「アン・シャーリー」と原作
2025年4月22日

松本侑子さんというと、「ニュースステーション」のおもにお天気を担当していた人だ、と覚えている人がいるかもしれない。文学の方面で活躍し、間もなくすばる文学賞受賞の『巨食症の明けない夜明け』が大きく話題になった。
最近では2022年に、Eテレ「100分de名著」では「金子みすゞ詩集」の講師として顔を見せてくれたが、それ以前から赤毛のアンシリーズの翻訳を、シェイクスピアや聖書からの引用註を入れたものとして刊行して評価されている。
「赤毛のアン」と言えば、2025年4月から、Eテレで、アニメ「アン・シャーリー」が始まった。ところが、放送が始まってから、松本侑子さんがtwitter(X)で、すぐに鋭い指摘を訴えるようになった。そしてその後大きな話題に膨れ上がり、週刊誌なども取り上げるようになった。私は最初の投稿から目に入り、これは確かにまずいな、と思っていた。
最初に見たのは、次の投稿である。
この絵のアンは、ピンク色の服を着ていますが、彼女がピンク色を着ることはありません。小説の時代である19世紀の西洋では、髪の色と服の色の組み合わせに暗黙のルールがあり、“赤毛の女性が赤やピンクの服を着るのはみっともない”とされていました。原作小説のアンは、生涯にわたって《ピンクの服は着られない》と何度も言います。
その他、登場人物の瞳の色の違いや、原作で明らかに心情を表す仕草をスルーしてしまっていることなど、細かな点を次々と指摘しているのであった。ただ、清々しいのは、それらはケチをつける目的ではないことがよく伝わってきたことである。
翻訳者としては、そして膨大な研究と現地訪問とを重ね、初めてその訳に膨大な注釈を入れた者としては、原作で十分意味をもたせてあるところを改変して放映する、ということは、そのまま放置しておいてよい問題ではなかったのである。
当然、そんな細かなことを気にしないアニメファンからは、偉そうに言うなとか、原作者になりかわったつもりなのかとか、短絡的な攻撃も見られたらしい。そう、アニメはアニメとして原作通りである必要はない、というのもひとつの筋道である。しかし、赤毛のアンのように、非常に深く入れ込んだ読者の多い作品においては、原作と違うものが、恰も本物のように出回ってしまうということには、黙っていてよいとは思えないのもよく分かる。
最初ハウス食品提供で始まった、「世界名作劇場」は、日本のアニメ界に、そして子どもたち、さらに大人たちへも、大きな影響を与えた。世界の名作を長期連続放送で描くのだったが、これも原作通りかどうかという点では、ずいぶんと異なるものだったという事実もある。
児童文学に詳しい者ではないので、私は大きなことは言えないが、そんな私でも、「ハイジ」と「パレアナ」については、後から原作を知ったときに、アニメはずいぶんと骨抜きになってしまっていたのだ、ということがよく分かった。あの当時に、いまのようなSNSがあったら、激しく指摘があったことだろう。
何が骨抜きかというと、そこから信仰に関することが、きれいに抜かれてしまって消えているのである。特に「ハイジ」の方は、その物語のクライマックスは信仰に関することであったのに、全くその場面と前後がないし、信仰の欠片も現れてこなかったと思う。クララが立つところがハイライトになっていたようだが、それに先立ちペーターがとんでもないことをする、大切な前提がアニメでは描かれていなかったのも、原作で初めて知った。
こうして、原作のエッセンスが全く知られないままに、原作を読んだことがない一般の人々には、「ハイジ」や「パレアナ」が認知されてしまっているのだろう、と思われる。松本侑子さんにしても、原作を愛するが故に、そして原作を知っているが故に、骨のない理解が「赤毛のアンってこうだよね」と認知されることには、歯止めをかけなければならない、という気持ちが働いたのではないか、と思われる。
それは、聖書についても同じことだと私は感じる。一時ほどではないが、いまなお、「聖書がわかる云々」といった本が出回っている。国際化時代に、聖書について何も知らないでは、ビジネスもできないような時代だと思われるのだろう。ビジネスの領域をターゲットにしたような、啓発本のような部類として、聖書がすぐに分かるというようなお手軽な紹介本については、聖書がダントツに多いような気がする。
だが、そこには信仰という視点がないのは明らかである。聖書にはこういうことが書いてある。名前だけは聞いたことがあるようなあの物語を簡潔に説明するとこうである。イスラエルにはこういう歴史がある。キリストについて西洋人はこんなふうに理解している。そういうタッチで、あくまでも聖書という文献について、外側から眺めて見えるものを教科書的に説明する。
いわば、骨抜きである。しかも、時々、「その説明はちがうわ」と思えるものも見出される。いつかは、有名な旧約学者の監修という名前のものを覗いたら、ずいぶんといい加減な内容で、ウソも混じっていたので、これはちゃんと監修していないのではないか、お名前に疵がつくのではないか、と案じたこともある。
聖書に関心をもってもらうのはいい。だが、興味本位で揶揄するかのように扱ったり、ウソの理解を広めたりするようなことには、ちょっと一言居士を演じてみたくなることがある。毎回デマを流し続けるツイートには迷惑さえするが、そこに口出ししても、ブロックされてそれで終わりになることは明らかだという人物には、対処の仕様がない。
そういうわけで、松本侑子さんの発言は、けっこう勇気のあることではあると思うのだが、それでも、言わなければならないというその心については、少し分かるような気もするのである。
ところで、アニメが底本としている「赤毛のアン」は、村岡花子訳である。朝ドラの「花子とアン」は、その村岡花子を描くものだった。「光る君へ」で活躍した吉高由里子さんが村岡花子を好演した。強調はされなかったが、キリスト教が舞台になっていた。そういえばこの「花子とアン」の脚本は、いまの「あんぱん」と同じ中園ミホさんであった。