【メッセージ】女たちの復活の朝

2025年4月20日

(マタイ27:57-28:20, 創世記1:26-27)

女たちは、恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、女たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。(マタイ28:8-9)
 
◆女性は無能力者
 
福音書は四つありますが、その中でマルコ伝が、最も早く書かれたらしい、と言われています。近代の研究からのこの推測については、基本的に反対意見はありません。
 
そのマルコ伝が、「復活」について、いともあっさりと書いている点は、よく知られています。復活の現場については、記述していないのです。それが物足りないと考えたのか、マタイ伝やルカ伝は、このマルコ伝を補う形で、復活の記事をたくさん盛り込みました。それはイエスの誕生の場面も同様で、いわゆるクリスマスの出来事の記事は、やはりマルコ伝にはなく、マタイ伝とルカ伝が描いているだけです。
 
イエスの死への過程を描くことにおいては、どの福音書もたいそう熱を入れています。救いの要の出来事としては、当然のことでしょう。しかし復活については、マルコ伝は無関心のように見えて仕方がありません。マルコ伝が、史上初の「福音書」という文学ジャンルを生んだことからすると、型にはまる必要はありませんから、きっと復活については、書かねばならないという必然性もないし、書くことを妨げる必然的な理由はないようにも思われます。
 
彼女たちは、墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである。(マルコ16:8)
 
これがマルコ伝の当初の最後の言葉だと見られています。これに付け加えられた写本も見つかっていますが、旧い文献だと、ここで終わっているそうなのです。女たちは、黙っていました。これは奇妙なこととも見られています。他の福音書では、そんなことはないからです。しかし、当時証言者として、女性が認められていなかったであろうことを思います。法的に、女性には証言する資格がなかったはずなのです。
 
神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」神は人を自分のかたちに創造された。/神のかたちにこれを創造し/男と女に創造された。(創世記1:26-27)
 
神の創造にあっては、基本的に男と女とに、それほどの差異が置かれたのではなかったはずでした。それなのに、この差別は、いまなお続いています。ようやく「権利」としては認識されるようになってきましたが、少し前までは、延々と大きな差別が正当化されて続いていました。
 
「すべての婚姻女性は無能力者」、そのような言葉を、私たちはテレビドラマで1年前に聞きました。通称朝ドラの「虎に翼」の第2話から第3話で、大きな反響を呼んだ発言でした。暗い時代でしたが、まだ太平洋戦争には至らない時代のことでした。これに「はて?」と疑問を呈するところから、ドラマが始まったと言えるのでしょうが、人類の歴史は、長年正にその原則を貫いてきていました。つい百年ほど前までは、西欧でも同様だったのです。
 
「女性は無能力者」、それはいまの私たちにとっては非常識、しかし人類にとってはずっと常識であったことです。私たちは、このことを根柢に据えて、今日の復活の記事を受けていきたいと思います。すると、これまで気づかなかったことに、新たにリアルに感じることができるかもしれません。
 
尤も、黙っていたとするのは、「福音書」の世界を築いたマルコ伝でした。もしかすると、敢えて露骨に描かないことで、何かを狙っていたのではないか、そのように考える筋道もあろうかと思います。またいつか、その点についてもお話しできる機会が与えられたら幸いだと思います。
 
私たちは今日、イエスの復活の朝を記念する礼拝を献げています。そして、私たちは、十字架から復活にかけての出来事を、ひたすらマタイ伝を辿ってきました。そこで、マルコ伝はマルコ伝として、私たちはいまは気にせずに、マタイ伝に従って読み進めることにします。そうして、マタイ伝の最後までご一緒致しましょう。
 
◆ヨセフ
 
さて、先週は受難節の礼拝として、イエスの絶命までをお読みしました。イエスの弟子たちを始め、関わった人々は、悲しみに暮れたことでしょう。ただ死んだのではない、残酷な仕方で、しかも罪人扱いを受けて棄てられたようなものです。その弟子たちは、さて、イエスの死んだその場に、誰かいたでしょうか。いたらしい記事もありますが、基本的に弟子たちは傍に寄ることはできませんでした。
 
