復活の福音

2025年4月20日

コリントの信徒への手紙の第一の方には、いろいろ注目すべき内容が盛り込まれている。13章は「愛の章」と呼ばれ、私はそこに神と出会う道が敷かれた。また、15章にはキリストの復活がたっぷりと説かれている。今日は2025年の復活祭。
 
パウロが、コリント教会に、復活を証明するべく説明するのである。が、あいにくそれは、現代的には「証明」にはなっていない。論理的につながっておらず、そういう目で見れば、論理は破綻している。ただの信念を説明しているだけなのである。
 
これを、復活の証明とて貫くつもりは、いまはない。ただ私は、この話をパウロがどのようにもちかけたのか、書き始めた理由のほうに、この春、惹かれた。15章の最初は、次のようになっている。
 
きょうだいたち、私はここでもう一度、あなたがたに福音を知らせます。(15:1)
 
ここから、新しい話となった。そして、後世大きな影響を与える教義がここに書かれることになる。この福音を、パウロはあなたがたに「告げ知らせ」た。あなたがたはそれを「受け入れ、よりどころとし」た。この福音によって、あなたがたは「救われる」のだ、と言った。
 
パウロは、このことを、こまでにもちゃんと伝えていたのだが、さて、あなたがたはこれを「今もしっかり覚えて」いるのかな、と告げた。これはかなり皮肉に響く。信じたと言っても、中身のない空しいものではなかったかな、とからかってもいる。
 
ここを真面目に読むと、パウロが、低姿勢に優しく述べているようにも見えるのだが、パウロはこのコリント教会にはずいぶんと手を焼いていた。手紙の冒頭でも、相当に難しい問題を非難するところから始めている。コリント教会には、呆れ腐っているのである。私はそんなパウロが、コリント教会にあてこすりや皮肉を言ったとしても、当然のことだと考えている。
 
パウロは、他の手紙でも、一見まともな言葉のように見えながら、実は皮肉っているということが多々あるのだ。
 
その上で、パウロはこの後「復活」を、理論として丁寧に述べようとしている。これは確かである。「死者の復活などない」(15:12)と言っている者も教会にいたことが、その背景にある。それを論破しなくてはならない。それはかなり力を入れた者であり、長い長い説明となってゆく。
 
ところで、その「死者の復活などない」という声だが、コリント教会だけに限るのだろうか、というと、そんなことはない。現代、一部の教会や神学者から、同じ言葉が聞かれることがあるからである。教会がそういう見解を表に立てるのも問題だが、その背後に神学者の考えがある場合、問題の根は深い。「死者の復活などない」ということを、聖書を使って論理的に主張するわけで、その正しさを権威と共に示すことにより、その学者を信奉する人々を巻き込んで、救いの喜びから引きずり出してしまうからである。
 
学者自身は、自ら体験したことや信念があるのだろう。なんとかそれを正当化しようとして、原語や史料を巧みに用いて証明しようとしているのだろうが、パウロの復活の証明が証明になっていないのとまた違う意味で、証明にはなっていないのだ。が、その影響は小さくない。
 
パウロは、「神の恵みによって、今の私がある」(15:10)と言っている。「私に与えられた神の恵み」、あるいは「私と共にある神の恵み」(いずれも15:10)が働いているのである。人間世界だけの論理には、この「恵み」というものが関わってこない。それは、神との関係がない、ということでもある。
 
「恵み」を見失った聖書研究は、自らを神として、自分が聖書を牛耳っていると錯覚してしまう。それは、人々を滅びの道へと陥れる、取り返しのつかない過ちを犯してしまうことになる可能性がある。それこそ正に、「無題に信じた」(15:2)ことになるのだろう。
 
その「恵み」は、人間的な理屈から生まれるものではない。ある意味で「霊的なもの」であるとも言える。三浦綾子に洗礼を授けた牧師・小野村林蔵がその全集で、イスカリオテのユダについて、このような推測をしている。現実的で物質的な神の国を期待していたユダについて、「霊的なものに共鳴するところの乏しい彼の心は、それに対して深い失望を感じた」のだという。「恵み」を感じられない魂は、「のっぴきならぬ深間に落ちこんでいる」というのである(全集1,p152)。
 
今日は復活祭。誰でも、新しく生まれ変わることができることへの、明るい知らせが、各教会で告げ知らされる。パウロの説明が、福音、つまり良い知らせとして、響き渡ればいいと願う。コリントの信徒への手紙一の15章をお読み戴ければ幸いである。



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