いい意味でクレイジー

2025年5月5日

マルコ伝の連続講解説教は、今日3:20-30を迎えた。身内の人たちが、「気が変になっている」と思い、取り押さえに来た場面である。どうやら、イエスは故郷ナザレの実家にいたのではなく、集めたばかりの弟子たちとの生活拠点にいたようである。
 
ここでイエスに迫り来た人たちは、二つのグループであった。説教者は、それぞれを区別して、情況を説いた。一つは、「身内の人たち」であり、もう一つは、「エルサレムから下って来た律法学者たち」であった。
 
まず、「身内の人たち」は、イエスを「取り押さえに来た」のだった。要するに捕まえに来たのだったが、説教者は、英訳の中に「under control」としたのがあった、と知らせた。調べてみると、「Contemporary English Version」が確かにそうなっていた。新約聖書が発行されたのは1991年だという、新しい聖書である。極めて分かりやすい英語だという評判だが、元のギリシア語でも「under control」のニュアンスが、確かにないわけではないようだ。但し、よほど特殊な訳ではあるようで、他の訳ではこのようには訳していない。
 
イエスを支配下に置く。これは、霊的に読む必要がある。私たちは、人間的理性の下に、聖書を理解しようとするようになった。近代理性の確立という思想史を辿れば、それことは明らかである。だが問題はそれだけではない。私たちは、信仰をもっていると口では言いながら、その実イエスを自分が支配するようなことを平然と行うからである。自分の願いを実現するために、神を利用するのである。これはかなり罠のように人間を襲うので、そうならないように、と祈るばかりだ。
 
それから、「気が変になっている」というフレーズにも、説教者は注意を向けさせた。これも英訳で、「out of his mind」としているものがあるという。これは数多い。「mind」は「心」の内でも「知性」に傾いているから、いわば「正気でない」という感じになるだろうか。「知性から外れている」ということである。先ほどの訳(CEV)では、ここは「crazy」になっている。そして、こう訳している英訳も多い。その他は、「mad」を使うか、「lost his senses」のようなものがわずかあるくらいであろうか。
 
説教者はこの後、説教の中で、この件について、言いやすい「crazy」を、カタカナの外来語として多用することになる。
 
もう一つ「エルサレムから下って来た律法学者たち」についてだが、すでにイエスをどうやって殺そうか、と狙う心がそこに起きていたことを思い起こす。ただ殺すのではない。「どうやって」というところにまで考えが進んでいるのである。つまり、殺すという結論はすでに出ているのである。
 
先ほどの「支配下に置く」こともそうだが、これは「今のキリスト者の物語」であることを、説教者は明確に告げた。聖書はそのように読まねばならないことは、信ずる者の常識であろう。常にこの説教者の説教を受けている教会の人々には、改めて言う必要のないことであると思う。だが、世の中には、説教する者自身が、全くそのようなことを感じることがない、そういう教会も確かにある。当然、そこに神の言葉が人を生かすということがない。一部の、命ある信徒の中に、炎がくすぶり続けていることだろう。その火が消えないことを強く願う。
 
説教者が例示したことについて、ここに再現することは割愛するが、人種問題を絡めつつ、イエス・キリストのcrazyさに焦点を当ててゆくようになる。イエス・キリストは確かにcrazyであった。それは、世の常識からすると、外れている、という意味である。だから、イエスに従えと促され、イエスに従おうとする私たちもまた、crazyへと招かれていることになる。私たちは、それを強く意識し、覚悟しておく必要がある。
 
否、それどころではない。教会に必要なのが、正にこのcrazyであるはずなのだ。説教者は、今風に使われる場合の「ヤバい」という言葉にそれを比した。これは面白かった。世を基準にすると、危なっかしくて問題の多い「ヤバい」という元来の意味である。だが、逆説的にであれ何であれ、神の僕となり、僕として働くのであれば、すばらしいという意味での「ヤバい」となるだろう。実際、その「crazy」は、もちろん気が狂った意味を示す語ではあるのだが、それが逆転して「すばらしい」という意味で使われることもあることを思い起こすとよいだろう。そして、肯定的な意味で「熱狂的」という感覚もそれは含むようになっている。
 
説教者は忠告する。人は、周りに合わせて無難に過ごしたいものなのだ。日和見主義というのも、あまりにもあたりまえになっている。そして、自分一人くらい大したことがない、と誤った謙遜を根拠にして、周りの人々にただ同調して、天秤の片方に載ってゆく。それは確実に、そちら側を下げるために働くのであるが、自分の責任というものを全く考えていないと言っても過言ではない。
 
イエスに従うことは、危険なことだ。神の御心に従うことは、危険なこととなる。だが、そこにこそ「真の道」がある、と言うのだ。
 
時に「本当の自分」という、もう長きにわたりありふれた世の合言葉をも取り上げて、説教者は、それがあるとするならキリストの内にこそあるのだ、と断言する。説教たるもの、このように迷いなく強い意志で語ることが必要である。
 
