形式は、そのような意味で、読者に呼びかける形をとるのです。私たちの時代のジャンルのルールに無理矢理合わせる必要はないと思われます。
イエスは確かに、11人に向けて語りました。しかしこの11人を通して、やがてこのような福音書なり手紙なりが形になって、私たちへも、それがぶつけられます。私たちもまた、「すべての民」の一部に外なりません。そのため、復活のイエスは、私たちとも共に折られます。「世の終わりまで、いつも」私たちと共にいるのです。