加害の自覚がないことについて

2025年5月28日

電車に乗っている時間が長い通勤をしている。その中で私は毎日、始終暴力を受け続けている。「音の暴力」である。絶え間なくずっと喋り続ける人が、ほぼ必ずいる。一両全体に聞こえるくらいの声の大きさである。最悪なのは、隣の席に後から入ってきた二人あるいは何人かが、ひっきりなしに喋り続けることである。耳の横で話される。こちらは、本を読むことができなくなるし、ともかく何かを考えることさえできなくなる。強制的である。
 
車両が空いていれば遠くに移るが、動けないことが普通である。立つのを覚悟で移ろうにも、混んでいればそれもできない。見たくないものには目を背ければよいが、音は拒めない。街ですれ違う人が少々大きな声で喋っていても、不快に感じるのはほんの一瞬である。だが電車は、20分なり30分なり、否応なく傍で音を強制的に浴びせられ続けなければならない。これを「暴力」と呼ぶことは、法律的にはどうだか知らないが、言葉の使用上は正当であろうと考える。
 
しかも、その暴力の加害者は、自分が暴力を揮っているという自覚は、まずない。目の前で私が耳に指を突っ込んで耐えているのが目に入っても、態度を改めるということは、百に一つあるかないかだ。自分がいじめの加害者であるとか、誹謗中傷をしているとかいう意識がまるでないのが当たり前であるのと同様である。
 
しかし、音を出すということで人に迷惑をかけている、という意識に苛まれている人が、身近なところにいるかもしれない。このときには、逆に、そう苛ませている側の方が、そのことに気づいていない様子である。
 
教会の礼拝は、神聖な儀式の場である。「公私の儀式に対して悪戯などでこれを妨害した者」に対しては、「これを拘留又は科料に処する」と、軽犯罪法第1条が規定している。礼拝を妨害することについては、「軽」とはいえ犯罪と決められている。礼拝を妨害してはならない。
 
もちろん、法律規定とは関係がないが、礼拝中にぺちゃくちゃ話をしたり、辺りを走り回ったりしたりすることは、厳に慎まなければならないであろう。それは、子どもであっても同様である。まだ長男が小さかったころ、会堂で声を出すようなことがあったら、厳しく窘められたものである。
 
そのため、若い母親は、子どもを抱えて会堂から去らねばならない。しかし教会もそれを排除するようなことはしないのが普通である。防音を備えた形で、別室を設けて、礼拝の様子を見ることができるようにしているところがある。中にはガラス張りで壇上も見え、音声はスピーカを通して入るというように整備している教会もある。こうなると、あまり違和感なく礼拝に参加することができているのかもしれない。
 
そういう部屋は、以前は「母子室」と呼ばれていた。考えてみればこの名称に違和感を覚えなかったという時点で、子育てを母親に全部背負わせている常識の中に留まっていた、教会の保守的な構造が露わになっているのかもしれない。いまなお、食事の支度は女性の仕事だとか、信徒は女性が多いのに役員は男性ばかりだとか、同じ精神的領域の教会は少なくないのではないか。これもまた、「マイクロアグレッション」の一つであるのだろう。
 
ところで、小さな民家を改造したような教会堂では、そういう別室を造ることは難しい。予算がない現状では、多くの教会がそうであるかもしれない。子どもが泣けば、周囲の信徒たちに睨まれることがあるし、表情は変えていないように見えても、煙たがられていることはよく分かる。後から、「元気なお子さんですね」などと言われると、京都でなかったとしても、これはうるさかったという意味なのだと、刃が向けられていることは分かるだろう。
 
たとえそうでなくても、心ある母親は――そしてクリスチャンたるものはしばしばそうなのであろうが――、自分が迷惑をかけているという意識を去らせることは難しい。教会に行っても、説教に身を入れるということができず、人の目を気にし、結局迷惑をかけるだけだ、という思いに苛まれると、自分は何のために教会に行っているのだろう、と考えるに至ることは想像に難くない。教会の中に、居場所がないように思わされることしきりである。
 
こうして、教会に行きづらいということにもなり得るだろう。家でも育児に身も心も疲れている上に、教会で気疲れしている場合ではなくなるからである。信仰とは何か、自問しながらも、居場所の無さの実感からは、出てくる答えがなくなるのである。
 
礼拝説教では、しきりに「愛し合いましょう」「赦しましょう」と語られるし、皆肯きながらそれを聞いているものの、若い母親を追い込んでいることに気づくことさえないかもしれない。ここで、電車の「音の暴力」とは、情況が逆転していることになる。
 
ところが、教会というところは、特にプロテスタントでは実に多彩なものであって、私の出会った教会の中に、このようなところがあった。礼拝のために初めて訪れた教会だった。
 
間もなく礼拝が始まろうとしていたが、横広の会堂の後方に、折りたたみ式の長い座卓が並んでいる。そこに座った大人たちがいて、その子どもと思しき子どもたちも、その辺りにいて、絵を描いたり折り紙をしたりしている。走り回っている幼児もいた。ははあ、教会学校がそこで行われていたのだな、と思った。
 
だが、礼拝開始時刻が迫ってきた。その場の雰囲気は変わる様子がない。どうなるのかな、と案じていたが、実にそのまま礼拝が始まってしまった。子どもたちはそのままの場所でよいのか。ならば、静かにさせられるのだな。そんな思いでいたが、事態は何も変わる様子がない。
 
「え……」
 
子どもたちは、大騒ぎこそしないが、まぁ言ってみれば普通に遊んでいる。大人たちも何か注意するような気配すらない。私は個人的に、子どもについては、うるさいというような感情は普通起こらない。子育てをしてきて、迷惑をかける側の意識があるし、第一子どもとはそういうものだという前提がある。理性的に、というわけでもないが、本当にそれを特に悪く感じることがないようになっている。
 
さて、その教会では、どうやらこれが常態のようだ、と次第に分かってきた。会堂の一番後ろであるから、前の方で賛美歌を歌ったり、説教を聞いたりしている大人たちの視界に子どもたちが入るということはない。音声だけは遮ることができないが、幸い人間の耳は、前方からの音を集める如く耳介が設計されている。むしろ会衆は、前方からの説教を聞くために、精神的に身を乗り出して、集中しているようにも見えた。
 
子どももこうして共に礼拝しているんです。確か、後で誰かにそのように説明されたような気がする。
 
その時、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子どもたちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスは言われた。「子どもたちをそのままにしておきなさい。私のところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」(マタイ19:13-14)
 
理屈では分かっているのだ。だが、礼拝という場のためにこれを用いるというのは、なんと大胆な教会なのだろう、と思った。もちろん、これは極端な場合であると思われる。すべての教会がこうすべきだ、などとは思わない。しかしこれはこれでひとつの答えであるに違いない。ここでは、子を抱える母親が背負う重荷ということに注目してみた。教会が、高齢者の心地よさを中核において、若い親子を排除するような原理によって動いているとしたら、益々教会の未来が崩れてしまうことになるかもしれない。私たちは、依然として、自らが暴力の加害者であることに、気づかないままでいるのだろうか。それが自分の首を絞めることになるとしてもなお。
 
地球環境にしても、全くそうである。私もまた、ここでそうしたことをしていることに気づいていないのだろう、とも怯える。キリスト教会とは、自らの罪を知る人の集まりであるはずである。教会は、もっと「罪」について語らねばならない。自分の「罪」を知らない人が「説教」をしている教会もあるが、それは言語道断であるということに、信徒は気づかなければならない。そうしないままでいると、教会はすでに死んでいるということになってしまうだろう。



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