(出エジプト12:21-27, ヨハネの黙示録12:7-12)
主は、エジプト人を打つために行き巡るとき、入り口の鴨居と二本の柱の上にある血を目にされると、その出入り口を過ぎ越され、滅ぼす者があなたがたの家に入って、打つことがないようにされる。(出エジプト12:23)
◆イエスの血
イエスに親しい者のうち、十字架刑を見守っていたのは、殆どが女たちでありました。このことは、福音書を見る限り事実だと思います。ふだんから女たちが、イエスの生活を支えていたであろうことにも、私たちは気づきたいものです。イエスとその弟子たちの旅の記録は、その教えと癒やし、あるいは権力のある指導者たちとの争いばかりであり、生活観が少しもない記述に明け暮れています。でも、衣食住という基本レベルに目を移すと、女たちの存在が浮かび上がってくるのではないでしょうか。。
そういえば、イエスの容貌や立ち姿すら、全く想像ができないほどに、聖書文化はそうした情報を開示しません。そのためか、西洋文化で伝えられたイエスの姿は、白人のイケメンと相場が決まっていました。ようやく近年になって、現実はどうだろうか、という話が始まっているところです。
いまという時代は、「男性-女性」という枠で捉えることさえ、気を使う時代です。これから述べることについては、どうかおおらかに聞いてくだされば幸いです。たとえば、「女性は、血を見ることそのものにひどく驚くことはない傾向にある」ということです。男の私はダメです。男だから、なのかどうかは別として、女性は、日常的に、血液を見る機会がある、ということには嘘はないと思っています。
クリスチャンがよく、「イエスの血潮」という言い回しをします。考えてみれば、かなり刺激的な言葉です。血がだらだらと流れ出ている様子が想像されます。しかし直接、その言葉は聖書には見当たりません。「イエスの血」という表現すら、次の二つが見出されるくらいです(「御子の血」という表現は新共同訳聖書の使徒20:28にあるが、聖書協会共同訳では「ご自身(=神)の血」と替えている)。
それで、きょうだいたち、私たちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。(ヘブライ10:19)
しかし、神が光の中におられるように、私たちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。(ヨハネ一1:7)
こうなると、果たして「イエスの血潮」と軽く口にしてよいものかどうか、迷わなければならなくなります。しかし、イエスが十字架に架かって死に、血を流したことについては、新約聖書の記述に間違いはないと言えるでしょう。死んだイエスを、神が蘇らせたことが、その先に続きます。これがキリスト教のエッセンスです。この春の一か月ほどで、私たちはそれを追いかけてきたことになります。
イエスの死は、過越祭の動物のいけにえのように見えました。動物のいけにえはひとの罪を赦すためのものであったのと同様に、イエスの死もまた、ひとの罪を赦すためのものと信じられるようになりました。しかも、その赦しは完全なものです。元来のいけにえは、毎年、あるいは機会がある毎に献げなければなりませんでしたが、イエスは、ただ一度献げられたことで、赦しを全うしたことになります。完全な赦し、完全な救いでした。
イスラエルの過越祭は、いまも続けられています。私にはそれに参加した経験はありませんが、いま口にした程度の理解で、過越祭とイエスとの関係を分かったような顔をして通り過ぎるのは、もったいないような気がします。過越祭について、私も少し学びます。それから、「イエスの血」について、何かを新たに感じるひとときとしたいと願います。そのために、おもに出エジプト記の中から、過越について耳と心を傾けてゆきたいと思います。なにしろ、過越祭の発祥の書なのですから。
◆過越祭の規定
過越祭そのものについては、優れた本が多く出ています。素人の私が、不確かなことを知識だけで述べても、説得力がないばかりか、誤りを含んでいると見たほうが賢明です。ある程度よく言われていることで、今日の話に役立つ限りにおいて、少しばかり触れてみる程度に致します。あまり疑問が広がりすぎないように、言葉を曖昧にするところがあることを、ご了承ください。
