【メッセージ】変えられることが起こる

2025年5月25日

(コリント一15:50-58, ダニエル12:1-4)

ここで、あなたがたに秘義を告げましょう。私たち皆が眠りに就くわけではありません。しかし、私たちは皆、変えられます。(コリント一15:51)
 
◆変身願望
 
「変身」という言葉が爆発的に広まったのは、もしかすると「仮面ライダー」ではなかったてしょうか。小さな子どもまで、ポーズをとり、「へんーしんっ、トォーッ」とジャンプしていました。
 
「へんーしんっ」と言いながら手を斜め上に伸ばしてそれをゆっくり回転させ、反対側の手を反対側に斜め上に伸ばします。そして手を下ろして、「トォーッ」とジャンプするわけです。高い所から飛び降りて怪我をする、といったことがあったような気がします。
 
世界征服を企む秘密結社ショッカーに拉致されて、改造人間にされた本郷猛は、脳まで改造される前に助け出され、今度はその身体的能力を活かして、ショッカーが送り込む怪人たちと戦い倒してゆくことになります。
 
本郷猛は、意図せずして変身する身にさせられたわけですが、他方人には、「変わりたい」という潜在意識がある、と言われています。いわゆる「変身願望」というものです。
 
いまの自分が嫌いだ。思春期にありがちな思いです。憧れの誰それのようになりたい。たとえばそれがスタイルや容貌のことになると、無理なダイエットから病気になることもありますし、見かけを変えるために美容整形に走る、ということもあるのでしょうか。そこまで行動に移せなくても、心理的に、「変わりたい」と思うことは、多くの人が経験していることであるように思われます。
 
なかなか変えられないような容姿についてはそのようであっても、他の面では、良い方向に変身することはあるかもしれません。努力して勉強し、念願の学校に入学するとか、資格試験にパスするとか、能力的なことについては、努力が実ることもあり得るでしょう。しかし、能力とは言っても、プロ野球のスター選手になる、ということは容易ではないでしょう。野球少年が大谷選手に憧れても、皆がそのようになることは期待できないように思われます。その意味では、大谷少年がつくっていた目標達成シート「マンダラシート」は、夢を具体的にするための、ひとつの有効なヒントかもしれません。それの実現は容易ではありませんが。
 
また、ただ夢物語のように「変身」したい、というわけでもなさそうです。それだとただの我儘な夢に過ぎないような気がします。そこに私たちは、「本当の自分」という言葉を載せようとします。「自分探し」です。どこかに「本当の自分」があって、自分というものはまだまだこんな現実の中のちっぽけな者、惨めな者でないのだ、と考えています。
 
こんなのは本来の自分じゃない。「本当の自分」は、こんな者ではないのだ、と。
 
◆コリント前書15章
 
ここで、あなたがたに秘義を告げましょう。私たち皆が眠りに就くわけではありません。しかし、私たちは皆、変えられます。(コリント一15:51)
 
今日はこの言葉に支えられて歩むつもりです。聖書をよくご存じの方は、これが何を言おうとしているか、もうお見通しでしょう。コリント前書の15章の終わりの方を選びましたが、少し手前のところから、もう少しゆっくり見てゆくことにします。
 
この章には、「復活」の話が書かれています。過越の祭りと共にイエスは十字架刑に処せられ、殺されてしまいますが、三日目に蘇ります。その「復活」を祝う復活祭が、今の暦で毎年3月から4月頃に行われます。そのときに「復活」は語られればよいのだ、とお思いの方もいるかもしれませんが、そこだけで終わりなのはもったいない話なので、ここではしつこいと言われても、追いかけてみたいと思います。
 
実のところ、この15章全体を、パウロはひたすら復活のために費やしています。このコリント前書は、その冒頭からコリント教会の問題点を露骨に発き、責め、批判を重ねてきたのですが、この章では復活についての自説を蕩々と述べます。
 
コリント前書と言えば、13章の「愛の章」が最も有名ではないかと思います。しかし15章の復活の議論もまた、それに次いで有名ではないかと思われます。今日はこの章に心を注ぎましょう。
 
この章は、最初に「ここでもう一度、あなたがたに福音を知らせます」(15:1)という宣言から始まり、それまでとは話題を変えます。「これによって救われる福音を、どんな言葉で告げたかを知らせます」(15:2)と告げ、パウロの言う「福音」が何であるかを知らせます。
 
「キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、それから十二人に現れたこと」(15:3-5)という部分を主軸として、その後誰に現れたのかを告げます。それは最後に、パウロに対しても現れたということで、自身の証言に権威をつけるような勢いです。
 
