Xデーから一年

2025年4月26日

こんな呼び方をするのは失礼極まりないことかもしれない。ご自身も口にしておられた言葉だとして、尊敬と、質の悪いユーモアだとしてご理解くだされば幸いである。説教塾で、自分が亡くなる時が近いということで、今後どうするかなどを含め、話題になっている、という様子を、そのような呼び方で触れていたらしいのだ。
 
加藤常昭先生が召されてから一年の日である。
 
若い頃に余命わずかと宣告された経験があるとのことだが、齢95を迎えられた。私の母と同じ歳であった。その最後の説教を聴くことができたのは、私にとり恵みというか、かけがえのない喜びとなった。
 
キリスト者は、キリストにある、という言い方をする。そして、十字架に死に、三日目に蘇ったイエス・キリストが、信じる者に復活の希望を与えた、と考えている。そのため、キリスト者は、死を怖れることがない、などと見られることがある。
 
だが、そうだろうか。そんな単純なものではないと思う。加藤先生の説教の中からも、私はそんな割り切ったものは感じない。時に、聖書の言葉を自分に言い聞かせるように熱く語ることもあるし、どこか寂しいような、どこか臆病なような心が垣間見えるような気がしてならないのだ。そして、だからこそ、私の心にもそれが響いてくるのではないか、と思うのだ。
 
ちょうどいま読んでいる、小野村林蔵全集の中に、パウロが、死について不安をもっていた、と強調して述べているところがあった。だがそれは、悪く言うものではない。「真剣な魂のみが知っている恐怖」だというのだ。私にはそれが呑み込めるように思えた。
 
聖書に書いてあることをそのままに信じて在す、と言って、実にサバサバした顔で、まるで鸚鵡返しのように口にする人がいる。ある意味で羨ましい。だが、その剃刀のような鋭さは、本当にそうだろうか、というふうにも思わせるし、もし本当にそうなのであれば、むしろそれは信仰というものなのだろうか、と訝しく思う。
 
私自身が、不信仰だからそうなのだ、と言われるならば、その判断を否定はしない。しかし、聖書が「信じよ」と迫ることを繰り返す限り、人はそのような鋭さをもつはずがないのではないか、とも思うのだ。
 
イエスが「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と十字架の苦しみの中で叫んだという記事を、あげつらうように説明する人がいる。それは、その十字架を見ていた者たちが馬鹿にしたのと同様であると言えるだろう。だがまた、その叫びの故に、イエスは弱かったのであり、福音書の他の教えは脚色だ、などと解釈する人もいる。それが弱さと言えるのかどうかは知らないが、そういうところをもしもたなかったとしたら、むしろそんな冷たい神は、聖書が知らせる神とは全く違うのではないか、と私は感じる。
 
加藤常昭先生の著作や説教集は、これまでもだいぶ読ませて戴いた。発行されているものだけでも、全部読むのはたぶん無理だろうが、私に「説教とは何か」ということを教えてくれた方は、とても人間味のある、等身大の魅力のある方である。その聖楽などへの知識と趣味、それからなんといっても優れた語学力については、私は遠く及ばない雲の上の人であるのだが、間接的な形ででも出会えたことは、私にとり実に幸いなことであったと思う。
 
だが、それで満足しているわけにはゆかない。説教が神の言葉の出来事として、人を生かすことになる、という説教を大切にすること、そのような説教を守り育てることを、私たちが担い、伝えてゆかなければならない。それくらいしか恩返しができない私であるが、それさえも、できるかどうか分からない。情けないことに。



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