日本でも、春から新年度と数えます。ローマ帝国でも、春が一年の始まりとされていました。それはユダヤでも同じで、この春の過越祭が、一年の初めの月に開かれることとなっていました。あるいは、出エジプトという民族のアイデンティティの出来事があったからこそ、一年の初めとしたのでしょうか。
そのちょうど満月の頃でしょうか、イスラエル人たちが、奴隷として苦役を舐めていたエジプトの国を出た事件、いわゆる「出エジプト」、英語で「エクソダス」という脱出の出来事がありました。これが民族の原点と見られたことから、大きな祭りとして残ったことになります。
過越祭そのものは、1日の食事が華となります。いけにえの小羊か山羊かが、数日前に選び分けられる準備があるくらいです。しかし同時に、この過越の食事に続いて、1週間の「除酵祭」と呼ばれる祭りがあります。「種を入れないパン菓子」を食すのです。これは、出エジプトの出来事のときに、民はゆっくりとパンを焼く時間がなく、発酵をさせないままでパンを焼いたからだ、ということになっています。
あのときの出来事を決して忘れないように、ユダヤ人は今日も、この精神に則って、二つの祭りを祝うのです。比較するのはおかしいかもしれませんが、日本の天皇が行う新嘗祭も、旧い元来のしきたりをいまに続けているわけですから、このように記念するということは、ある意味で自然なことなのかもしれません。
発酵させないということは、パン種を入れないで焼く、ということです。この「パン種」というものは、新約聖書でも重要なアイテムとなっています。イエスが言うのです。「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい」(マタイ16:11)と言うかと思うと、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に十分気をつけなさい」(マルコ8:15)とも言うし、遂には、「ファリサイ派の人々のパン種、すなわち、彼らの偽善に注意しなさい」(ルカ12:1)と、その意味も明らかにしています。
また、パウロも、次のように書いています。
新しい生地のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、私たちの過越の小羊として屠られたからです。だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない純粋で真実なパンで祭りを祝おうではありませんか。(コリント一5:7-8)
「パン種」を、よい意味で使う例もあるにはあるのですが、概してこのようにして、「パン種」はよくないものの象徴として挙げられます。ここにも、出エジプトの出来事の重要さがよく現れているように思います。新約聖書もまた、パン種のないパンを食べるべきだ、とするのです。そしてそれは、イエスを食べること、あるいは聖餐式の教えへとつながることにもなるでしょう。
◆モーセまでの歴史
さて、ここで一度時代を遥か昔に戻して、モーセ以前のイスラエルの歴史を概観しましょう。過越祭をもたらしたのは、モーセです。その背景に、どういう歴史があったのか、改めて思い起こすことにします。もちろん、簡潔にです。
それは、イスラエル民族がどうしてエジプトにいたのか、というところから始まる物語です。アブラハム・イサク・ヤコブと、信仰者の家系があって、イスラエル民族の事実上の父祖だと見なされています。そのヤコブの時代のことですが、カナンの地に飢饉があり、エジプトに逃れることになるのでした。
ヤコブは、神から「イスラエル」という名をもらった人です。預言書の中で「ヤコブよ」と神が呼びかける時、それは「イスラエルよ」ということです。イスラエル民族の名は、ヤコブに始まりました。
ヤコブにはたくさんの子が与えられました。末に近い子のヨセフは、夢を解く知恵をもっていましたが、ずけずけと家族にものを言うので、兄たちからは憎まれていました。兄たちはヨセフを遠い地で棄てるようなことをし、以後行方不明になります。父ヤコブは、ヨセフが死んだとの話に嘆き悲しみます。
