片手の萎えた人
2025年4月14日

イエスが癒やしや教えの活動を始めて間もない頃のように、マルコ伝では描かれている。この直前で、安息日に麦の穂を摘んだ弟子たちが、ファリサイ派の人々が文句をつけた話が書かれている。イエスは、これに対して「安息日の主」という立場を示したという。
今日も、マルコ伝の連続講解説教を保っている。キリスト教世界では、今日は「棕櫚の聖日」とも呼ばれ、「受難週」が始まる。来週が復活祭であり、復活の朝を祝うことになるから、普通は、受難週には、十字架を偲ぶための説教が用意される。講解説教を連続していても、一旦切って十字架と復活に備えることが多い。
だが、連続講解説教をしているからには、それを崩さない姿勢を貫く説教者もいる。敢えていまここで十字架を取り上げなくても、日頃からいつでも十字架を語っている、との気持ちがあるのかもしれない。あるいは、神が与えてくれた機会において、今日宛がわれた聖書箇所からでも、十字架については語ることができるようになっているはずだ、という信頼のようなものがベースになっているのかもしれない。
今日の箇所は、マルコ3:1-6である。場面は、会堂である。イエスが会堂に入る。時に説教を任させるかもしれない。そこに、片手の萎えた人がいた。癒やしで知られたイエスである。いまその力を発揮するのか。しかし会堂に人が集まったというのは、安息日である。安息日に癒やすような仕事をするのは、立派な律法違犯である。その現場を虎視眈々と狙っている人々の目があった。イエスは、その人に「真ん中に立ちなさい」と好い、人々に向かっては、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」と問うが、人々は応えない。イエスは怒る。そして彼らを見回し、そのかたくなな心を悲しむ。その人に「手を伸ばしなさい」と告げると、手は元通りになった。これを見たファリサイ派の人々は出てゆき、ヘロデ党の人々と共に、「どのようにしてイエスを殺そうかと相談を始めた」、こういう場面である。
説教者のすぐれた説教は、私が歪ませてはならないから、私が受け止めて再構成した図柄をここに示す。私は、二つの立場からこの場面を描くことにした。但し、それは説教者が与えてくれた視点に驚かされて、見えた景色であるとご理解戴きたい。
先ずは、この片手の萎えた人の眼差しで、事態を見ようと思う。説教者が告げるには、「片手の萎えた人」というのは、男女を定めない「人間」という語である。その後、代名詞からこの「人」は男であるらしいことが分かるが、最初に「片手の萎えた」人間と登場することによって、老若男女構わずこの「人間」になることが可能になる。これは、誰それ構わず、この人間になることができるということである。
私は何故いま会堂にいるのだろう。何か凄い人が今日は来ていると知っていたから来た、というのは不自然だろう。だとすれば、私は普段から、安息日に会堂に来るのが当たり前の生活をしていたのだ。事故か病気がはいま決められないが、とにかく私は片手が不自由である。しかし、不自由になったから会堂に来たのではあるまい。両手が使えた生活をしていた中で、片手が萎えて使えなくなってしまったのだ。
この「萎えた」という語は、「枯れた」とも訳せる言葉である、と説教者は教えた。あるいは「しおれた」というのが案外雰囲気をよく伝えるものかもしれない。
しかし、この不自由は、神が与えた罰ではない。悪魔が、私を神から離れさせるために、不幸な事態に追い込んだのかもしれない。私はそれでもなお、神を礼拝する。会堂の人々のために、何かができるというわけではない。お邪魔虫なのかもしれない。しかし、私は神に会いたい。神を拝したい。だから私は、会堂にいつも来る。何のためか。神を礼拝するためだ。
説教者は、ここでイエス・キリストに会えるから、そしてその声を聞きたいから、私たちはこうして礼拝に集うのだ、と言った。復活のイエスを拝するのだ。イエスはいまも生きておられるからだ。
私のほうから、癒やしてください、などと言った覚えはない。ただこの人は、力をもっている。私に「真ん中に立ちなさい」と言った。真ん中だ。それは、神の前に立つような気持ちにさせられる。この「立つ」は、復活する信仰を重ねることもできるはずだ。人は、この世を去って後、神の前に立たねばならなくなる。そしてこの世においても、神の前に立つ気持ちでいるというのが、信仰者なのだ。喜んで立ち上がろう。
この人は、偉い人たちに監視されている。それを見抜いているのだ。だから、彼らの方を向いて、強い口調で告げた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」と、彼らに言ったのだ。この人は、いまから私に何かをしようとしているのか。これだけの言い方では、何のことか分からない。
