【メッセージ】アドリブ

2025年5月4日

(ルカ13:1-5, 列王記下5:9-10)

決してそうではない。あなたがたに言う。あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。(ルカ13:5)
 
◆罪か罰か
 
ちょうどその時、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことを、イエスに告げる者たちがあった。(ルカ13:1)
 
いきなり、物騒な話です。なんとも苦々しい思いもします。ピラトが儀式で人間をいけにえに献げた、という意味ではないと思います。推測が混じりますが、ピラトがガリラヤ人、つまりユダヤ教の信徒を、理不尽に殺した、ということだと思われます。「いけにえ」という言葉が出てくることからすると、何か宗教に関する理由で、ユダヤ人を処刑したという可能性があります。信仰の故に、ローマ的には何かの罪状を突きつけて、死に至らしめた、というふうに考えると自然であるような気がします。ピラト側としては、それは正当な法的措置だったことになっているのでしょう。
 
これに対してイエスがコメントした中で、もう一つの事件について触れられます。
 
また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるほかのすべての人々とは違って、負い目のある者だったと思うのか。(ルカ13:4)
 
これは、塔が倒れたという事故による死亡事件であるように見受けられます。これは正にいまのニュースではなくて、イエスが、このピラトの事件へのコメントに絡めて、言及すべきだと思って持ち出した話です。多くの人にとり、それは周知の事故でした。
 
何故イエスがこれをいま連動させたか、というと、どちらも「不慮の死」あるいは「不条理な死」であるからではないでしょうか。片や事件、片や事故、という違いはありますが、本人も思いによらないであろうような、突然の出来事です。
 
これは、現代でも見聞きすることであり、非常に心が痛む出来事です。しかし時に、それを逆手に人の心を踏みにじる者たちもいます。「あんたの罪のせいだ」「先祖の祟りだ」、そう言って恐怖心を植え付け、壺やら石やらを法外な値段で買わせるのです。キリスト教を名乗る団体からも、震災の現場で、「神の罰だ」と突きつけた者たちがいたのだとか。これは宗教以前に、人間として精神が崩壊しているようにしか、私には見えません。
 
でもそれらは、人間の心理の中に、どこかそういうものが巣くっているからこそ、零れるものかもしれないし、恐れるものかもしれません。悪いことが起こったのは、罪の故なのか、神の罰なのか。聖書の世界でもあった問題ですが、現代でも、まだ残っているように思われます。
 
イエスのここでの教えは、私には、ほかのたとえや教えとは、ひと味違う特徴を有しているような気がしてなりません。この箇所だけ、ということではないにしても、やはりここには特徴的な現象があったと感じるのです。それを分かち合うてめに、今日は、このイエスが語った場面に、共にトリップして、この言葉を受け取ろうと思います。
 
◆その時
 
イエスがこの言葉を告げたのは、どういう情況だったのでしょうか。もしこの場面を映画に撮るとしたら、どういう設定、どういう背景にするとよいのでしょうか。
 
イエスはその前に、ファリサイ派の人々や律法の専門家を、徹底的に批判しています。そのため、彼らは、イエスの「言葉じりを捕らえようと狙っていた」(11:54)のでした。これに続いて、やや不自然な描写があります。
 
とかくするうちに、数万人もの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスは、まず弟子たちに話し始められた。(12:1)
 
今度はファリサイ派に向けてではなく、弟子たちに向けて話を始めます。ここから、教えがたくさん掲載されることになります。そこでは、「たとえ」が用いられます。鳥や花を思い描かせました。ペトロの疑問にも応えました。こうしたことは、たいてい弟子たちに向けて語られましたが、その後「群衆にも言われた」(12:54)といいます。時を見定めよ、と教えたのでした。
 
ちょうどその時、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことを、イエスに告げる者たちがあった。(13:1)
 
そうです。「ちょうどその時」です。イエスが立て続けに、教えを語っていた、その時なのです。この言葉に、私はここを改めて読んで、少しばかりショックを受けました。今まで、気づかなかったことに、気づかされたのです。「ちょうどその時」に、ピラトがガリラヤ人を殺した、というニュースが飛び込んできた、ということが、ずん、と心に響いてきたのです。
 
