聞くことのたとえ

2025年5月26日

マルコ伝の連続講解説教は4章に入った。ここからは、これまでとは少し空気が変わる。説教が集められる。また、「たとえ」がよく現れる。さすがに、これらの説教が、このままの順番で物語の通りに語られた、という解釈は、説教者はとらない。福音書という形に仕上げる中で、ここに編集したのであろうと考える方が合理的だ。この点をさらに徹底させたのが、マタイ伝の5章から7章にわたる、いわゆる「山上の説教」である。
 
説教者の語りについては、これまでも幾度も触れてきたが、聞く者の脳裏に風景が見えてくるようにする。イメージが豊かであるというよりも、語り方が実に巧くそれを導くのである。
 
イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。すると、おびただしい群衆が御もとに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられた。群衆は皆岸辺にいた。(マルコ4:1)
 
さあ、私たちもこうして教会へ集まってきたではないか。そこにはガリラヤ湖が拡がる風景が見える。金色に輝く小麦畑も見える。この湖と小麦のモチーフは、説教の中で幾度か繰り返され、その風景が確認された。
 
福岡は、小麦どころである。北海道には遠く及ばないが、その次に生産量が多い。地元では名物のラーメンのために地産地消的に小麦を用い、「ラー麦」と称して売り出しており、それを用いるラーメン店もある。逆光で小麦畑を撮影すると、黄金色の輝きが実に美しい。
 
私はさらに、くっきりと上方を彩る青空まで見ていたい。そう、あのウクライナの国旗であり、伝えられるウクライナの風景である
 
説教者は、ここからのテーマとなる「たとえ」という言葉に光を当てる。それは「比喩」ともいう。「パラボレー」というギリシア語が、「傍らに・置く」というような構成からできていることを示す。ハイデガーだったら、そこから思索の筋道を明らかにするかもしれないが、そうした言葉の分析は、必ずしも言葉の意義を説き明かすわけではない。言葉は時代を経て、いろいろな人の思いを溶かし込んで、新たな芳香を放つようにもなるからである。
 
イエスはギリシア語で「たとえ」を話したのではないはずだ。それを当時の事情でギリシア語で新約聖書が書かれたと言って、イエスの心がギリシア語の分析で十分に説明されることは期待できないだろう。説明はできないが、それを解釈することはできる。というよりも、一人ひとりが、自分と神との出会いがなされる場として、その「たとえ」は機能するだろう。
 
この「たとえ」が、福音書ではその多くが「神の国」についてのものであることが示される。「神の国」が、そのものとして語られることが難しいため、何か他のもので比較されつつ、何らかの部分の意義が重ねられつつ、指し示されることになるものと思われる。
 
このとき、「『彼らは見るには見るが、認めず/聞くには聞くが、悟らず/立ち帰って赦されることがない』ため」という、見ようによっては残酷な仕打ちもなされることになるが、それだけに「たとえ」から「神の国」を「知る」ことが求められているとも言えよう。
 
それは、何か特定の規定の仕方によって定義されるようなものではないだろう。奇妙な言い方に聞こえるかもしれないが、常に私たちの規定を逃れた形で、神の国は存在する。それは、人間が神を完全に知ることができないのと同様である。人間が神のすべてを知ったなどというと、人間が神より上に立つことになる。だが人間にはそのようなことはできない。つまり、如何なるたとえの解明に於いても、神を超えることには決してならない。皮肉なことに、そこにある「たとえ」を超えて、オルタナティブなものとしての「神の国」が拡がることになるだろう。
 
しかしそれは、私たちにとって「神の国」が縁遠いということを意味することはない。説教者が告げたように、ここに教会があると言うことは、つねにすでにそこに「神の国」が始まっている、と信じることができるからである。
 
私たちの理解や信仰は、神の心を完全に把握することはできない。だからこそ、「たとえ」という形で「神の国」も示される。謎として、ミステリーとして提示される。それは、比喩的に「見えないもの」である。視覚的なことを言っているのではない。「見えないもの」、あるいは理性的にも感覚的にも把握することができないものを、なんとか伝えようとするものである。有限な人間にも、なんとか伝わるように、とイエスが人の言葉を駆使して、謎を掲げている。私たちは、共に考えようではないか。共に神の謎かけに魅せられたままに、神の愛を身に受けようではないか。
 
そのためには、まず「聞くこと」が必要である。「聞く耳のある者は聞きなさい」との言葉は、私たちに「聞く耳を持て」と命じているものであるに違いない。あるいは、そうとさえ感じない魂は、そもそもが「聞く耳」というものを持ち合わせていないのである。説教が神の言葉であり、このように「聞く耳のある者は聞きなさい」とのイエスの言葉を語るのであるならば、説教をそもそも聞いていない者、聞こうとしない者は、「神の国」とつながらない者である、という可能性があるだろうか。
 
さて、この最初に上げられた「たとえ」はその謎解きまでが掲載されている。それはイエスが本当に言ったのではない、というのが聖書理解の常識だ、というように説教者は口にした。学者は確かにそう告げる。だが、学者を仲介せずに聖書を読んでもよいのではないか。その謎解きはすべて弟子たちの創作である、と決める必要はないだろう。あるいはもしかすると、この一見謎解きに見えるイエスの解説そのものが、またひとつの「たとえ」となっているかもしれない。
 
そもそも「神の言葉を蒔く」という言い方自体が比喩である。「自分には根がない」もまた比喩である。「御言葉を塞いで実を結ばない」という言い方も、比喩以外の何ものでもない。そしてフィナーレとしての「三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶ」という事は、限りなく比喩の面を示している。
 
