【メッセージ】祝福と賛美

2025年5月18日

(詩編30:1-13, ガラテヤ3:1-9)

あなたは私の嘆きを踊りに変え
私の粗布を解き、喜びを帯とされました。
それは、心の底からあなたをほめ歌い
口をつぐむことのないためです。
わが神、主よ
とこしえに、あなたに感謝します。(詩編30:12-13)
 
◆律法と信仰がもたらすもの
 
「律法」というのは、聖書独特の言葉ですが、「法」とでも呼べば、大体イメージできようかと思います。私たちの社会の「法律」でもあるのですが、神から授けられたという前提が特徴的で、宗教的な「道徳」規定のようなものも含み、さらに人間を支配する「法則」のようなようにも捉えられていましたので、私は広く「法」という語で捉えればよいのではないか、と考えています。
 
この律法を守れば救われる、神に祝福される。旧約聖書の骨子は、そこにありました。そして、イエスの時代にも、もちろんこの聖書の規定が通用していましたから、これを守り行うことで立派な人間だと見られていたのが、ファリサイ派などという人々でした。律法を守れば祝福される。ファリサイ派などの頼りはそこにありました。
 
しかし、その行き過ぎとでもいいますが、この規定で庶民を縛り、守れない者は人間ではないかのような扱いをするに至りました。イエスは、それは神の本心ではない、と憤ります。これが、新約聖書の骨子でもありました。クリスチャンは、この結末を知っています。そして信じています。それで、律法に頼るのは間違いだ、と語気を強くし、律法に囚われているファリサイ派を敵に回し、あるいは嗤うに至ります。
 
しかし、パウロは言います。罪を知れば神の恵みがあるのだから、もっと悪を為そうではないか、などという考えは間違っている、と。そんな馬鹿なことがあるか、というような口調ですが、私には、律法を大切にしようとすることを嗤うのは、これと似ているのではないか、というふうに思えてなりません。
 
近年、「罪」という言葉が教会で聞かれなくなりつつあります。その昔、「罪、罪、と言われるから教会に行くのはやめた」というような人がいた頃がありました。それで、ソフトになってきたのだ、という説明も可能でしょう。しかし、もしそれが、そもそも「罪」という門を潜らなくても、教会は楽しいよ、という考えの人を産み出すようならば、考え直さなければなりません。実際、口では「罪」と発音しながら、その意味を知らないような説教者もいます。そしてその口から、「神はありのままのあなたを愛しています」などと、無条件の愛を、私に言わせれば歪んだ形で強調してくると、何か大きな間違いに陥ってしまうように思うのです。
 
罪を犯せば、神は愛してくれる。もちろん、それも極端でしょう。しかしまた、善いことをしなければ救いはない、と焦るのも、またひとつの極端な考えであるような気がします。ファリサイ派などの焦りも、この辺りに起因しているのかもしれません。律法を行ったからではなくて、信仰に聞き従ったから、救われたのだ。パウロは「信仰によって生きる」(ガラテヤ3:7)ことへと注目するように、ガラテヤの人々に呼びかけました。そして、信仰によって生きる人には何がもたらされるか、簡潔に言い述べています。
 
それで、信仰による人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されるのです。(ガラテヤ3:9)
 
◆祝祷
 
それで本日は、この「祝福」に光を当てて、見つめていこうと考えています。とは言っても、聖書に於いて「祝福」という言葉を拾おうとしただけでも、無数に挙げなければならなくなります。私たちは、その中から幾つかの視点だけを垣間見るに留まります。続きはまた、各自聖書から味わってくださるようにお願い致します。
 
そもそも礼拝の中でも祝福が明確に位置しています。礼拝の終わりの方で、「祝祷」があるのが普通です。民数記のフレーズがよく用いられます。
 
主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
主が御顔の光であなたを照らし/あなたに恵みを与えられるように。
主が御顔をあなたに向けて/あなたに平和を賜るように。(民数記6:24-26)
 