ストーリーが展開している中でならともかく、ばらばらな逸話が集められているような箇所に過ぎません。イエスの話したことは、特に時間設定がなされた中で丁寧に配置されたというふうでなく、なんだかいろいろな教えが集められ、整理されたような感じがしませんか。その中で、わざわざ「ちょうどその時」と書かれてあるのです。何故、ルカはこんな書き方をしたのでしょうか。
 
たとえ、イエスの教えが編集され並べられたのだとしても、「その時」という挟み込みには、意味があると私は感じたのです。ここまでイエスは、自分が準備した「教え」を話していました。ペトロが「主よ、このたとえは私たちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」(12:41)と質問したことへの回答は、確かにイエス自らが用意したものではありませんでしたが、先生の側としては、生徒がこの程度の質問をしたとしても、当然答える内容を準備しているはずですし、自分がいままで話していた「たとえ」の意図は、先生ならば簡単に説明できるはずのことでしょう。
 
しかし、「ちょうどその時、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことを、イエスに告げる者たちがあった」というのは、イエスのそれまでの話とは全く無関係に、新たな情報が飛び込んできたことを意味します。プログラム通りに進行していたニュース番組に、突如「臨時ニュース」が飛び込んできたようなものです。キャスターが全く打ち合わせもしていなかったニュースが入り、その原稿を読み、コメントしなければならないという、緊張した場面が始まったのです。
 
イエスは、予測していなかったニュースを突然聞いた。これが「その時」という言葉の意味していることです。準備できるはずのない事態に遭遇したのです。
 
◆出すべきコメントは
 
飛び込んだニュースは、「ピラトが、ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」という知らせでした。この怪しげな表現が、文字通りのものではないことについては、冒頭でお話ししました。問題は、これがイエスにとって、用意していた事態ではなかった、ということです。
 
咄嗟にコメントを出すだけのことなら、イエスにはできたでしょう。しかしここでは、言葉尻を狙っている者たちの目と耳があります。迂闊なことを口にするわけにはゆきません。ここにピラトとユダヤ人との対立があるとき、そのどちらに味方をするのか、様子を見ていた者がいたら、ここはぴくりと反応したのではないでしょうか。
 
これでピラトはけしからん、と言い切ったらどうでしょう。あいつはローマ帝国に反逆した、と訴える口実を与えてしまいます。他方、それは仕方がない、ユダヤ人が悪かったのだ、と言ってしまえばどうでしょう。メシアだと見なされるような者が、イスラエル側の味方をしなかった、ということになります。そんなメシアは偽物だ、と訴えるには十分です。いったいどちらの反応をするのか、イエスの命を狙う当局側は、イエスの次の一言を緊張して聞こうとしていたはずなのです。
 
そこでイエスがどう反応したか。聖書は記します。
 
2:イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのすべてのガリラヤ人とは違って、罪人だったからだと思うのか。
 
まず、ガリラヤ人たちが殺されたのは「災難」だった、としています。神の罰ではないのです。罪の故ではないのです。また、ピラトが加害者であり悪者である、とは言っていません。ローマ帝国を悪辣に非難したわけではないのです。当局側が狙っているような罠をすり抜けるような視点だと言えないでしょうか。
 
現実にこの事件がどのようであったか、それをルカは記録しようとはしていないことにも注目すべきです。つまり、この事件の謎を明らかにすることが目的ではなかったのです。イエスが窮地にいたこと、そしてイエスの咄嗟の反応が優れた知恵であったこと、こうした場面を伝えるのが、ルカの使命だったと思うのです。
 
それどころか、ルカお得意の救いの教義へと話をまとめます。ルカ伝においては、それがイスラエルの律法中心というよりも、異邦人の救いを視野に置いていることは、よく指摘される通りです。律法の制約だけでなく、もっと普遍的に、ユダヤ文化の中にないような人々にも、神の救いが及ぶような道を提示しようとします。それは、まず神がいるということ、人には罪があると言うこと、それから悔い改めることにより、人は救われるということ、この道筋です。罪と悔い改め、この点の強調が著しいのが、ルカ伝からはよく伝わってくるように思います。
 
その災難は、罪に基づくものではない。
 
3:決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。
 
一見、冷たい措置のように見えるような気もします。ガリラヤ人たちは、滅んだのでしょうか。ピラトによって、滅ぼされたのでしょうか。そんなことはありません。ピラトとガリラヤ人たちの事件については、もうひとつの判断が終わったのです。イエスの咄嗟の反応は、今度は聞いている者たちへと向けられていたのです
 
