教会はそんなにも広い

2025年5月12日

もう一人の説教者により、自由に選択された聖書箇所から語られる。開かれたのは、詩編18編であった。この詩は、51節まである。そのうち、17〜20節の4節だけが取り上げられた。短いので、まずそれを掲げておくことにする。
 
  主は高みから手を差し伸べて私をつかみ
  大水から引き上げる。
  力ある敵と私を憎む者から主は私を助け出す。
  彼らが私より強かったからだ。
  災いの日に彼らは攻めて来たが
  主が私の支えになり
  私を広い所に導き出した。
  私を助け出し、喜びとしてくださる。
 
恐らく、という推測ではあるが、説教者自身、ここから助けられたのだと思う。いつぞやは、自分の経験した苦悩について、そう具体的ではないにせよ、少しばかりその内実を漏らしたことがあった。が、そうそうそれは表には漏らさない。だから、私の勝手な想像であることをお断りしておく。
 
説教者の中には、自分の体験を素材として説教を語る人がいる。体験談であるだけに、生き生きとしている。話に、実感がある。しかし、神の言葉を語るからには、自分の経験で語ることはよくないと戒める人もいる。
 
私には、そのどちらかでなければならない、という確信がない。その説教を聞く人や場によるのではないか、とも思う。常に同じ顔ぶれの信徒を前に語り続ける人には、そのどちらかに集約されるのかもしれない。だが、様々な場面があることを想定すると、神の言葉を取り次ぐとき、ひとつの形だけですべてが賄えるようには思えない。神は、その相手を選んでその場に相応しい言葉や語り方を選んだ。説教者もまた、聖霊の風の流れに応じて、語ることはその時その時に教えられるのではないか、と思う。
 
とはいえ、その人の語りは、一定の枠や形式の中にある、というのも本当だ。この説教者の場合、「人生の苦難を助ける主」、そしてそれに応じた「信仰」という角度から語られることが多い。実は本日もそうだった。
 
17:主は高みから手を差し伸べて私をつかみ/大水から引き上げる。
 
神がいと高きお方であることは自明である。それに対して私は地べたにいる。いま私は「大水」の中にいる。溺れかけている。イスラエルの地は乾いた土地が多いし、平均降水量も少ない。東京の半分にも満たないと言われるが、もちろん地域差はある。ただ、その降り方が違うらしい。乾季と雨季とがあり、秋から春先まで、比較的多く雨が降る。その降り方が問題で、砂漠地帯では、乾燥した土はすぐには雨を吸収できないし、そもそも土の硬いところが多いらしい。雨は地表を流れる川となり、土砂を巻き込んで土石流を形成することがある。農業のためには恵みの雨であると共に、警戒しなければならないものであるという。
 
こうした「大水」に見舞われると、ひとたまりもないだろう。助かる見込みもなさそうだが、主はそのような中からも、人を引き上げるのだという。モーセか水の中から引き出されたのも、命ギリギリの出来事であった。そのひとつのエジプト王女の気紛れのようなことが、イスラエルの歴史は塗りかえられたのだ。
 
しかも、主が手を差し伸べている。私から縋ったり、主を探したりしたというよりも、とにかく主が手を伸ばして私をつかんだのだ。救いは外からくる。救いは主にある。私が何をしたから、などということはここには書かれていない。私に何の義かあったのか、全く関係がない。
 
18:力ある敵と私を憎む者から主は私を助け出す。/彼らが私より強かったからだ。
 
もちろん、この「大水」はひとつのメタファーである。現実に私を苦しめるものは、自然災害とは限らない。そこには「敵」がいる。私は、「力ある敵」と「私を憎む者」に取り囲まれている。それが正に大水の最中にいる、ということである。しかも、その敵は「私より強かった」という。だから私自身では、もう私を救うことができないである。
 
説教者はこのとき、イエス・キリストの姿を思い起こさせた。イエスは、エルサレムを目指した。そこで何が起こるか、自分がどうなるか、分かっていたけれども、エルサレムへと進んだ。特にルカの筆致は、ひたすら一心にエルサレムを見て前進するイエスの姿を強調して描く。イエスが、敵に囲まれる道を選んだ、と言ってもよいくらいだ。
 