教会独自のスタイルもありますし、牧師の信仰から掲げるものもあるでしょう。日によって相応しく変えてくる場合もあります。その日の礼拝で強調された点に関して、聖書箇所が祝祷の言葉として選ぱれることもあるかと思います。
 
教会に、神学生が研修に来ていて、いよいよそこから旅立つ、というときにも、祝福のひとときが設けられます。その日を境に遠くに引っ越すような人がいた場合も、祝福の祈りが献げられることがあるでしょう。
 
創世記で、サレムの王だという謎の祭司メルキゼデクが、アブラムを祝福しに来たこともありました。
 
天と地の造り主、いと高き神に/アブラムは祝福されますように。
敵をあなたの手に渡された/いと高き神はたたえられますように。(創世記14:19-20)
 
イスラエルの中でも謎のシーンだと見られますが、後に新約聖書のヘブライ書では、ここを大変大きく取り上げて、イエスと重ねて解釈していました。かなり大きな意味をもつ出来事だったように見受けられます。
 
今日の「祝福」について聞くこのひとときは、神殿奉献のときに歌われたと言われる詩を、後で掲げて読みましょう。教会建築と比べるのはまた違うかもしれませんが、献げることについての喜びを、昔の人の心に合わせて感じ取りたいと願います。が、その前にもう少しだけ、祝福について寄り道をさせて戴きます。
 
◆祝福と呪い
 
特に申命記では、非常に明確に、祝福が示されていると考えられます。「祝福」と「呪い」との対比が見事です。
 
見よ、私は今日、あなたがたの前に祝福と呪いを置く。もし、今日私が命じる、あなたがたの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、もし、あなたがたの神、主の戒めに聞き従わず、私が今日あなたがたに命じる道を外れ、あなたがたが知らなかった他の神々に従うならば、呪いを置く。(申命記11:26-28)
 
一本道を自分は歩いてきた。そして目の前に、道が二股に分かれている。一つの道は祝福の道。もう一つの道は、呪いの道。さあ、君はどちらの道を選ぶ? そんな情景が目に浮かびます。
 
祝福と呪いという対比がとても鮮やかで、分かりやすいものです。分かりやすいということは、逆に言えば、他人に迫るのに都合が好い、ということです。カルト宗教と呼ばれる集団は、決まってこの二項対立を突きつけてきます。こちらのなか、いえ、違います、ではこちらしかないな。
 
もちろん、宗教に限りません。詐欺関係で、片方をぶつけてきて、それを否定せざるを得ない情況をつくると、それでは反対のこちらですね、と導くと、そちらを選ぶしかなくなる、というような手法を採ることがよくあります。
 
このようなことを思いながら、私の頭の中に、苦いことが思い起こされてくることを告白します。紀元前四世紀にギリシアで多くの著作を遺した、哲学者プラトンのことです。いえ、プラトンが書いた対話篇と呼ばれる作品の中で活躍する、師匠ソクラテスの姿です。時の権力者や友人など、誰であれ相手構わず対話を始めます。そのときの手法がこれなのです。
 
つまり、きみが言うには、◯◯◯ということだね。そうすると×××ということになるね。ソクラテスは、相手の持論を展開すると矛盾に陥ること指摘します。ということは、◯◯◯ではなかったことになる――。
 
申命記の明解さは、このような二項対立に基づくものでした。これは聖書、特に旧約聖書では歴然としています。詩編を開いてみると、幸いな者と悪者とが度々対比されています。しかし、偶には、祝福に充ちた詩を身に受けてみたいものです。詩編128編なんか、どうでょう。
 
都に上る歌。/幸いな者/主を畏れ、その道を歩む人は皆。
あなたの手が苦労して得た実は/必ずあなたが食べる。/あなたは幸いだ、あなたには恵みがある。
妻は、家の奥にいて/豊かな房をつけるぶどうの木のよう。/子どもたちは、食卓を囲んで/オリーブの若木のよう。
見よ、主を畏れる人はこのように祝福される。
シオンから主があなたを祝福してくださるように。/あなたが、命あるかぎりエルサレムの繁栄を見
子や孫を見ることができるように。/イスラエルの上に平和があるように。(詩編128:1-6
 