この倍数は何を意味するのだろうか。説教者は、一粒の種もみから何粒の収穫が得られるか、という「収穫倍率」の数字を説明した。古代のことは推測に過ぎないが、小麦は収穫倍率が非常に低く、一桁前半だというのが研究者の判断であるらしい。とてもとても、30倍にすら及ばない。蒔いた種がすべて実をつけるようになるわけではないから、低い数字となるのだろう。新生児の死亡率が高い環境では、平均寿命が大幅に下がるのと同様である。
 
だが、イエスは果たして「収穫倍率」の数字をここで語ったのだろうか。そもそも、集まった群衆に対してなじみのあるものを持ち出すのが「たとえ」である。農業従事者もいたかもしれないし、人々はそうした知識には通じているのが常識であったのかもしれない。だが、現代科学が基準にするような計算方法を使っていたようには私には思えない。麦の穂には、30粒くらいの実がついているのは当たり前のように見える。古代の麦がどうだったかは知らないが、それを見ると、素朴に人間は、一粒蒔いたら一本の穂に30粒できた、つまり30倍実った、という表現をとるのではないだろうか。
 
説教者は、次週も同じ箇所から礼拝説教を語ることを告げた。実際、この種たちのそれぞれの道について細かく検討することはなかった。その代わり、加藤常昭先生の少年時代のエピソードや、パウロについての映画について触れる時間をつくった。また、旧約聖書から開いたエレミヤ書9章にも言及した。
 
私はエルサレムを瓦礫の山/ジャッカルの住みかとし/ユダの町を皆、住む者のない荒れ果てた地とする。(エレミヤ9:10)
 
荒れ果てたユダの地の描写である。いわゆるバビロン捕囚により、エルサレム神殿は壊滅した。エレミヤは、楽観視する政治家や預言者たちと闘い、命を張って神からの警告を語り続けた。ただ、エレミヤは希望をも語った。この地はやがて回復する、という未来をも告げた。だがそれでも、ここにもたらされたのは見る影もないエルサレムの姿である。
 
主は言われる。それは、彼らに与えた私の律法を彼らが捨て、私の声に聞き従わず、それによって歩まなかったからだ。(エレミヤ9:12)
 
説教者は、律法という漠然とした形でここを終わらせなかった。律法のエッセンスについて、イエスは2つを数えている。神を愛すること、そして、隣人を愛すること、である。神を愛さなかったのもその通りではあるが、説教者は、隣人を顧みないとき、そこは荒れ地となつている、と強調した。
 
他人に冷たい社会は、種蒔きのたとえで言えば、「石だらけで土の少ない所」のようなものなのかもしれない。人々の心は潤いをなくし、乾いて固くなってしまった。人の頑なな心にもなぞらえることができるかもしれない。しかし、イエスはこのたとえで、ただ「良い土地」とのみ称した所に於いてのみ、実が結ばれたとしていた。
 
一つの穂に普通に実っているのもいいだろう。もしかすると、それはその2倍ほどにもたわわに実っているかもしれない。稲穂は謙遜の象徴として、頭を垂れるものだというのが日本人の美徳センスだが、麦は空に向かってまっすぐに伸びる。神の光を受けて、喜びつつ生長してゆく姿がそこに見えるような気がする。天に向かって、恵みを注がれすっくと立ち上がり、伸びてゆく。
 
説教者はここに於いて、「信じましょう」といった、安っぽく尤もらしい常套句で説教を締め括れば説教らしくなる、などとは考えなかった。毎回それで締めれば説教になる、と何も考えず何も感じず繰り返すような人が世の中にはいるのだ。説教者はこの説教に、テーマをもっていた。
 
「よく聞きなさい」とイエスは語り始めた。「聞く耳のある者は聞きなさい」と結んだ。しかし育たない種があった。それは「御言葉が蒔かれ、それを聞いても」御言葉は奪い去られるのであった。「御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れる」が土台がない者もいた。「御言葉を聞くが」欲望に潰される場合も注意を喚起した。そして、「御言葉を聞いて受け入れる人たち」こそが、並程度は当たり前、さらに2倍も3倍も、実を結ぶ者となるのである、と告げた。実に、このたとえは、「聞くこと」が肝腎だったのである。
 
説教者は、神と差し向かいになり、命懸けで御言葉を受け取る。エレミヤはそのようにして、神と差し違えるくらいの覚悟で挑み、その末に、神に降参して御言葉を運ぶ者となった。この説教者は、エレミヤに匹敵するほどの姿勢で、神と向き合っているのである。ならば、そこから語る神の言葉を、愛する同胞が、どのように聞くか、それこそが重大な意味をもつ。つまり、「聞き方」を問うているのである。
 
日本には、8000近いプロテスタント教会が数えられるという。説教者はその数を上げたが、実はそこにいる牧会者はそれの何分の一かではないかと考えられている。さらに、そこで命懸けの福音が語られている教会が、果たしてどのくらいの割合であるのか、私は真実を知るのが怖いくらいである。さらにまた、その命ある説教を幸運にも毎週聞くことのできる教会において、その「聞き方」が「良い土地に蒔かれたもの」たるに相応しい信徒が、どのくらいいるのだろうか。いまこの謎解きを耳にする人が、そして私が、そのうちの一人に数えられるように、襟を正そうではないか。
 
空を仰いで、実を結ぶ麦になりたいと願う。説教者は、いま目の前にガリラヤ湖が見えるか、小麦畑が見えるか、と問うた。そしてその風景の真ん中に、舟から語るイエスがいるか、イエスが語っているか、と尋ねた。その言葉を、私は聞いているか、結局はそこが鍵だったのである。私は、確かにその岸辺に、いただろうか。



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