そして、その遺体ですが、なにしろ、申命記には厳しい規定がありました。
 
あなたはその死体を夜通し、木に残しておいてはならない。必ずその日のうちに葬らなければならない。木に掛けられた者は、神に呪われた者だからである。(申命記21:23)
 
このままだと、イエスの死体は、ゴミ捨て場のようなところに捨てられることになります。いくら何でもそれは忍びない。そして、復活の出来事にはあまりに似合わない。イエスの死から日没までは、あと2、3時間しかありません。日没になると、日付が変わり、安息日に入りますから、何も作業ができなくなります。
 
ここでためらう暇はありません。ヨセフという人物が登場します。「アリマタヤ出身の金持ち」と説明されており、マルコ伝では「高名な議員」(15:43)とまで書かれています。立場として、ピラトに近づくことができたのでしょう。ユダヤ人たちの手前、刑の執行前には出て行けなくとも、事後は動けたものと思われます。
 
イエスの遺体を引き取りたい。ピラトにそう願い出たのです。それにしても、よく許可が下りたものです。この場面は、社会的な意味があるためか、活躍するのは男です。女の出番はありません。
 
「ヨセフは遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み」ました。当時の衣服は亜麻布が基本だったとも言われますが、上等のものは贅沢品だったようです。ここでも、立場からしても、粗末な亜麻布であったようには思えません。
 
ヨセフは、イエスの遺体を「岩に掘った自分の新しい墓に納めた」のでした。自分の墓を確保できるのも、裕福な立場の為せる業でしょうか。経済的に豊かな人の当時の墓の典型的なもので、岩壁の中に空洞をこしらえ、石で蓋をする、というスタイルのようです。インターネットで検索をかけると、いろいろ画像や説明が出てきます。
 
岩壁という環境ではありませんが、小さな家のような、沖縄の墓のイメージに、少し近いかもしれません。亀甲のようなデザインが普通で、それは女性の子宮を意味している、と説明する人もいます。旧くは風葬に基づく形式であったとも言われますが、イスラエルの岩の墓も、それに近い意味があったのかもしれません。
 
大きな石を転がして、蓋とします。この後、当局からそこに「封印」が施されますが、それはやがて起こる「復活」のメルクマール、つまり指標にもなります。
 
61:マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓に向かって座っていた。
 
この様子を、2人の女が見ていました。現場に、女が登場します。ここに目を留めておきましょう。墓の場所は、間違いなくこれらの目撃者によって、把握されていたことになります。
 
◆男の策略
 
他方、祭司長たちの側では、綿密な対抗策が実行されます。ヨセフにより引き取られたイエスの遺体が、ヨセフの所有する墓に納められた、というところまで把握していました。そして、ピラトに願い出ます。
 
63:「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを思い出しました。
64:ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』と民衆に言い触らすかもしれません。そうなると、人々は前よりも、もっとひどくだまされることになります。」
 
よくぞイエスの言葉を、ここまで聞いて覚えていたものです。逆に感心します。そうです。敵は、耳を傾けていたのです。相手がどう出るか、知るためです。実によく聞いています。イエスの言い分を踏み潰すために、なんとか揚げ足を取ろうと狙うのです。
 
私も、教会のつまらない説教では、そのどこがつまらないのか、熱心に耳を傾けていたことがあります。結局時間の無駄ではあるだろう、と分かっていました。また、そこから神の恵みを受けることを求めることもできませんでした。それでも、何がどうダメなのか、把握することが当時必要だったのです。それを明確にしなければならなかったのです。
 
もちろんそれは、話し方が下手だという意味ではありませんでした。安政から大正までを生きた名説教者・植村正久牧師は、「訥弁の雄弁」と呼ばれています。話し方が巧いわけではありませんでしたが、その語る説教には命がありました。植村正久牧師は、来年2026年のNHK大河ドラマ「風、薫る」で、必ず登場します。物語は、キリスト者の看護師・大関知(ちか)が主人公です(親友の鈴木雅(まさ)と2人が主人公だと公表されていますが)。教会を舞台とし、植村正久と共に矢島楫子(かじこ)も登場するはずですから、もっとキリスト教界はこのドラマの決定を大きく取り上げてよいと思うのですが、さっぱりその気配がありません。どうしたものでしょう。関心をお持ちになった方には、『明治のナイチンゲール 大関和物語』(田中ひかる・中央公論新社)という本をお薦めします。この本が、大河ドラマの底本だと公表されています。
 