◆呪われたようであっても
 
しかし今日は、この詩編ではなくて、詩編30編から聴くこととしました。すでにお読み戴いた前提でお話を加えていきます。
 
「ダビデの詩」とされる詩編30編ですが、「主よ、あなたを崇めます」と始まり、自分を「生かしてくださいました」と感謝を示します。それで、「主に忠実な者たちよ、主をほめ歌え」と同士に、恐らくは国民に向けて、共に賛美しようともちかけます。この辺りは、特別な様子はありません。詩編にはよくあることでしょう。
 
しかしよく見ると、心に留まる表現を見出します。
 
2:主よ、あなたを崇めます/あなたは私をすくい上げ/私のことで敵を喜ばせることはありませんでした。
 
敵が登場します。敵の陰がちらつくのです。ダビデにとり、この敵とは誰のことか、それはここでは決定することはできません。時に、サウルから命を狙われて必死だったこともありますし、ペリシテ人など、周辺諸国との戦いに挑むこともありました。息子に追い出され、荒れ野をさまようこともありました。
 
敵は私が不幸に陥ると、喜ぶことでしょう。私に呪いをかけてくるのが敵というものです。神は、私にそのような不幸な目に遭わせることをしなかった。そのように見ることができようかと思います。
 
3:わが神、主よ、私があなたに叫ぶと/あなたは私を癒やしてくださいました。
 
呪われるような不幸に陥らなかったこと、これについてダビデは「癒やし」という言葉をもちかけています。しかし、このようなことを言うからには、何かがあったに違いありません。すべてが祝福されて幸せであれば、こうした言い方をするはずがないのです。「癒やし」があったということは、病に陥っていたのです。まるで呪われたように、不幸な様子が事実あったはずなのです。
 
また、次のようなフレーズもありました。
 
6:主の怒りは一時。/しかし、生涯は御旨の内にある。/夕べは涙のうちに過ごしても/朝には喜びの歌がある。
 
ダビデは、「主の怒り」を浴びたと認識しています。「しかし」、それで終わりはしない、むしろ神の祝福の中に自分はいるのだ、と確信しています。この無邪気な信頼が、ダビデの強みだと思います。ダビデの信仰だと思います。夜を涙で過ごした後には、朝にはその唇に喜びの歌が上るのです。大きな慰めです。
 
◆信仰と祝福
 
では、このような不幸なことがないときには、どうでしょう。私たちキリスト者のことです。うまくいっている。助けられた。喜ぶべきことに包まれた。ああ、これは神が祝福してくださっているのだ。結構です。その通りだろうと思います。でもそのときに、こんなことを思わないでしょうか。「私がしっかり信仰しているからだ」と。
 
同じようなことは、ダビデにもあったようです
 
7:安らかなときには、言いました/「私はとこしえに揺らぐことなどない」と。
8:主よ、あなたは御旨によって/私を強固な山にしてくださいました。/しかし、御顔を隠されると、私はおじけました。
 
うまくいっているときには、「私はとこしえに揺らぐことなどない」との自信をもったのだ、と言っています。堅い信仰が自分にはあるのだ、と自信をもっていました。しかし、「御顔を隠されると」、つまり神の祝福が注がれないようになったとき、さらに言えば、まるで呪いがかかったように、不幸に見舞われたとき、「私はおじけました」と告白しています。怯んだのです。自信が挫かれ、落ちこんだのです。このような経験が、ダビデにもあったというのです。ある意味で、これは心強いことです。ダビデが主と心が堅く結びついていたことの陰には、このような弱さ、あるいは愚かさと呼んでもよいようなものがあったというのですから。
 
信仰をしていれば、神に祝福される。そのようなことを強調するグループもあります。分かりやすい論理です。信じて成功したら、それを派手に宣伝することができるでしょう。それはまるで、安易なビジネス書や健康食品のセールスと同じような気もしますが、「私は◯◯で成功した」「◯◯で治った」という宣伝の本や、通信販売が、巷に溢れているのは確かです。◯◯をしたすべての人が成功したわけでも、治ったわけでもないのですが、ごく一部の人がそうだと宣伝することで、その本や薬を売ろうとするわけです。
 