◆パウロの復活思想
 
しかし、「あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」(15:12)と言って、復活否定の論を否定しにかかります。但し、その論議は決して論理的な「証明」となっているわけではないように見えます。あくまでもパウロの「信仰」の中での出来事として、復活が「ある」ということを宣言しているだけのようにも見えます。
 
ここで面白いことに、「しかし、死者はどのように復活するのか、どのような体で来るのか」(15:35)という問いをパウロは自ら立てています。つまりそこからは、その復活のメカニズムとでもいうのか、かなり具体的な仕組みを、パウロが述べるのです。どこからそのような知識を得たのか、分かりません。もしかするとパウロ個人の空想に過ぎないのかもしれません。
 
いろいろ持って回ったような言い方で準備をした後、本日お開きした聖書箇所に突入します。パウロはいよいよまとめにかかるのです。今日の聖書箇所で、復活の章は閉じられることになります。
 
「私はこう言いたいのです」と、パウロは構えます。私たちは、「肉と血」に頼ることはできない。「朽ちるもの」のままであるはずがない。だから、というようにして、パウロはいよいよ「秘義」を告げることになります。
 
「秘義」とは、「秘められた意味」ということなのでしょうが、脚注によって聖書は、これを「神秘」と説明しています。こちらの方が、伝わりやすかったような気がします。要するにこれは後の「ミステリー」という語になった言葉であって、以後私はここで、それに触れるときに「ミステリー」と称してお話を続けることにします。
 
51:ここで、あなたがたに秘義を告げましょう。私たち皆が眠りに就くわけではありません。しかし、私たちは皆、変えられます。
52:終わりのラッパの響きとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴り響くと、死者は朽ちない者に復活し、私たちは変えられます。
53:この朽ちるものは朽ちないものを着、この死ぬべきものは死なないものを必ず着ることになるからです。
 
「終わりのラッパ」が、私たちの想像するトランペットのような音なのかどうかは分かりません。当時の人が「ラッパ」としか表現できなかった何かなのであって、もし私たちがそれを聞くと、「これがあの『ラッパ』と言ったもののことか」と驚くことでしょう。
 
それはそうと、その「響きとともに、たちまち、一瞬のうちに」、「私たちは皆、変えられます」と言うのです。そして、それまで「死者」として扱われていた人々は、「朽ちない者に復活し、私たちは変えられます」と言っています。
 
これは、パウロが自分を含む「私たち」が、まだ「死者」ではないことを意味している、と考えざるを得ない表現です。パウロは自分が死を経ることなく、終わりの時を迎えることを想定しています。パウロ自身は、復活するのではなく、ただ変貌するのです。パウロは変身させられ、いま生きているそのままに、普通ならこれから「死ぬべきもの」であったのに、「死なないものを必ず着ることになる」と言っているようにしか読めません。
 
◆人は必ず死ぬのか
 
パウロが書いた書簡の中で、最も古いものとして遺っているものは、テサロニケ書だと見られています。そこには、「主が来られる時まで生き残る私たち」(テサロニケ一4:15)という言い方がありました。
 
その後、数年経ってからこのコリント書が書かれたものと研究者たちは言いますが、どうやらなお主の再臨は起こっていないにせよ、「生き残る」という信仰が変わっているようには思えません。パウロは後に、死刑となったと伝えられているようですが、そのときには、「生き残る」ことはできなかったにせよ、「復活する」という信仰は保ち続けていたことでしょう。
 
さて、現代の説教者は、この辺りをどのように語っているでしょうか。私は寡聞にして、パウロのように「生き残る」という宣言を聞いたことがありません。ごく自然に、当たり前のように、「人は必ず死にます」と言うのです。このフレーズならば、幾らでも聞いたことがあります。「人は必ず死にますが……」との大前提から、話を始めるのです。そこには復活の信仰もあります。しかし、その前にまず、「人は必ず死ぬ」が当たり前のこととして置かれるのです。
 
もちろん、それは世の常識です。人は死にません、と一般的に言うわけにはゆかないでしょう。しかし、それだとしても、パウロのこの信仰を完全に無視してしまってよいのでしょうか。一体、現代人の「信仰」とは何なのだろう、と疑います。
 
「人は必ず死にます」とは、決して新約聖書が主張することではないのです。それが私たちに適用されるかどうかは別として、必ず死ぬのが法則ならば、主の再臨はない、と言っているに等しいことになる、と気づかないのでしょうか。再臨があるのならば、どこかで世の区切りがあるのであって、そのときまだ死んでいなかった人にとっては、「必ず死にます」とは言えないことが起こるのではないでしょうか。
 
そういうことさえもが、すべて神の手の内にある、ということを差し置いて、仏教か常識か分かりませんが、何を諦観めいた世間知に合わせたことを決定的なこととして口に出すのでしょうか。
 
