書評もどき

2025年5月26日

花子さんは6日で本を一冊読みます。太郎さんは8日で本を一冊読みます。今日、二人は本を読み始めました。次に、二人が同時に新しい本を読み始めるのは、何日目でしょうか。
 
最小公倍数の問題である。算数の問題には、ときおり想像しがたい設定がなされる。公園まで、ずっと分速80mで歩き続けるとか、公園に着くとすぐに家に戻るとか、そんなことは考えられないという条件で問題がつくられるものである。この場合も、どんな本に出会っても6日で読み終えるとは、とても信じられない。だが、算数の問題は、しばしばそういうものである。
 
私は、一日に何冊かの本を少しずつ読んでいる。並行読みと呼ぶ人もいる。通勤電車に乗っている時間がこの春から長くなったので、カバンの中には最低4冊の本を入れている。家でも、朝読むものと夜中に読むものという具合に決めているので、現在だと一日あたり9冊の本を毎日読んでいることになる。
 
先日、同じ日に、そのうちの4冊を読み終えた。偶然のことだったが、次々と末尾まで頁をめくりつつ、こういう日もあるものだ、と不思議な気がした。
 
本を読み終えると、書評を書くことにしている。書評といっても、偉そうに描いているつもりはない。ただの感想文である。あるいは、紹介文と言ってもいい。子どもの読書感想文は特にそうだが、「みんなもこの本を読んでください」と結べば形になるというものが、普通に多い。さすがに私はそうは表現しないが、気持ちは同じであろう。
 
その感想文だが、一定の時間が必要になるので、さすがにその日に全部書くことはできなかった。「うれしい悲鳴」と呼ぶのは不自然かもしれないが、そういうところだ。
 
どうして感想文を書くようになったか。せっかく出会って読んだ本である。そのまま通り過ぎたら、恰も水に流してしまったかのように、過去に消えてしまうわけで、それはもったいないような気がするのだ。
 
そもそも、読んだ本について、私たちはどれほど記憶しているものだろうか。不思議なもので、小説については、昔読んだ本のあらすじを説明できるという人は、案外少ない。特に印象に残ったものは別として、たくさん読む人は、それを全部覚えているわけではないようだ。かくいう私もそうだ。ただ、かつて小説を読むことが少なかった私は、その少なさの故に、記憶率は比較的高かった。だがいまは難しい。
 
そこで、読んだ直後に、自分の中にあるものを形にして遺しておくことに、意味を見出したわけである。これは、後にまたそこを開いて、こういう話だった、と思い出すのに役立つのはもちろんだが、他にも、利用するためにも都合がよいことがある。確かあのことはあの本に書いてあった、と思えば、そこのところを見返すと、確かに記憶が蘇ることがあるのだ。また、なんとなくこうだったかな、という印象でいた本が、実は思いこんでいて違うものだった、ということが判明する場合もある。資料としての利用のためにも、あやふやどころか、誤った引用をすることはできない。
 
そして、誰かの役に何か立てばいいが、という思いから、それを順次公開している。SNSなどでは、その全部を出すのは難しいので、自分のウェブサイトに、その全部を載せ、ほかは自選したものをわずかにご紹介している次第である。
 
こういうことを思い立ったのが、記録を見ると2003年6月である。もちろん、それ以前にも本は読んでいたが、とにかく始めたそのときから読んだという原則で、こういう習慣を始めた。『フロイスの見た戦国日本』とか『神のかけら』とかいう名前がその辺りに見られる。本は、自分で買ったものもあるが、しばしば図書館から借りたものである。さすがに自分のテリトリーである哲学や宗教の本は、図書館には限られているが、一般書は図書館ものが多い。そんなに本が買えるほどの財力はないからだ。
 
そんなふうに書き続けたため、いま2025年であるが、たぶん6月には3400冊近くになるだろうと思う。塵も積もれば山となる。そのうちのひとつでもふたつでも、誰かの役に立ったならば、うれしいものである。



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