しかし、ヨセフはエジプトに連れて行かれ、そこで劇的な人生を送ります。その夢解きの才能でエジプトを飢饉から救い、王に次ぐ第二の地位を得ます。他方、父ヤコブたちにはその飢饉は致命的でした。エジプトに食糧があるというので兄たちを遣わすとヨセフと対面することになりました。ヨセフには兄たちと分かるものの、兄たちにはそれがヨセフだとは分からず、スリリングな応答が繰り返されます。
ついにヨセフは身を明かし、父ヤコブをもエジプトに呼ぶこととなりました。そうしてイスラエル民族はエジプトで人口を増やします。四百年ほどの時を経ると、もはやエジプト王にとって、この民族は邪魔でした。この辺り、移民問題に通ずるものがあると思われますから、現代でも考察すべきヒントがあるかもしれません。
王はイスラエル人を奴隷として働かせていましたが、ついに人口抑制策に出ます。産まれた男児を殺せ、と命ずるのです。そのとき産まれたモーセは、幸運にも助けられ、王家の養子のようにして大切に育てられます。いろいろありましたが、モーセはやがて神の声を聴き、イスラエル民族をエジプトから脱出して故郷に帰るためのリーダーとなるのでした。
◆出エジプト
エジプト王は、せっかくの奴隷を簡単に手放すつもりはありません。モーセといろいろやり合った末、遂に民はエジプトを脱出する夜を迎えます。このことを記念する祭りが、過越祭でした。
モーセは、イスラエルの長老たちを呼び集めて命じます。このような準備をせよ、と。この過越の規定は、民の命に関わることでした。神はエジプトに、甚大な災いをもたらし、その混乱の中で民が脱出するように仕向けたのです。しかし、その災いが肝腎のイスラエルの民に及ぶようなことがあってはなりません。イスラエル人の家には目印が必要です。その目印があれば、神はそこに災いは下さないというのです。
全能の神が、そのような目印なしにイスラエル人を区別することができないのか、ちょっと疑問ですが、それは人としての心構えのようなものであるのかもしれません。
まず、羊を選んで屠ります。旧約の律法に生まれるいけにえの走りとなります。このことを、後に新約の徒は、キリストの十字架の死に重ねて理解しました。キリストの血を受けた者は、救われるのだ、としたのです。
「エジプト」というのは、いまも同じ名前で存立する国家ですから、いつもながら「エジプト」という呼び名を敵の名として繰り返すのは、申し訳なく思いますが、決していまの国のことではないので、歴史上の古の名だとして、使うことをお許しください。
主なる神は「エジプト人を打つために行き巡る」のですが、「入り口の鴨居と二本の柱の上にある血」があれば、その出入り口を過ぎ越して、「滅ぼす者」がその家の中に入らない、とするのです。
これは、子孫もまたとこしえに守る掟であるといいます。それは何故か、と子どもたちがその意味を問うときには、それが救いの証しであることを教え、さらに子孫へと伝えてゆくようにしなければなりません。イスラエルの人々は、素直にこれに従った旨が、ここに記録されています。
◆その血の色は
ところで、私たちはいま言葉によってこの記事を聞いています。そしてなるほどと分かったように肯き、おとなしく受け止めていることと思います。ただし、これを映画にでもしようと思い立つことがなければ、たぶんこの情景を十分ビジュアルに思い描くようなことはないだろうと思います。「鴨居と日本の柱」が血に塗られている画を、どう表現しましょうか。「鴨居」とはまた和風な言葉ですが、まあ分かったことにしておきましょう。それよりも問題は、そこに塗られた「血」です。
塗られた「血」は、どんな色をしていたのでしょう。
それは、当地のいけにえを実際に知る人にとっては、常識なのかもしれません。でも私は知らないのです。鮮血のままの色を呈していたのでしょうか。それとも、どす黒い色に変わった形で塗られていることになるのでしょうか。インターネットで少々検索しても、誰も教えてくれません。
立てた「コ」の時の形に近い入口に、赤い色が目立つようになっている必要があります。まるで稲荷神社の鳥居のように、あちこちにそれが居並ぶのでしょうか。イスラエル人の居住区が、さながら千本鳥居のように朱く輝いている、というようなことはないかもしれませんが、さて、どんな色なのか、イメージしたいとは思っています。