威勢のいいその教会グループは、やがて「メガチャーチ」と呼ばれるような巨大な教会を築きました。教会員が何万人と言われ、日曜日は朝から夕方まで何度も何度も分けた形で礼拝集会を開くのです。そして、「信じれば成功します」と叫び続けました。
 
こうした華やかな姿を横目に、不幸に襲われ続けるクリスチャンは、肩身の狭い思いをします。自分には信仰がないから、不幸なことが起こるのだ、と考えざるを得ないからです。また、そのように後ろ指すら指されます。あの人は不信仰だから、あんな目に遭っているのだ、と。まるで、旧約聖書のヨブ記を誰も読んだことがないかのようです。
 
誰でも、神を信じたら成功すると決まっているわけではありません。神を信じたから魔法が使えるわけでもないし、テストで一番になるとは限りません。教会学校の生徒みんなが一番になってはいないと思います。信仰すれば家が買えるという法則もないし、社長になれると決まってもいない。大スターになれるというのも、ただの夢でしかない場合が殆どでしょう。
 
「祝福」が嘘ではない、と私は思います。しかし、それが金持ちになることや、有名になることである、という形になると決まっているのではないだろう、と思います。尤も、これも極端な形ですが、信じればこの世で弱く貧しく暮らすのは当たり前だ、と決めてかかるのも、どうかとは思います。牧師の子として生まれたニーチェが、神学を学んだ末に、キリスト教に対してアンチの立場をとり、キリスト教信仰は「ルサンチマン」だ、と嗤ったことを思い起こします。劣等感から、成功を妬んでいるのが信仰というものだ、と軽蔑したのです。
 
◆キリエ・エレイソン
 
「御顔を隠されると、私はおじけました」とのダビデの告白は、私たちには慰めになるのではいないか、と申しました。私たちも思い当たることでしょうが、悪いことが起こると、自分は神に見放されたのではないか、と思ってしまうことがあります。神が私に対して顔を隠した、と感じたとき、私はなんと弱い者となることでしょう。しかし、このことを弁えておく、ということは、実は立ち上がるひとつの力になり得ると思います。この構造に気づいているだけで、立ち上がるきっかけになるかもしれないのです。
 
がっかりする必要はないのです。ダビデの知恵に、あるいはダビデの信仰に、倣いましょう。
 
9:主よ、私はあなたに呼びかけます。/わが主に憐れみを乞い願います。
11:お聞きください。/主よ、私を憐れんでください。/主よ、私の助けとなってください。
 
「主に憐れみを乞い願」うのです。キリスト教世界には、「私を憐れんでください」というフレーズがあります。すっかりカタカナになった形で、「キリエ・エレイソン」と唱えられます。ギリシア語で、「主よ憐れみたまえ」という意味の言葉です。カトリックや正教会では、礼拝の中で当たり前のように繰り返し唱えることになる言葉であるはずです。どういうわけか、プロテスタント教会では――一部の教会ではあるのでしょうが――、そのようなフレーズを唱えるのを聞いたことがありません。どうしてなのでしょうか。もっと取り入れてよいのではないか、と私は感じています。この言葉で祈ってよいのではないかと思うのです。
 
この祈りは、己れの姿を惨めなものだ、と痛切に知っているところからこそ生まれるものだと理解します。自分には力がない神により助けられるしかない。自分でなんとかするのではなく、自分の外から、神の恵みが注がれることをただ待つ。どうかこの無力な私を、主よ、憐れんでください。
 
12:あなたは私の嘆きを踊りに変え/私の粗布を解き、喜びを帯とされました。
 
神はこの道からのみ、喜びを与えてくださいます。憐れんでください、と祈る道こそが、祝福の道なのです。それによって、「心の底からあなたをほめ歌」うことができるようになるでしょう。ダビデは、そのように歌って、この詩を閉じます。詩編は、なんと人の心にあるものをリアルに紡ぎ出してくれることかと感動します。信仰の教科書のようなものだと思います。
 