聴く者は、語られることのすべてを同様に聞きとることができないかもしれないが、説教者が力強く断言したことについては、心の奥に届くように聞き入れるべきである。ささやかな量の言葉であっても構わない。ひとつの説教でひとつの言葉であってもいい。語る方も、そのひとつを強くはっきりと伝えられたなら、実は神の出来事がそこに実現したことになるはずなのである。
 
「エルサレムから下って来た律法学者たち」は、イエスに対して「ベルゼブル」という不名誉な名を以て非難した。「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言ったというのだが、それはまた「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」という意味でもあった。
 
「ベルゼブル」という語は、一説にはペリシテ人のバアル信仰に基づく神の呼び名が、ヘブライ語に変化したものだという。元々「崇高な」という意味の部分を、洒落のようにして、「蠅」という語に置き換えて揶揄したのではないか、とも言われる。日本語だと例えば「りっぱな人だ」を一字換えて「かっぱな人だ」というようにふざけたようなものだとでも考えるとよいだろう。
 
ウィリアム ゴールディングという20世紀イギリスの作家が、この言葉に関して『蠅の王』という小説を書いている。疎開のための飛行機が遭難し、少年たちだけが無人島に立つ。そこで酷いことが起こってゆくのであった。人間は誰でも邪悪になることができることが描かれていように読めるだろう。
 
さて、先に「気が変になった」は、多くの英訳で「out of his mind」とされていることに触れた。説教者はそのとき、さりげなくだが、神の恵みやイエスの業そのものが、「out of our mind」にあることを告げていた。有り体に言えば、私たちの思いの外、私たちの与り知らぬところに、神の心と業が現れてくる、という意味に取れるだろうか。
 
実はそこは、原語のギリシア語に於いても、「自分の外に立つこと」というような構成の語が使われていた。酷く言えば「イカレてる」とでもいうような感じであり、魂が肉体の外に出て行くほどの恍惚状態を意味しうるのであった。この語の名詞が、いま伝わって「エクスタシー」という語になっている、と理解すると、ニュアンスがより伝わりやすくなるのではないかと思う。
 
それほどに、神を知るということは、この世での私からは遊離しないといけないのかもしれない。罪に死んでいるような人間からは決して見えない世界である。しかし、罪に死に、復活に生きるとき、そこに何が見えるだろうか。
 
説教者はイザヤ書を引用しながら、神が私の名を、「手のひらに刻みつけた」(49:16)ことを告げる。神がイニシアチブをとっている。神が、それを為す。神は私を忘れない。だからこそ、イエスのことを「汚れた霊」によるなどと口走った者について、「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠の罪に定められる」とまで強く言うのだ。
 
たとえ神を悪し様に非難したとしても、まだ悔い改めの余地はある。神に向き、神とのなんらかの関係がそこにあるのであれば、回復の可能性があるからだ。しかし、神との関係を断ってしまうようなことをすれば、これは修復の道を閉ざすことになる。自分が変わることをも一切拒むことになるのである。そこに「本当の自分」へ至る道があったとしても、神との関係、即ち聖霊の働きを一切認めないのであれば、神に立ち帰ることさえできなくなるのである。
 
私たちは、イエスが世から見ればcrazyであったように、神に刃向かうようなcrazyであっても、まだよいらしい。自分が如何にcrazyであったか、に気づく可能性があるのであれば、私たちは救いへと導かれる道を遺している。そして一度その輝かしい幸いの光を受ければ、今度は世から見ればcrazyとしか思えないような、イエスに従う者と変えられてゆくことであろう。
 
説教者は、先週に続いて、教皇フランシスコの言葉を紹介して説教を結んだ。死の前日に代読という形ではあるが、信徒へ、そして世界へ送られたメッセージである。説教者が引用したそのままではないが、その辺りの教皇のメッセージを以下ここに掲げ、私のレスポンスも結ぶことにしよう。これは、世から見れば、正にcrazyな言葉であるに違いない。
 
 
偉大な神学者アンリ・ド・リュバックが述べたように。「このことを理解すれば十分である。キリスト教とはキリストである。そうだ。これ以外のことはない。わたしたちはキリストのうちにすべてを所有している」。
 
この「すべて」、すなわち、復活したキリストが、わたしたちの人生を希望へと開きます。キリストは生きておられます。キリストは今日も、わたしたちの人生を新たにしようと望んでおられます。罪と死に打ち勝ったこの方に、こういおうではありませんか。

「主よ。この復活祭にあたり、わたしたちはこの恵みを願います。わたしたちをも新たにしてください。この永遠の新しさを生きることができるように。ああ神よ。習慣と疲れと幻滅の塵をわたしたちから取り去ってください。毎朝、今朝の光の、独自で他の日々とは違う新しい色を、驚きの目をもって見るために目覚める喜びをお与えください。〔……〕主よ。すべてのものは新しいのです。そして、同じものは一つとしてありません。古いものは一つとしてありません」



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