因みに、「鴨居」も「鳥居」も、「鳥」を想定しているのは、日本人の感覚なのかどうか分かりませんが、興味深いと思います。
赤という色は、人を興奮させる色だともいいます。注意を喚起する色として、信号でも赤は停止、標識でも赤は禁止というように、私たちの生活にも馴染んでいます。その昔、ファストフード店内が真っ赤に塗られていたのは、客を落ち着かなくさせ、長居させず、客の回転率を上げるためだ、という噂が、まことしやかに語られたことがありました。いまもその噂は続いていますが、真偽の程を私は知りません。
◆小羊の血
しばし、「鬼滅の刃」というアニメがたいへん流行りました。先月から福岡市博物館で展覧会も開かれています。最初は深夜枠で放送されていたものですが、人気が出たのはしばらくしてからでした。私は最初、深夜にそれを観たことがあるのですが、殺し合うようなシーンがしばしばあり、残酷に感じました。私はそういうシーンが苦手なのです。
しかし「鬼滅の刃」は、「R指定」にはなっていませんでした。年齢による「禁止」を潜り抜け、保護者の助言・指導があれば12歳未満の子も見てよい「PG12」という扱いだったのです。何故だかは知りません。
私のように、血生臭い画を嫌う人は少なくないようです。私の息子もその一人で、アートに関わる仕事をしており、アニメもよく見ていますが、血の流れることの多いアニメは見ないと言います。私はストーリーには関心があるとき、画面を見ないで音だけ聞くようにしています。
最近では、「チ。 ―地球の運動について―」(現在再放送が始まっている)が、地動説を扱う興味深い内容なのですが、画面はしばしば見ていられないものでした。尤も、これは「血」を激しく描いているとは思えず、想像力で激しく怖がらせるものの、画面に残虐な場面を突きつけるタイプではなかったとは思います。この「チ。」というタイトルには、地動説に関わる「地」と、盲信に対する知性の「知」、そしてそのために流された「血」がかけられている、とも言われています。
かつてゴールデンタイムで子どもが楽しみにしていたアニメ番組も、いまは深夜枠に多く移っています。バイオレンスやエロスにまつわるタイプが増えてきているため、子どもの目に触れないように、という理由もあるのでしょう。しかし今日インターネット経由でアニメを視聴することが多くなっているため、オンデマンドで、子どもも平気で制限をかいくぐるのが普通になっているような気もします。
聖書にも、残酷なシーンはたくさんあります。神が「殺せ」と命じているときにも、激しく残酷に思えて仕方がないようなことがあります。私が最も酷に感じるものとして、旧約聖書続編に、七人の息子の虐殺を見定める母親についての有名な章があります(マカバイ二7章)。そこまでいかなくても、いけにえの動物の処理の仕方など、私は平静を保って読むことはできません。
しかし、さらに残酷なのが、ヨハネの黙示録だと思います。ぶどう酒の搾り桶から膨大な量の血が流れた、というところ(14:20)など、想像しただけで気持ちが悪くなります。但し、黙示録は単に幻を記しているので、言うなれば何でもアリであって、しかも現実の風景ではないので、リアリティなくフィクションのようにいくらでも残酷に描けたのかもしれません。
今日は、私の下手な解説めいたものを入れず、ただ朗読だけでひとつご紹介しましょう。それは、残酷さを示すためではありません。ここに出てくる「小羊の血」というものに、絶大な力をもっていたことを示したい箇所なのです。ヨハネの黙示録14章です。
7:さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその天使たちが竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちもこれに応戦したが、
8:勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。
9:この巨大な竜、いにしえの蛇、悪魔ともサタンとも呼ばれる者、全人類を惑わす者は、地上に投げ落とされた。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。
