論破と預言者
2025年5月16日

相手に何か言われたら、相手の言明の中に論理的な不備を見つけて指摘する。それにより、相手のすべての発言を無効にしてしまおうとする。
他方、自分の言葉に何か文句を言われても、時に大声で、断言的に言い切ってしまうことにより、攻撃をかわす。あるいは、のらりくらりと駄弁を放ち、決して追い込まれないようにする。そして攻撃する相手の言葉に論理的でないことを指摘して、攻撃を止めさせる。
ただの自己愛のなせる業かもしれない。真理というものを目指すつもりはないし、自分の言うことだけが唯一の真理である、ともう結論が決まっている上での言動をとるのである。
とうの昔から、ソフィストという名で、弁論を以て論破することを職務とするような者たちがいた。その社会では、それはありきたりの道だった。ただ、ソクラテスがそこに異を唱えた。弟子のプラトンがその様子を書き留めている。また、その師匠を登場人物にして、対話篇を書き、さらに弟子たちを育てていった。ここに、知を愛する「哲学」が始まった。これが、哲学史の常識である。
ソフィストそのものがそれほど悪質だったかどうか、はまた別であろう。当時の弁論の標準的なスタイルであったのだろう。ただ、ソクラテスにしろプラトンにしろ、それは真理への道ではないと見えた。だからこそまた、損得に関係なく、真理を問い続けようという姿勢は、確かに後の哲学の世界を拓いたと言うことはできるだろう。
現代社会で、真理を求めるつもりはさらさらなく、ただ自分か優位に立ちたいがために、あるいはそれで金儲けをする目的があって、論破を目的として、さも真理であるかのように振舞う言動があることは、周知の通りである。インターネットの働きで、それにのっかる者が増えたら、その「数」が正義の顔をする。そして、敵に回された人がその「数」によって集中攻撃される。もうそれだけしか価値がないように振舞うわけで、如何にこの国に哲学というものがないものかが暴露される現象であろうと思う。
目立たないからそういう攻撃に晒されたことは、そうたくさんはない。たくさんはないが、攻撃されたことはある。これからもあるかもしれない。いまも陰ではなされているのかもしれない。はたまた、「無視」という形で冷ややかに眺めている人もいるだろうと思う。
新約聖書にも見られるが、とくに旧約聖書の預言者たちは、世にうまく迎合して笑顔で暮らしていたようなふうではない。だから、クリスチャンと自称しておいて、世の取り巻きの中で自分たちが正しい、とし、誠実に何かを細い声で述べる人たちを圧迫したり、無視したりするというのは、聖書を知らない、というふうに言われても仕方がないような気がする。
私も、そのように誠実な弱い立場の人を攻撃するようなことをしているかもしれない。正義という顔で堂々と言うときに、真実な人を苦しめていることがあるかもしれないのである。しかし、預言者たちは、偽りに対しては厳しく指摘した。私は預言者そのものではないが、預言者に関係がない、とは思えない。そして、預言者は相手を軽々しく論破はしない。神の言葉は、後から結論が伴うだけであり、いまこの場でやりこめることを目的とはしていないのである。