監視している偉い人々は、沈黙を保っている。この姿勢に、明らかにこの人は憤った。にらみ返している。ただ、どこか悲しい顔をしている。そうして、私の方へと顔を向け、私の目を見つめて言われた。「手を伸ばしなさい」と。
どういうことか。私の手は動かない。それを知らないのだろうか。否、見た目で、この手が動かないことくらいは、誰が見ても分かるだろう。私は、この人が投げかけた無理難題について考えてみた。待てよ。この人は何か力をもっている。私の心が、動くはずがないと決めつけているところまで、見抜いているはずだ。それでもなお、それがもし私の思いであるだけならば、私の外の大きな力が、いまここに働かないとも限らない。この人の背後に神が働いているのだとしたら、私の心など、塵のようなものだ。
説教者は、「心に逆らってでも伸ばしてごらん」とイエスは言ったのだ、と説いた。イエスは、私たちを決して諦めない。人が神を信じることを諦めるかどうか、悩むことはあるかもしれないが、イエスは私たちを決して諦めないのだ。
私は、私の心によって動くのではない。神の力が、外から働いて、私を動かすのだ。主は憐れんでくださる。私を変えてくださる。そうだ、神の言葉に応じよう。――すると、手が動いた。前に伸びた。神を求めるように腕が動き、この人から注がれてきた何かを掴むように、指も動いた。
よく、アニメで、空の方に片手を伸ばす場面が描かれる。注意して見ていると分かるが、この例は実に多い。何かを求めている心理を表すのか、希望を表すのか、解釈は様々であるだろうけれど、何らかの思いと意志をこめたような演出として、そういう画がたくさんあるのだ。
もう一つの立場は、ファリサイ派の人々の視座である。会堂に来るのは当たり前だ。律法をきちんと守ることで自分は、ファリサイ派としての役割を果たすことができる。人々の模範として生きるのだ。神の言葉を頑張って守っている。ところが最近、イエスという者が怪しい行動を取っているという。先般も、安息日に麦の穂を摘んだくせに、自分は安息日の主だなどと不遜なことを口にして、ごまかしたという話を聞いた。それが本当なら、許せない。
そのイエスが、会堂に入るのを見た。この目で確かめてやる。本当にあの男は、安息日の違犯行為をしたのだろうか。この会堂には、片手の動かない人が来ていたはずだ。イエスが癒やしをモットーとするのなら、じっとしてはいられないだろう。もちろん今日は安息日だ。会堂に、信心深い者たちが集まってくる。ファリサイ派を尊敬する者たちが、会堂にやってくる。その目の前で、イエスが安息日規定を平気で破ったとしたら、これは多くの目撃者の許で、神の律法に反することをやったことになる。訴えたら、必ず勝つ情況だ。イエスが、片手の萎えた人に近づいたぞ。
「真ん中に立ちなさい」だと。いよいよやるんだな。いっそう熱く視線を送ることになる。
説教者は、1990年夏の神戸高塚高校校門圧死事件の例を挙げた。遅刻者を入らせないために、教師が投稿門限時刻に校門を閉めたところ、走ってきた15歳の女子生徒が門扉に頭を挟まれて挟まれて亡くなったのだ。期末考査の日であった。そして説教者は語る。人を生かすための規則が、人を縛り、評価する。人を採点し、人を裁く。このファリサイ派の人々は、それを当たり前とするようになってしまっていた。この後、イエスに殺意を懐くのはそのためだ、とも告げた。
また、このことで受難週の件にも触れた。何故イエスは十字架に架けられたのか。何故その十字架が私と関係があるのか。この「関係」という言葉こそが、まずは「罪」という言葉によって開かれた世界に備わるものであり、続いて「救い」という言葉を実現させるための構造である。私はそのように受け止めている。
さて、ファリサイ派の私は、次に最高に恥ずかしい思いをする。イエスが、じろりとこちらを睨んで言ったのだ。こちらの注視に、さすがに気づいたのだろう。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」などと言われて、まともに答えられるはずがないではないか。善を行うことに決まっているし、命を救うことに決まっているだろうが。しかし、それを私の口が肯定してしまえば、まるで私が癒やしを許可したみたいに聞こえてしまうかもしれない。そうなると私の立場が危うい。問われても、無視をするしかないだろう。