さて、祭司長たちの申し出に対して、ピラトは「番兵」までつけてやると言います。この番兵はユダヤ側でつけてよい、というのか、ローマ側がつけてやるのか、少し曖昧ですが、日本語訳では、ローマ兵のように理解する色が濃くなっています。ともかく、「封印」は、ユダヤの権力者たちが施し、番兵と共に見張ったようなことが書かれてあります。
 
復活することは、信徒の方ではもちろん分かっています。しかし、マルコ伝のような嘲笑的な表現では、その復活が、ある意味で「信仰」の中の出来事であるかのように見なされる虞があります。マタイ伝の意図は、復活は「事実」なのだ、ということを示したかったように思われます。ただの「信仰」の域から抜け出させて、「事実」として認定するべきだと考えたのではないでしょうか。
 
マタイ伝のこのような意図も、そしてユダヤ当局の思惑も、これらはすべて男の発想からなされるものでした。ここは、極めて男性的な考えに基づいての、いわば男の策略だと言えるでしょう。
 
◆天使と女たち
 
他方、安息日が明ける頃、女たちの方に動きがありました。安息日には仕事も移動も制限があります。少なくとも公的に人前でそれを破ることは、社会的にできません。安息日が明けるのは、いまでいう土曜日の日没後です。しかし夜は暗闇であったでしょうから、夜明けを待って、女たちは動くことになります。
 
1:さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。
 
他の福音書では、遺体に香油を塗るため、というような目的で訪ねたことになっていましたが、マタイ伝では、ただ「墓を見に行った」と記しています。これが香油を否定することにはならないかもしれませんが、さしあたり「見に行った」に留まっています。遺体が墓に納められるとき、「墓に向かって座っていた」ことからつながっています。場所を間違うはずがありません。
 
2:すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石を転がして、その上に座ったからである。
 
マタイ伝では、前にイエスの死の際にも、地震が起こりました。聖なる者たちの墓が開いて生き返るということが起こっています。とんでもないことです。これは他の福音書には見られない記事ですから、マタイの意向か、あるいはマタイの近辺にいた証言者の話に基づくものなのでしょうか。地震といえば、アモス書の冒頭が印象的です。
 
テコアの羊飼いの一人であるアモスの言葉。それは、ユダの王ウジヤの治世、ならびに、イスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムの治世に、イスラエルについて幻に見たものであり、あの地震の二年前のことであった。(アモス1:1)
 
地震が、聖書では時に事の起こりを示します。そう言えば、預言者エリヤが隠れているときに大きな地震があり、その中に主の現れを探しましたが、見つからなかったという記事があります。そのエリヤの再来と目された洗礼者ヨハネをふと思い出すのは、読み込みすぎでしょうか。
 
地震の後、「主の天使が天から降って近寄り、石を転がして、その上に座った」というところから、自体が大きくまた動きます。この「天使」は、単数形です。天使は1人なのです。他の福音書では複数いることもありますが、マタイ伝はとにかく1人です。マタイ伝は、「その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった」とよく描写をし、この復活の場面を聞く者に、豊かなイメージを与えています。
 
ここでお邪魔虫は、「見張りの者たち」です。「恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」のでした。ここで天使が、「恐れることはない」と言葉を発したのも不思議ですが、その言葉は、この番兵たちに向けてではありませんでした。マタイ伝は「女たちに言った」とはっきり書いています。天使の言葉は神の言葉。神の言葉は、女たちに与えられ、命を与えます。私たちが、神の言葉によって命を与えられているように。
 
何故言葉が命を与えるのか。天使ははっきり言ったのです。十字架につけられたイエスは「復活なさった」と。
 
◆あなたがた
 
6:あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。
 
天使が続いて言ったのですが、女たちがその通り遺体の置いてあった墓の中を見たのかどうかは分かりません。少なくとも、直接書いてはありません。しかし、この後の展開を見ると、たぶん見たのではないか、と私は感じます。
 
7:それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。
 
ややこしいことに、次の言葉は、女たちが弟子たちに伝える伝言となります。「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」イエスは先にガリラヤに行く。イエスは私たちの前を行く。いつも、私たちはその背中を見る。――そうです。私たちがイエスを引き連れてゆくようなことをしてはなりません。私たちが、自分で道を決めることはできないのです。イエスに従うことだけを考えればよいことに、改めて気づかされます。
 
ところでこの「あなたがた」は、明らかに弟子たちのことを言っているように見えます。男たちのことです。その「あなたがた」の中に、この女たちは含まれないのでしょうか。女たちは、男たちのこれを告げて、それで役割が終わったとするのでしょうか。十字架のイエスを、遠くからながら最後まで見つめていたのは、男の弟子たちではなく、女たちでした。
 
確かに、ペトロもどこかで見ていたかもしれません。ヨハネ伝では、女たちは十字架の近くにおり、そのとき、イエスの愛した男の弟子もいたことが書かれていますが、基本的に男の弟子たちは、逮捕劇の場面では、すでに逃げ去っていたのでした。
 
この伝言に続いて、天使は今度は明らかに女たちに向けて、「あなたがたにこれを伝えます」と言いました。私はここに、女たちをこの天使は除外していないのではないか、と受け取りたいと思いました。もちろん、どうしても女を除外したい人はそうすればよいのです。しかし少なくともいま読む現代、私たちは、イエスに従い通した女たちをも、呼ばれなくてはならないと思うのです。福音が女に届かないとか、福音が女たちを除外するとか、そんな古ぼけた時代は、もう必要ありません。
 
あるいはまた、男たちは、わざわざガリラヤへ呼び出さなければならない事情があったのかもしれません。イエスを捨てて逃げた男たちは、臆病だからどこかよそで会ってやろう、とでも言うように、ざまあない存在だったのかもしれません。男の弟子たちが主役となって、その後教会をつくり、キリスト教会を生んだ、というありきたりの理解には、少しばかり待ったをかけてみたいのです。
 
◆イエスと出会った女たち
 
この女たちは、「恐れながらも大喜び」でありました。なにげなく読み飛ばしそうですが、これを、私たちは俳優のように演じてみることができるでしょうか。たいそう難しいのではありませんか。
 
マルコ伝では、女たちが恐ろしくて黙っていた、という終わり方をしていることを先に述べました。これをマタイ伝は修正している、と言うことができるだろうと思います。そして弟子たちに、健気にも伝令の役割を果たすのです。「伝令」という言葉は、実は「天使」という言葉の語源です。「天使」は、その「使」にこめられた意味が元来で、「御使い」とも言われます。伝える仕事をするのです。こうして、マタイ伝の意図としては、男を引き立てる役回りとして、女たちを利用したつもりだったのだろう、と創造します。
 
しかし、ここで大事件が起こります。
 
9:すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、女たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
 
イエスが、女たちの行く手を阻んだというのです。男の弟子たちは、これから先、ガリラヤでやってイエスに会える、としながらも、女たちは、もうここで復活のイエスに会っています。マタイ伝の筆者が、いくら男の弟子たちを立てようとしたと考えていたとしても、復活のイエスに最初に出会った人間は、女たちでした。
 
「女たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した」といいます。つまり礼拝した、と見てよいのだと思います。足を抱いたのは、仕える姿勢を示すように感じます。ヨハネ伝では、マグダラのマリアが、「私に触れてはいけない」と言われていましたから、あれこれ説明がなされることがありますが、マタイ伝ではどうやらそういう心配は要らないようです。
 
マグダラのマリアが、ここではイエスの足を抱いています。彼女は、恐らく後の教会の重要な人物であったと推察されます。彼女について証言が分かれるのは、神学者にとって悩みの種となりますが、後世の人々の思い込みやぼんやりとしたイメージが先行しているのではないか、とも言われます。私たちはいまはマタイ伝に没頭しています。気にせず受け止めてゆきましょう。
 