敵に囲まれる、逃げる道を塞がれる。敵に迫られ、行き場がなくなり、狭いところに追い込まれるはずである。だが、詩人ダビデははっきりと言う。
 
19:災いの日に彼らは攻めて来たが/主が私の支えになり
20:私を広い所に導き出した。
 
私はいま「広い所」にいる。解放された場に連れ出されたのだ。つまりは、救い出されたのだ。説教者は、そこに「自由」が与えられた、と表現した。「自由」とは難しい概念である。考えれば考えるほど、問題の深みに入ってゆく。私は昔、自由論を修士論文に選んだ。とうてい、書き切れなかった。つまらない感想文になった。だが、関心は決して終わったわけではない。
 
こうした概念は、各自が勝手に概念規定をしており、それぞれの思惑が異なるにも拘わらず、恰もそれが理想であるかのように持ち出される。何も規制されないのが素朴に自由だと思う人もいれば、何らかの規制があってこその自由だと見抜く人もいる。そもそも日本語の「自由」という言葉が、伝わってきた西洋由来の「自由」の概念とどのくらい重なるのか、分からない。社会的にも、その「自由」を勝ち取るために無数の人の血を流してきた歴史をもつ西欧と、なんとなく輸入したような日本とでは、思い入れるものも違う。
 
それでも、新旧約聖書には、それぞれ30節ほどに「自由」と訳されている箇所がある。「真理はあなたがたを自由にする」(ヨハネ8:32)というように、思索を要求するような言い方もしている。当時の常識である奴隷制を基準にすると、この「自由」のもつ意味が、いわば当時のレートで測られねばならなくなるかもしれない。
 
閑話休題。説教者は、教会にあった、微笑ましいエピソードを、ぼかしながらも紹介する。悩みを打ち明ける場。それに応じて人々が共感する場。そしてそのために祈り合うことができる場。教会こそ、そんなにも「広い所」であるのだ、と指摘する。
 
それは、教会に主がいるからに外ならない。敵とはたとえばサタンかもしれない。神から魂を切り離させようとして、様々な手段を講じる。サタンにしてみれば、神との関係から離れる魂が現れれば成功なのである。しかし、ダビデは「主が私の支えにな」っている。神の言葉が支えている、というふうに読んでもよいだろう。そして、主は「私を広い所に導き出した」のである。私は解放されたのだ。もはやサタンの手にかかり、偽の幸福へと誘われ流されてゆくことはない。支えたり、導いたりする主体は、主なる神である。
 
20:私を助け出し、喜びとしてくださる。
 
説教者は、自省する人間をよく知っている。恐らくは自身がそうなのであろうと思う。自らを責める眼差しをもたない人は、キリスト者とは言えないだろう。だが、内なるものばかりを見つめていてはいけないだろうとも思う。加藤常昭先生の本の中で、自省ばかりする内村鑑三に対して、ある宣教師が戒めを告げたという。苗が育っているかどうか気にして毎日引っこ抜いて根を調べるような子どもみたいなことをしてはならない、と。太陽の光を浴びて、成長してゆくことだ、と教えたのだそうである。
 
私は私を、惨めなできそこないだと思うかもしれない。説教者の言葉で言うと、「失敗作」だと見なしてしまうのだ。しかし、それでも創造主の目から見れば、それは「喜び」であるとダビデは知らせてくれている。
 
ルカは、一人の悔い改めがあれば天に喜びがある、という福音をも伝えている。説教者は、ルカ伝を愛しているようで、福音書から言葉を引くときには、ルカ伝である可能性が高い。ここでは詩編を辿ってきたが、ことある毎にルカ伝が思い起こされる。
 
短い詩の一部ではあったが、説教者は最後にそのエッセンスを辿った。つまり、主は私を救うために手を伸ばし、広い所へ連れ出し、喜びとする、というのだ。しかも、それはダビデが思うよりずっと、信仰の仲間の中で分かち合われるもの、建て上げるものとなるはずである。教会という共同体において、このような聖書の言葉に生かされた者たちが、互いに祈り合いながら、命のある教会を共に築くことを、願ってやまない。最も広い所としての神の国は、この地上では、喜び溢れる教会という姿で実在するのだから。



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