説教者は、イエスがここに珍しく感情を露わにした表現で描かれていることに、説教の初めに注目させた。しかしそれよりも、「かたくなな心」へ、もっと気持ちを向けてほしいように願っていることが伝わってきた。「かたくな」は「頑な」と書き、いわば「頑固」であることだ。しかしそれを適切に訳すと、たとえば「心が死んでいる」という表現があったのだそうだ。このとき、東京の街で道に倒れている人がいても、誰もが素通りして行く姿と重ねるイメージを説教者は与えた。私たちの社会では、「心が死んでいる」としか呼べないような情況がたくさんあるに違いない。電車の中で、他人に迷惑をかけたり、不愉快な思いを与えたりしていることに、全く気がつかない人が多々いることを、私は毎日経験している。
さて、イエスは、マジックを見せたその人の手が、すいと伸びたのだ。今までしおれていたあの腕が、しっかり動いた。まさに信じられないような風景である。これが癒やしというものなのか。噂に聞いた癒やしは、こうした奇蹟のことなのか。否、驚いている場合ではない。これは犯罪現場である。律法の安息日規定を破ったことの、目撃者にいま私はなったのだ。周囲の仲間も皆、肯いている。これは報告しなければならない。会堂での出来事は見た。複数の証人がいるから、裁判でも、勝てる。
ユダヤの指導者たちには、隠れた本音があった。ローマ帝国の支配から解放されたいと考えている。
ファリサイ派は、ローマ帝国の支配を、メシアが現れて神が滅ぼすとよい、と思っている。自分たちが律法を守り、神を礼拝していれば、かつての北イスラエルや南ユダのような失態を犯すことなく、神が救い主を送って、イスラエルの正義を実現させてくれるものと信じている。
他方、ヘロデ大王とその一族によるユダヤの支配を支持するグループとして、ヘロデ党と呼ばれるものがあった。ローマ総督をユダヤから追い出して、かつてのヘロデを中心とした、イスラエルの自治を回復したいのだ。そのためには、ローマに反逆するという方法だけはとってはならない。ローマ帝国と友好関係を築き、機嫌をとっていつか友好的に自治を取り戻したいという方策を狙っている。
こうして、ファリサイ派とヘロデ党は、思い描いているシナリオは全く違うが、ローマ帝国からの支配を脱したいという方向性は一致している。ところで、このイエスの出現は、どちらにとっても邪魔なものだった。律法を守らない偽メシアによって、神の救いが遠のくに違いない、とファリサイ派は感じるだろう。派手なパフォーマンスを繰り返すイエスの言動は、ローマ帝国からすれば、だからユダヤは信用がおけない、と評するに十分な存在であろう。
あのイエスを消せ。互いの利益が結びついた。「どのようにしてイエスを殺そうかと相談を始めた」のであった。
さて、説教者には、懸念があった。どうも近年、教会で「サタン」とか「悪魔」とかいう言葉が、語られなくなってきているように思えてならない、というのだ。人をサタン呼ばわりすることは問題外であるが、リアルにサタンの攻撃や企みというものが感じられる霊性をもつ人にとっては、それに全く気づかず、また気づこうともしない教会組織がごろごろしていることに、我慢がならないのだ。
それもまた、「心が死んでいる」ことにはならないか。「手の萎えた人」というのは、二重の象徴であるかもしれない。サタンを気にせず、その実サタンに操られているような教会は、萎えているのである。枯れて、しおれているのである。但し、わずかにも希望はある。萎えたのは「片手」であるからだ。まだ、もう一方の手があるかもしれない。その萎えた手も、自分の心に逆らって信仰に縋るならば、伸びるかもしれないのである。
他方、現実に不自由を覚える人や困った立場に置かれた人がいる。その人が、教会の隣の席にいる。共に同じ神を礼拝する仲間として、辛い状態の人がいる。この人を見過ごして、恰も追い剥ぎに襲われた人を遠目に遠回りしながら通り過ぎた祭司やレビ人のように、触れまいとするようなことはないだろうか。否、私には、目がくらまされて、そのような人に気づきもしない、気づこうともいない、という方が、より深刻であると思う。
「どのようにしてイエスを殺そうか」というサタンの動きは、イエスの救いの成就のためには、ユダの裏切りのように、必要だったと言えるかもしれない。しかし、私たちはそのように分析してほくそ笑むようなことをしてはならない。そのような考えが、自分の中に起こらないように、戒めとしなければならないのである。
「どのようにして」が関心事であるということは、「イエスを殺す」ことはもう決定している、ということである。自分は神を信じないようにしよう。それはもう決意している。だが、それをどのように正当化しようか。言い訳にしようか。人間は、そのようなものの考え方をするものだ。先に結論があって、後から理由付けをする。そのような「人間」について弁えることが必要である。
キリストの受難を、いろいろな角度から思う週の始まりが、深い説教により与えられて、感謝するばかりである。