誰が聞いていたのでしょうか。「数万人もの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスは、まず弟子たちに話し始められた」(12:1)というところから場面が続いており、実はすぐさま「友人であるあなたがた」(12:4)に向けて語っていることになっています。イエスは、イエスの言葉を教えとして聞く者たちへ、このメッセージを突きつけているのです。だからここでのイエスの咄嗟の反応もまた、結局は「悔い改め」に向かうのでした。
 
いまの言葉で言うならば、人は悔い改めなければ滅びる、と言っていることになります。
 
いずれにしても、今日的な観点から、まるで推理ドラマでも見ているかのように、あの事件の真相はどうだ、と読み解こうとする読み方は、適切ではありません。イエスにしても、ピラトがどのようにガリラヤ人を殺したのか、そのとき情報をもっていませんでした。もしかするとガセネタかもしれない危険性のある噂に、安易に乗ることはしませんでした。
 
現在、SNSで、ちょっとした噂を知った者が、たちまち正義の味方となって、個人を悪辣に非難することで、いわゆる「炎上」が簡単に起こります。人間は、噂話を直ちに信用して、自分が正義の使者となり、悪を滅ぼすのは当然だ、と言葉の暴力を平気でぶつけるのです。このイエスの態度から、わずかでも学んだらよいと思います。
 
イエスは、その事件に深入りすることなく、また即断することなく、弟子たちに「悔い改め」の必要を「教え」たのです。
 
◆理由付けで安心するのでなく
 
イエスにとり、この事件は、「悔い改め」なくば「滅びる」ことを教えるのに、恰好の機会となりました。事件の概要もよく分からないままであるから、殺された者は神の前で滅んだのだ、などというように言いたいわけではありません。その人たちに罪があったから殺された、などと決めつけるつもりもありません。
 
私たちは、自分の中で謎が謎のままであるとき、落ち着きません。自分なりに理由をつけて、安心したい場合があります。子どもが泣くと、「眠いんだね」と親は理由付けをして、安心したくなります。これを子どもの側は嫌がっていた、と後で聞かされました。確かにその通りなのだろうと思います。私たちは、聖書の中でも、分かりやすい理由を以て、謎めいた話を理解したつもりになりたいことがあります。
 
いま深入りはしませんが、ヨハネ伝9章で、盲人を見た弟子たちがイエスに、「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」(9:2)と尋ねたのなど、正にその実例だろうと思います。しかしこのときもイエスは、そのような納得しやすい理由を認めようとはしませんでした。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(9:3)と言ってのけたのでした。
 
もちろん、よくも分からない情報の中で、事件の犯人をピラトと決めて安心するようなことにも、イエスは賛同できませんでした。弟子たちに、そして群衆に、「悔い改め」の必要なことを教えたいのです。それで、もう一つの別の例を結びつけて、畳みかけようとするのでした。
 
確かにここまでは、イエスのアドリブとして、流石というところでした。罠を逃れ、しかも救いの中心の教えを施します。突然舞い込んだ情報に、適切に対処したのも素晴らしい。そして普通ならば、これで逸話は完結してよいのですが、ここでイエスは、さも準備していたかのように、同じ筋道の例話をここにリンクさせます。
 
私はここが凄いと思うのです。突然のアクシデントに対応しただけでなく、そのアクシデントからの教えに相応しい別の例を、すぐさま用意してつなぐというのは、なんと優れた教え方であろう、と思うのです。
 
けれども、実は教育現場のはしくれにいる私には、これが分からないでもありません。生徒から突然質問がきます。予想もしていなかった質問がくることがあります。それに対して、すぐさま応えるのが仕事です。しかも応えただけではなく、同じような例をもうひとつどこからか持ち出すということがあります。そちらのことは、自分の中のストックに一応あるわけですが、そのことと、いまのアドリブとが結びついたとき、引き出しの中からそのストックを取り出してつなぎ、説明を加えるのです。
 
◆神との関係の中で
 
4:また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるほかのすべての人々とは違って、負い目のある者だったと思うのか。 5:決してそうではない。あなたがたに言う。あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。
 
イエスがストックしていた戒めは、シロアムの塔に関する実例でした。「シロアムの池」という存在については、ヨハネ伝9章に、生まれつきの盲人が、そこで目を洗えば見えるようになる、という出来事のときに明らかにされています。先ほどの「生まれつき目が見えない」人の場面です。
 