イエスは、先ほどの天使と同様に、「恐れることはない」と言います。女たちは、天使にもイエスにも、「恐れるな」と言われたことになります。そしてこれまた天使と同様に、「れることはない。行って、きょうだいたちにガリラヤへ行くように告げなさい」と命じられます。女たちに、ガリラヤへ行け、とは言っておらず、やはり伝令として用いようとしています。それでも、復活のイエスにいきなり会ったことを、私は驚異の眼差しで見つめるつもりです。
 
そもそも地上で旅をするイエスと弟子たちの生活を支えたのは、女たちであったに違いありません。パトロンのような役割を果たしたのではないか、という推測もありますが、生活の世話をしたのは女たちであったと考えるのが自然です。イエスの側近を務めた女たちの「信仰」は、弟子たちのそれのように、厳しく問われる様子はありませんでした。
 
女たちといえばほかにも、時に、髪でイエスの足を拭いましたし、パン屑でもよいとイエスを驚かせたり、出血の病気を癒やしを厚かましいほどに求めたりした、強い「信仰」の女を聖書では見かけます。しかし、弟子たちには「信仰」について教えを垂れるのに、女たちの「信仰」は、あまり問題視されることはないような気がします。
 
ともかく、男の弟子たちよりも先に、女たちは復活のイエスに出会いました。このことを、私たちはいままであまり意識せずに聖書を読んでいなかったでしょうか。見落としてはいなかったでしょうか。
 
◆男たちとの違い
 
マタイ伝も終わりに差しかかりました。その後女たちがどうしたか、もはや描かれはしません。その代わりに、「女たちが弟子たちのところに向かっている間に、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した」ということで、ここでまた、だらしない男たちのエピソードが挿入されます。ふがいない番兵たちでしたが、祭司長たちに事態を相談します。それはある意味で危険な報告でした。罪人を逃がした見張りには、命がない場合があるからです。
 
しかし祭司長並びに長老たちは相談し、番兵たちの責任を問わないことにします。そればかりか、「多額の金」まで与えて、「弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った」との証言を命じます。偽証は十戒に抵触します。偽証に偽証を重ねてきた権力者たちが、如何にユダヤの律法の管理者として相応しくないか、をマタイ伝は指摘します。イエスの裁判のときにも、偽証を企んだのは、こうした権力者でした。
 
これはもしかすると、サドカイ派をとことん揶揄しているということなのかもしれません。ここへ来て、殆ど笑いものにしています。金と権力をもつ者たちの醜さが、嘘で虚飾されたままに描かれています。
 
この後、女たちの報告を受けて、やっと11人の弟子たちは、ガリラヤにて復活のイエスに会うことができます。一般の復活や昇天のメッセージでは、この箇所がクローズアップされます。これを「大宣教命令」と称して、弟子たちに権威が与えられ、世界へと宣教してゆく、と勇ましい言葉がもたらされるのです。もちろん、そのように私たちも受け容れて然るべきでしょう。
 
ただ、私たちは今日、見てしまいました。気づいてしまいました。これまで復活のシーンもまた、男たちの都合の好いように解釈を重ねてきていたのだ、と。そこに書かれているのに、見えていなかったことがなかったでしょうか。見えないものを信じるのが信仰であるのなら、復活のイエスをいま私たちは、見えない形で、信じ、また出会うという経験をしています。
 
いまここで、復活のイエスの側から見えた景色を想像します。まず女たちと会いました。男たちは、まるで後でよいとでも言うかのようでした。男社会の権現のような福音書かもしれませんが、聖書は正直に記しています。復活のイエスは、建前の進行を語るような男たちよりも先に、女たちに出会っていたのです。それは、ただ教義とか説明とかいう形でのみ、現れるものではありません。建前で語るものではないのです。
 
女たちは、常にイエスに寄り添っていました。そして従って、仕えていました。その墓には、誰よりも早く行きました。そして誰よりも早く、復活のイエスに出会いました。もったいぶった説明をしようとする神学や、聖書のお勉強を抜きにして、あなたも、行く手に立っているイエスと、会うことができるはずです。そのイエスの前にひれ伏すことが、できるはずです。イエスは、確かに復活したと信じたそのときに。



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