他が間違っている

2025年5月2日

一つの例のように言うだけなので、自分はそうではない、と思う人がいても、それでよいと思う。一つの物語として見てくださればよい。
 
それは、若者の離職についてのひとつのケースである。就職活動を周りと同じようにして、有名な企業に入社した。ところが、割り当てられた部署が希望と異なる。自分はこんなことをするために会社に入ったのではない。クリエイティヴな商品開発がしたかったんだ。面接のときにも、それは伝えたじゃないか。それが営業だなんて。人と話すのは得意じゃないし、自分は営業になんか、向いていないと思う。それは自分が一番よく分かっている。だのに、なんで営業なんだ。
 
そんな思いがますます憂鬱にさせ、仕事が面白くない。やる気も起こらないし、うまくゆかない。だから言わんこっちゃない。自分は適材適所に置かれておらず、会社はひとを見る目がない。これはいじめである。ブラックである。そうだ、もっと自分をちゃんと見てくれて理解してくれる会社が他にあるはずだ。こんなところでくすぶっていないで、この会社に見切りをつけよう。そして、ほんとうに自分がしたい仕事ができる環境を探そう……。
 
おまえはなんでもできる。したいことをすればいい。その邪魔をするものがあったら、お母さんが出て行きますからね――と、本当に出て行くかどうかは別として、このお母さんもまた、その子が会社を辞めることについては、恐らく何の反対もしないだろう。それは会社が悪い、と声を重ねることになると思う。
 
思う通りにならないのは、相手が悪い。世の中が間違っている。おまえは正しい。子どもが、そのように育てられてきたという事例は、ありえないことではない。少子化も手伝うかもしれないが、大切にされ、王様か王子様・お姫様扱いされてきた人生しかないならば、自分の意志が通らないとき、世の中が悪いという結論にしかならないだろう。
 
もちろん、自己肯定感がない、ということを良しとしたいわけではない。だが、自己肯定感しかない、というのも問題であるだろう。
 
先ほどの物語でいえば、会社は実はこの若者を買っていた、というケースが考えられる。クリエイティヴな商品開発が夢であるならば、まずは外回りをして、世の中で何が求められているかを肌で感じることを経験させたい、と計画したのである。何をクリエイトすればよいのか、それは自分の創りたいものを創ればよい、というものではない。世の中に受け容れられるものを感じる必要があるだろう。また販売現場で感じられる空気を吸うことなく、売れる商品は創れまい。
 
それを知ろうとせずに会社を辞めたこの若者だったが、会社は残念に思うことだろう。あるいは、そのことが分からないままに開発を始めたとしても、自分本意でしか仕事をしないであろうという未来があったとすれば、会社にとっては、トラブルを先送りせずに、切ってむしろよかった、と言えるのかもしれない。
 
物語は以上である。自分はこれだ、と硬直させた見解の中にあることも問題だし、逆に自分探しをするために、地に足をつけた歩みを放棄するのも問題だ。何にでも妥協せよ、と言いたい野ではないし、なにより私自身が頑固な人間である。ひとつ間違えば、この若者のような考え方でいたかもしれない、とも思う。
 
会社にもいろいろある。こきつかい捨てるためだけ、会社の利益のためだけに人材を利用することしか興味がない、という経営サイドも、現実には存在するだろう。他方、その人の自己実現と会社の益とを重ねて考えてくれる会社も、ないわけではない。私は、入ったばかりの会社に辞表を出した。だが、引き留められた。私は給与が下がったが、日曜日を基本的に休みにすることになった。互いに益に結びついたことになる。それ以上詳しくは述べられないが、結果的に良かったと考えている。
 
逆に、雇う側からして、人材が不足している中で、もうこうなったらどんな人材でも、飾りでも何でもいいから、誰か来てほしい、という場合もあるだろう。いまや、教会というところが一般にそうなっている。誰でもいいのだ。牧師という飾りがあればいい。神学校と名の付くところを出ていれば、たとえ救いの経験がなくても、召命の証しが成立しなくても、聖書の勉強を少しばかりして、毎週聖書講演会にもならないようなお話を形だけしてくれれば、雇おうとするところが、現にある。どうせ信徒も、説教をまともに聞いてなどいないし、礼拝説教について反応するようなこともない。寝ているか、ほかのことを考えているかして、説教の時間を過ごしている。そのお勤めさえ済めば、あとは仲良し倶楽部の集いで趣味の話や活動をすれば結構楽しいのである。
 
中には、信仰がきちんとした信徒もいることだろう。だが、こんな日常に慣れてゆくと、だんだんそれに流されてゆくのだろうか。魂ある人が、どうして気がつかないのか、不思議でならないが、そこに悪魔の罠というものがあるのかもしれない。カルト宗教と呼ばれるところの信徒も、だんだん自分たちこそまともだと信じるようになり、他のすべてが間違っているという信念になってゆくようだから、気づかないというのは、そういうことなのだろう、とも思う。
 
しかしキリスト教信仰というのは、逆説的かもしれないが、自分が間違っている、というところからしかスタートしないものなのだ。



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