10:そして私は、天で大きな声がこう語るのを聞いた。/「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。/神のメシアの権威が現れた。/我々のきょうだいたちを告発する者/我々の神の前で昼も夜も彼らを告発する者が/投げ落とされたからである。
11:きょうだいたちは、小羊の血と/自分たちの証しの言葉とによって/この者に勝ち/死に至るまで命を惜しまなかった。
12:それゆえ、もろもろの天と/そこに住む者たちよ、喜べ。/地と海には災いあれ。/悪魔は怒りに燃えて/お前たちのところへ降って行った。/残された時が少ないのを知ったからである。」
教会につながる者は、「小羊の血」によって力を得ました。そのことを実体験するほどに信じている人々こそが、キリスト者だ、ということになります。
◆血のきよめ
「血」の色が具体的にどのような色であるのか、判断しないままに、ここまで来ました。私たちは漠然と、それを「赤」と呼んでいます。実際には鮮血もあれば、黒褐色になったものもありますが、色としては「赤」と呼んでおくことにします。
聖書を読んでいて、この「赤」が鮮明に脳裏に浮かび上がる箇所があります。血の赤さのことではありません。イスラエルの民が、いよいよ約束の地に入るときのことです。すでにモーセは世を去っていましたが、後継者ヨシュアがリードして、まずエリコを攻略します。偵察に行った二人のスパイが、住民の中に味方を探します。二人を匿ったラハブという遊女の一家には感謝し、イスラエルがエリコに侵攻したとき、おまえの一家は助けると約束します。
我々がこの地に攻め入るとき、この深紅のよりひもを、我々をつり降ろした窓に結び付けておきなさい。あなたの父、母、兄弟、家族全員を、あなたのいる家に集めておきなさい。(ヨシュア2:18)
「深紅のよりひも」が、一家を救います。私にはいま、その深紅の色が、血の色に見えて仕方がありません。この色が、救いの目印となったのです。
その色が、血で染めたわけではないでしょうが、それを目印として使った場面は、エリコの町の殺戮です。呼んでいて辛いものがあります。十戒のあの「殺すな」は何なのか、と私たちは問わねばなりません。
現代では、「死刑制度」も問われています。この半世紀、キリスト教文化の中にある諸国に始まり、死刑制度をなくす動きが加速しました。代表的なキリスト教国であるアメリカは、州毎に決めるために、半数ほどの州が廃止を決めています。
イエスが殺されたのは、死刑制度によってでした。つまり合法的に殺されたのでした。正義の名の下に、人を殺す制度が、イエスを殺したのです。これを専らユダヤ人のせいにしたその後の歴史を、私たちは省みる必要があるだろうと思います。
キリスト者は、「正義」から排除された敵たる犯罪人イエスを、神と仰いでいる者です。死刑執行により流された血を、命の源だと尊んでいます。そして、口ではいとも簡単に「血潮」などと呼んでいます。
その背後には、無数の動物たちが流した「血」があります。人間が、神の名の下に殺した動物たちです。罪を犯したわけではない動物たちを、「正義」の名の下に、限りなく殺してきたのです。そして私たちはまた、イエスの血によって、命を得ています。
数えきれぬ大群衆が、白い衣を着ていました。「この人たちは大きな苦難をくぐり抜け、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」(黙示録7:14)との説明がそこにありました。深紅の血によって洗った衣服は真っ白だ、と黙示録は告げていたのです。このパラドックスの中で、私たちは清められてゆきます。白は、罪のない潔白さを示していると思われるからです。
これを「潔(きよ)め」と呼ぶグループがあります。福音派のように呼ばれますが、他の一部の教派は、それを軽く嗤うように扱うことがあります。とても残念です。「小羊の血」がどんな色なのか、それは、信じるその人によって、見え方が違うのかもしれません。しかし、尊い血です。重い血です。私たちは、心してその血を思います。復活の前に、流されなければならなかった、深紅の血です。私たちが、私が、そしてあなたがもたらした、正にそのイエスの血なのです。