◆祝福と賛美
 
ダビデの、神に対する信頼、あるいは信仰の姿を見ました。詩編30編には、「祝福」という言葉そのものは現れませんでしたが、そこには、不遇な境遇の中に主の助けを見出す眼差しがあり、きっと祝福を覚えていただろう、という気がします。
 
ガラテヤ書から引用しますが、「信仰による人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されるのです」(3:8)という言葉がありました。キリスト者もまた、このアブラハムに続く者でありたいと願います。
 
ところでこの「祝福」と訳されている語ですが、普通私たちは、神が人を祝福する、という方向で捉えますし、また何らかの形で神の役割を担う人が、他の人々や国民を祝福する、というように捉えます。しかしその語が聖書の中で同時に、神をほめたたえることについて用いられていることもあります。
 
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してそれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これは私の体である。」(マタイ26:26)
 
分かりにくい感じもしますが、要するに「聖餐」のことが「祝福」と呼ばれているのです。そしてまた、「賛美」という言葉も、「祝福」と置き換えることができる、というのが、言葉の意味というものです。もちろん私たちは、文脈によって、「祝福」と「賛美」とを使い分けます。人から人へのものは「祝福」であり、人から神へのときには「賛美」とするのです。
 
こうなると、表現の些末な違いにこだわって分類するよりも、聖書の言葉を使う人々は、「祝福」と「賛美」とを同じ語で、同じ範疇で捉えていたことを押さえておきます。そのような世界に、私たちもどっぷりと浸かってみましょう。
 
神に祝福される喜び。そして私たちは神を賛美します。私たちもまた、神を祝福します。決して神を呪わないように。神は私たちを呪いはしないからです。イエス・キリストを通して神と出会った私たちキリスト者は、必ず神に祝福されています。それは、物質的な恵みとは限りません。地位や名誉を与えることだとは限りません。しかし、神はイエス・キリストを通して、祝福を私たちに与えてくださるのです。
 
どちらが先なのでしょう。どちらが原因なのでしょう。神から私たちへ、それとも私たちから神へ。時間的に先なのはどちらか、原理的に先なのはどちらか。ええ、それは当然神からでしょう、とも言えるでしょう。それなら、神からの恵みが先にあって、私はそれに応答するばかりでしょうか。それもよいでしょう。私は、神からの祝福にレスポンスして、神を賛美します。でもまた、もはやどちらが先などという意味ではなく、神と共に祝福の世界にあればよいのではないでしょうか。
 
信仰の話ではありませんが、洗練された言葉をお伝えすることで、お話を閉じたいと思います。それは、この5月の、Eテレ「100分de名著」という番組で掲げられたひとつの詩です。今月取り上げられた名著は、谷川俊太郎詩集ということでした。惜しまれながら昨年の11月に亡くなった詩人です。
 
テレビ番組とそのテキストの中で、「帰郷」という詩が紹介されました。その一部ですが、このような連がありました。
 
  私が生まれた時
  世界(コスモス)は忙しい中を微笑んだ
  私は直ちに幸せを知った
  別に人に愛されたからでもない
  私は只世界(コスモス)の中に活きるすばらしさに気づいたのだ
 
谷川俊太郎さんの父親は哲学者谷川徹三でした。哲学の素養が彼にもあったのだろうと思います。哲学の心と、優れた言葉のプロとしての詩人の眼差しから、生まれたことの中に、世界が直ちに私に幸せを与えていたことを告げています。この番組の講師は、カトリックの批評家の若松英輔さんでした。若松さんは、ここをこう読み解きます。
 
「生まれてきたときには世界中に祝福されていた。」
 
あなたへの神の、絶大なる祝福を、私たちも詩人のように感じ取ることができるでしょうか。イエス・キリストの十字架の姿の向こうから流れてくるのは、血だけではありません。神の愛、神の祝福が、そこにあるのです。



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