そこに塔があり、何らかの施設なのか、見張りの場なのか、役割があったと思われます。私たちにはよく分かりません。ただ、それが倒れるという事故があったという事件を、イエスも、人々も、よく知っていた。この事故で、18人が犠牲になったのだというのです。「負い目」は、「罪」の言い換えだと思われますから、これも要するに、事故死した人はその罪の故なのか、という問題意識を表しています。
 
現代でも、このような発想が出てくるため、人間の発想としては普遍的なのかもしれません。東日本大震災のときに、罪を悔い改めなかったための神罰だ、などと言った宗教団体があったことについては、先に触れました。このように報じられなくても、講壇から説教で、そのような考え方を話した人は、決して少なくなかったのではないか、と私は予想しています。当時の石原東京都知事もまた、地震の直後に、「天罰」という見解を口にして、「我欲を落とせ」というような政治的発言をしていました。さすがに公人の発言は批判を受けましたが、多くの人の心に浮かぶ発想だったからこそ、こうして現れたのだろうという気がします。
 
しかし、キリストにある者は、このような考え方を徹底的に排除することでしょう。イエスの「決してそうではない」を、心底踏みしめて、噛みしめていることだろうと思います。私たちに必要なことは、他人事として眺め、自分が安心することではありません。「今の時を見定める」(12:56)ことが求められるのです。今の時とは何か。神の時です。神の時を覚え、自分自身が神の前にどうであるか、を見つめなければなりません。
 
ピラトの事件は実際どうなのか明らかではなかったにせよ、少なくとも皆がすでに知っている「シロアムの塔事故」については、自分自身と神との関係についてに目を向けるのでなければなりません。悔い改めるべき罪人としての己れを知る必要があります。自分の行いと眼差しを、神の方に向けなければなりません。
 
不幸な事件や事故を、どこか高みから見渡して批評するようなことではなく、いまここに生きている私たち自身が、神との関係においてどうなのか、見つめるのです。省みるのです。さあ、私たちはイエスの何を聞き、私たちはイエスの何を語るのか。
 
他人事として、世間の出来事を眺めることは、人間の得意とするところです。特にいまの時代は、それに対する批評を、ごくごく気軽に匿名で、全世界に公表することができます。同じような他人事扱いのできる多数の仲間と共に、特定の痛みをもつ人物を集中攻撃することも、簡単にできます。
 
キリスト者は、断じてそのようなことをしないはずです。問題は自身にあります。むしろ、このイエスの言葉を聞き入れて、ここから神の恵みを証しすべく、語らなければなりません。そのとき、イエスを指し示すのです。ここに救いがある、ここに愛がある、と指さすのです。
 
そのとき、世の人々に対する気遣いは、どうしても必要です。舌は火のように他人を攻撃しますから、災難に遭った人や、苦難を受けている人の傷口に塩を塗るようなことをしてはなりません。しかし、伝えなければならないことはあります。福音の本筋はあります。「悔い改め」を訴えます。「悔い改め」は、反省することではありません。神の方へと向くことです。神と向き合い、神と自分との関係を確かなものにすることです。
 
たとえどんな臨時情報が飛び込んできても、私たちは怯みません。十字架のイエスを見上げて、そこから言葉を受けます。聖霊が、言葉をもたらしてくれることを、信じているからです。
 
◆エリシャの例
 
臨時情報に対応する、というのは、イエスの専売特許ではありません。旧約聖書の預言者が、時折試されている情況であろうと思われます。もちろん預言者の中には、ただひたすらイスラエルの罪を指摘したり、神の裁きがこのようになされると告げたりするばかりという人もいます。けれども、預言者の人生を辿る記録や、その活動を物語のように記していったものもあります。いま、その中のひとつの例として、預言者エリシャのしたことの、ほんの一欠片を見ておこうと思います。
 
エリシャは、大預言者エリヤの後継者です。そのエリヤもまた、その活動が物語として記録されている預言者でした。紀元前9世紀頃だろうと想定されています。場所は北イスラエル王国。エルサレム神殿からは切り離されましたが、預言者の系譜としては、イスラエルの神、主の声を聞く預言者として立てられたのでした。
 
アラムの王とイスラエル王国とは、つながりはありましたが、概して敵対関係にありました。そのアラムの将軍ナアマンは、皮膚を中心とする重病に罹患しました。捕虜にしていたイスラエルの少女から、イスラエルの預言者エリシャはその病を癒やすことができるという話を聞き、ナアマンはエリシャを訪ねます。
 