繰り返しますが、誰もがその生きているときに再臨がある、と言っているわけではありません。人間には分からないではないか、ということだけです。絶対にそれがない、と言ってしまうことだけは、少なくとも聖書を信じている人には考えられないことなのではないか、と申し上げているのです。だから、「ミステリー」と称しているのだと思うのです。
 
◆主にある信仰
 
51:ここで、あなたがたに秘義を告げましょう。私たち皆が眠りに就くわけではありません。しかし、私たちは皆、変えられます。
52:終わりのラッパの響きとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴り響くと、死者は朽ちない者に復活し、私たちは変えられます。
 
「私たちは皆、変えられます」というときの、「私たち」が何を意味しているか、それは問題にすることができるでしょう。パウロ自身は、自分が、いわゆる「死」を経験することなく、世の終わりが来るのだ、と考えていたように見えます。その意味での、自然な「私たち」の登場だろうと推測されます。
 
私たちの肉体は「死すべきもの」だと見られていました。古代ギリシアでは人間のことを、そのように呼びさえしました。それで、パウロはこの人間の肉体を「朽ちるもの」と形容します。しかし、その中にキリストの復活の命がもたらされるとき、その命を「朽ちないもの」と呼びます。時折「キリストを着る」という表現を使うことがあるように、主が再び来られるとき、人間は死すべきものとしての肉体をもっているにも関わらず、主を信じる民は、キリストの命を受けて、それを着るのだ、というのです。
 
パウロがあちこちで言っているようなこと、そしてコリント教会の人々へも、救いのエッセンスとして語ったであろうこと、つまり律法が違犯という形で人間に死をもたらすのですが、主イエス・キリストはその死刑判決をいわば代わりに受けてくださったのであり、しかも死んで復活させられたのですから、この死すべき運命にある人間に、死に対する勝利宣言をするのだ、ということをここで宣言します。
 
律法が罪を定め、その罪により死が決定的になります。が、神はイエス・キリストを通じて「勝利を与えてくださる」のです。だから、「しっかり立って、動かされること」のないように努めよう。パウロはそう告げます。「労苦が、主にあって無駄ではないこと」を知っているのです。
 
いったい何の労苦でしょうか。「主の業に励」むということのように読めますが、主にあることの信仰だ、と呼ぶことも可能だろうと思います。「終わりのラッパ」の音を誰かが聞くことになる、というパウロの道案内を否定するようなことを、言うべきではないと思います。神の言葉を取り次ぐ説教者は、世の常識に負けないで戴きたい。聖書への信頼を、聖書そのものとして掲げて、聞く者に突きつけてほしい。迫ってほしい。聖書にはこう書かれてあるが、あなたはどう思うか、と。
 
◆ダニエル書の幻
 
イエスが、終末を語る場面があります。世界に不思議な現象が起こると言います。しかしそれに惑わされて、偽預言者にふらふらとついて行ってはいけない、というように警告します。それは、福音書の中で「小黙示録」などと呼ばれることもあります。世の終わりがどのようであるか、イエス自らが語っているのです。だからなおさら、世の終わりがないかのように話すことは、パウロだけではなく、イエスをも否定することになる。いま、そう申しているわけです。
 
私たちは、終末の幻をここで見ています。聖書は、世の終わりがくるのだ、ということを告げています。キリストは、そもそも旧約聖書が預言した存在です。イスラエルという、吹けば飛ぶような小さな国は、主の愛する国です。キリストは旧約聖書を背景に持っているからこそ、ユダヤの人々に熱狂的に受け容れられ、最後は情念の塊みたいな感情から、引き渡されて十字架刑を受けました。
 
イエス・キリストは、旧約聖書に基盤をもつからこそ、ユダヤ人たちに信仰のために受け容れられました。旧約聖書にも、そのため、終末の預言というものがあります。神の裁きがもたらされること、この悪に満ちた世界は終わることが述べられてます。
 
今日は、ダニエル書をここで開きます。ダニエル書といえば、信仰を守った若者などの話が、教会学校の子どもたちにも話しやすい題材となっていますが、後半はかなり怪しげな幻がたっぷりと描かれています。ヨハネの黙示録の描写も、このダニエル書をヒントに作られたと考えられています。いま、ダニエル書12章をここに引用します。復活について考えるときに、参考になる箇所もあるでしょう。旧約聖書では一般に、復活思想は殆ど見られない、と言われています。ですから、この箇所は貴重です。
 