ナアマンは馬と戦車でやって来て、エリシャの家の戸口に現れた。エリシャは、使いの者をやって、「ヨルダン川に行って、七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなるでしょう」と言わせた。(列王記下5:9-10)
 
エリシャは殆ど超能力者です。ナアマンはまだエリシャと対面していないし、病状を話してもいません。それなのに、顔も見せず、ただ「ヨルダン川に行って、七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなるでしょう」とのみ言い渡します。すべてを知り尽くした言い方です。
 
これを聞いて、ナアマンは怒ります。「私は、彼が自ら出て来て私の前に現れ、彼の神、主の名を呼んで、患部に手をかざし、病を癒やすものとばかり思っていたのだ」(5:11)などと言いますか、家臣たちはナアマンを宥め、ナアマンはヨルダン川に向かいます。そして七度身を浸したところ、たちまち肌がすべすべになりました。
 
ナアマンは、預言者に愛想なくされたことに怒りましたが、このとき気づくべきでした。エリシャが、何も聞かないうちから、ナアマンの情況をすべて見抜いていたということに。それほどの能力をもつ預言者ですから、その言葉に従えばよい、という発想を抱くべきだったのです。が、果たして私たちがその場に置かれたらどうだったか。ナアマン以上に、ふがいない行動をとったかもしれません。
 
それはともかく、エリシャとしては、ナアマンの訪問に対して、話を受けてどうのこうの、というわけではなく、素早く癒やしの対応をしました。
 
このエリシャは、預言者の中ではとびきりのスーパーマンぶりを発揮します。あの大預言者エリヤですら、時折弱さを見せます。しかしエリシャは、最初から最後まで、殆ど人間らしいところを見せません。そのため私は、イエスの地上での旅の中に、エリシャの影を見るということができる場合があるような気もします。その堂々とした言葉と、驚くほどの奇蹟の連続の中に、イエスのしたことの理解を感じることができるかもしれない、と思うのです。
 
列王記下に、エリシャの話が続いています。少し浸ってみませんか。
 
◆聖霊に委ねて
 
用意していた原稿ではなく、臨時情報に対応する。イエスはそこからも、自由に福音を語っていた、という様子を垣間見ました。用意していた言葉ではなく、アドリブで対応するということについては、思い起こすべき言葉があります。
 
会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がその時に教えてくださる。(ルカ12:11-12)
 
必要なことは、いつでも聖霊が語るべく教えてくれる。イエスはそのことを、イエスに従う弟子たちに向けて語りました。尤もなことです。これはいわば、キリスト者に対して相応しいアドバイスです。
 
ただ、その周りには夥しい群衆がいました。しかも「数万人もの群衆」(12:1)と書かれています。イエスは本当に、弟子たちのためだけにこれを口にしたのでしょうか。視線は弟子たちに向いていても、何万と取り巻く群衆に聞こえるように話していたのではないでしょうか。イエスの教えは、信徒にだけ特殊に囁くようなものではないだろうと思います。
 
イエスの教えは、世の人々に向けても告げられている。この当たり前のことを受け止めます。それでいて、イエスは弟子たちに向けて語ったことも考慮します。キリスト者は、その言葉を真正面から受けているのです。受け流すことができないほどに、しっかりと注がれているのです。
 
世の中、何が起こるか分かりません。私たちはいつでも、事態にアドリブで応えるのです。それは聖霊があればできるのです。だから、いつも目を覚ましていなさい、と言われます。だから、いつも祈りなさい、と言われます。「いつも」というのは、どの瞬間にも、神の方を向いて、神との関係の中にある、ということです。神の方を向いていれば、そこにはいつもイエス・キリストがいます。復活のキリストが、共にいます。
 
自分の知恵に頼る必要はありません。自分独特の策を練る必要もありません。人間から出てくる知恵を頼らなくてよいのです
 
確かに「アドリブ」とは、「思うままに」とか「気の向くままに」とかいう意味で説明されることもある言葉です。演劇や演奏で用いられることの多い演じ方です。だから「自由に」という感覚で受け止めても差し支えないはずの方法です。けれども、それは流されるまま、という意味ではありません。聖霊の自由な導きに委ねることです。私たちは、自分でシナリオを用意しなくてよいのです。聖霊の導きに魂を委ねて、祈りましょう。



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