1:その時、大天使長ミカエルが立つ。/あなたの民の子らの傍らに立つ者として。/国が始まって以来、その時までなかった/苦難の時が来る。/しかし、その時にはあなたの民/かの書物に記録が見いだされたすべての者は/救われる。
2:地の塵となって眠る人々の中から/多くの者が目覚める。/ある者は永遠の命へと/またある者はそしりと永遠のとがめへと。
3:悟りある者たちは大空の光のように輝き/多くの人々を義に導いた者たちは/星のようにとこしえに光り輝く。
4:ダニエルよ、あなたは終わりの時までこの言葉を秘密にし、その書物を封印せよ。多くの人々は探求して知識を増やす。」
 
「地の塵となって眠る人々の中から/多くの者が目覚める」という言葉をお感じになったでしょうか。「ある者は永遠の命へと/またある者はそしりと永遠のとがめへと」と、復活者がすべて救いの命の中に導かれるのではなく、神の裁きを受けて永劫の罰を受ける場合もあるのだ、ということが分かります。
 
これ以上無粋な説明をいまはしません。ダニエルの見た幻は、ここでは福音となっているのだと思います。さあ、この旧約聖書の基盤の中には復活思想がありました。苦難があるが、主に知られた者は救われます。このように、旧約聖書の中にも、繙けばいろいろ新約聖書と結びつくような幻があるものです。
 
◆本当の自分に変えられる
 
さて、今日はおもに、パウロの復活思想を眺めてきました。キリストは確かに復活した。あなたがたが「これによって救われる福音」(15:2)であるとして、自分は「このように宣べ伝えている」(15:11)と証言しました。しかし、一部の人が「死者の復活などない」(15:12)と言っていることに対して、パウロはムキになって反論します。そんな空しいことがあるか。
 
そうして、キリストの復活に続いて、自分たち信ずる者がどのような順で復活するのか、についてパウロの見解を述べました。「死者はどのように復活するのか、どのような体で来るのか」(15:35)という疑問に応えるためでした。その中で、ミステリー、つまり「秘義」として、「私たちは変えられます」と言いました。このひととき、パウロのこの最後の指摘に特に注目し、強調する形で、それを神の言葉として受け止めるようにしてきたつもりです。
 
最初に、仮面ライダーを例に挙げつつ「変身」という言葉を掲げ、私たちは多かれ少なかれ「変身願望」をもっているのではないか、と申しました。しかも、そのとき心の奥で、現実の自分を認めたくないことから、どこかに「本当の自分」があるのではないか、と模索していることがあるのではないか、とも考えてみました。
 
このような世相について、最後に少し聖書の眼差しを含めて、私見を唱えてみたいと思います。その「変身願望」についてです。どこかに「本当の自分」がある、との思いか潜んでいるからそれに「変身」したいのかもしれない。けれども、実のところその人は、「本当の自分」というものが分からず、探しているわけです。「自分探し」をしているのです。
 
しかし「変身」したいということは、基本的に、明確な憧れの対象があってのことではないかと思われます。あの歌手のように歌が巧くなりたい。あの俳優のようにスマートになりたい。あの先生のように、良い先生になりたい。あの牧師のように、大きな教会を建てたい。ただなんとなく「立派な人に変身したい」というようには、なかなか憧れられないのではないでしょうか。現実にそれは難しい、という心理が隠れているからです。
 
このあやふやな「変身願望」は、結局、いまの自分は本当の自分ではない、との考えに由来していることが見えてきます。いったい、いまの自分が本当ではなくて、何が本当なのでしょうか。別に本当の自分とやらがあるのならば、いまここにいる自分は何者なのでしょうか。その点に目を向けて戴きたいと願うのです。
 
でも聖書に基づくならば、いまここにいるあなたは、神が創ったあなたです。あなたはそのあなたのままで、本当です。本物です。偽物などではありません。あなたはあなたであり、神の前にいるあなたなのです。
 
それを度外視して、別に「本当の自分」があるなどと探すのは、ある意味で歪んだ自己愛のようにさえ見えます。神を認めない、自分だけの考えを推し進めたものであるように見えます。
 
やがて、自分が思い描いた「本当の自分」というものに支配され、押しつぶされてゆくようになってもよいのでしょうか。そのために激しく落ちこんだり、逆に奇妙な自己愛に浸ったりするのはもったいないことだと思うのです。自分の中で自分の描いた「本当の自分」という偶像ではなく、いまのあなたを愛する神が、随所で呼びかけている「聖書」という本から、もっと神の声を聞いてみませんか。この「聖書」は、いま世界で最も多くの人が、神の言葉だと信じている本です。そしてその「聖書」が、やがて私たちは「変えられます」と宣言しています。あなたが探している自分の偶像ではなく、神の方で準備している命の姿に変えられるというのです。
 
そのとき初めて「本当の自分」に「変えられる」ということが、確かに起こるのです。「聖書」は、そう告げています。神が、約束をしてくださっています。その言葉を、心に結びつけて戴けたら、と願っています。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります