【メッセージ】ここから始まる物語
2025年4月13日

(マタイ27:32-56, 詩編22:1-9)
三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。(マタイ27:46)
◆強要せずに
学習塾では、短時間で多くのことを教えるのが普通です。じっくり過程を考えさせるようなことはできそうにありません。それに慣らされた子どもたちが、ゆっくり理解してゆくことを厭わしく思うようになるかもしれない、という危惧は抱いています。子どもたちを夜遅く外出させるなど、罪作りな仕事だと思うことがあります。
学習塾ではあっても、なにもかもただ教え込むというようなことは、少なくとも私はしたくないと考えています。確かに効率よく話は運びますが、生徒自らが解決に気づくようにしたいのです。自分で見出した結論は、身につき方がきっと違うでしょう。なかなかじっくりとそれができないのがもどかしいのですが、優れた教師は、きっとそうやって、子どもたちに気づかせてゆくのでしょう。
これが善だ、これが悪だ、と教条的に教えることは、教育ではないと思います。そのように教えこむことは、ある意味でやりやすいかもしれませんが、それは教育ではありません。ただの強要であり、洗脳です。権威を笠に着て、いいように相手の思考を支配することです。それは、ただロボット製品を生産するようなものです。
今日、そういうロボットさえ、AI機能を持つようになりましたから、自分で判断するようなマネさえしています。人間を操ることのほうが、もしかすると容易なのかもしれません。
イエスの十字架の時が近づいてきました。その姿は、キリスト者には貴くて、また思うだけで心が痛くなるものです。かといって、磔刑のキリスト像を教会に飾ることは、プロテスタント教会では、普通しません。木で組まれた十字架を、象徴的に掲げることはしても、偶像を刻むな、というように聖書から聞いていると考えていますから、十字架のイエスの像をそこに置こう、とは普通考えないものです。
フランシスコ・デ・スルバランという17世紀の画家の描いた、ある絵が非常に有名です。「神の仔羊」と呼ばれているもので、手足を縛られた小羊がくたっと倒れています。これから生け贄として屠られるであろうことは、素人目にも分かります。リアルな質感が、この小羊の現実性を増しており、これがイエス・キリストを表していると信じる者は、正視できないほどの迫力を覚え、息苦しくなります。
この絵から、そのような息苦しい気持ちを与えられるのは、何故でしょう。絵が生理学的な物質を出しているわけではありません。ただこの絵を見る者が、自分の心に湧き起こるものを覚えるだけです。しかし、この絵を見た者は苦しく思わなければならない、と押しつけることはありません。こう感じなければならない、と強要することはないのです。
聖書もまた、人に理解を押しつけることはありません。このように解釈しなければならない、と強要はしないのです。読む人、聞く人が、自ら気づくように、自ら感じるように、と祈りながら、私も聖書を語ります。私が読み方を決めて教えるようなことは致しません。神は、ただ人に聖書を見せます。私もまた、聖書をお話しします。神は、その聖書の言葉の中から、人が自ら解決を見つけるようにすることを求めています。子どもたちに自ら気づくように場を備える、あの優れた教師と、どこか似ていると思うのです。神はそうやって、待っている。目を細めて、見守る眼差しを送りながら、聖書の言葉を届けているように思われてなりません。
◆人間の悪
イエスの十字架の時が近づいた、と申しました。一連の記事の続きとしてそうなのだ、という他に、キリスト教の用いる暦の中に、確かにこの時期、イエスの十字架の死を記念する時期が決められているからです。
2025年では、今日4月13日が、十字架への一週間が始まる特別な礼拝だと決められています。この日曜日は「棕櫚の聖日」などとも呼ばれ、ヨハネ伝の描写が視覚的な印象に残ります。人々はイエスをエルサレムに迎えるとき、棕櫚の枝を手にして歓迎した、というからです。尤も、近年の聖書では「なつめやし」と訳されていますので、「棕櫚」と言われても気づかないかもしれませんけれども。
なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。/「ホサナ。/主の名によって来られる方に、祝福があるようにイスラエルの王に。(ヨハネ12:13)
イエスをこのように熱烈に歓迎した、大勢の人々。それがその後間もなく、手のひらを返したように、イエスを死刑にしろと怒号を挙げる群衆に変貌してしまいます。
私はこのことを、万人の戒めとして、もっと強調しなければならない、と思っています。ここに、自分の姿を、人間の姿を重ねて見ることができなかったら、人間は、どうやって罪を知ることができるのだろうか、とさえ思います。
人間は、こうまで悪いことができるのだ、ということを我が事として捉えることがなかったら、救いへの道などあり得ないと言ってよいのです。
思えば、聖書には「悪」という語がたくさん用いられますが、何が「悪」であるのか、「悪」とは何か、明確に説明をしているようには見えません。そもそもそうした「説明」をしようとする意図が、聖書という世界には全くない、とも言えます。ギリシア以来の哲学が何らかの「定義」をしようとするときに、あれこれと言い回しが提出されて、概念規定をはっきりさせようとしたわけで、そうやって「神学」が築かれていったのは確かです。
従って、「悪」とは何か、を問うことにさえ、危険が伴います。自説を貫くことで、人間は自分自身の正しさを主張したくてたまらなくなる生き物だからです。むしろ、人間が「悪」だと呼ぶものは何であるか、というと、それは人間が神に反したことを考えたり、行ったりしたときに、それを「悪」と呼ぶようにした、と逆に捉えてみては如何でしょうか。
つまり「悪」なるものがかくかくしかじかと定義されるのではなく、人間が主体となる言動について、それを「悪」と呼ぶのが聖書の言葉の用い方だ、という考え方です。
◆自分の善
私たち人間には、神の思いは分かりません。想像はしますが、究極的なところは分かりません。人間同士であっても、他人の心が分からないのですから、まして神について知り尽くすことなど、できるはずがありません。それでも、聖書というものが、神の眼差しに見えた領域を、幾らかでも伝えてくれるのではないか。そこから神を見上げる場所を用意してくれているのではないか。
神は、イスラエルという民族を通して、神に背を向けることを「悪」と呼ぶのだ、と教えているように見えます。神は、恐らく「悪」なるものについて、明確にご存じなのです。それを「律法」という形で授けたのだ、と考えるべきなのでしょう。「律法」は確かに、神の思いを示していたはずなのですが、それが人間の「言葉」によって記されるしかなかったものですから、その「言葉」の解釈が、人間の手に委ねられることとなりました。
神の言葉を尊重する気持ちはあったのです。ありすぎたのです。人間の判断が「悪」を捉え損なうことによって、自分の「悪」に気づかないままに、暴走していった――そこに、ファリサイ派などの問題があったのだ、とイエスが闘ったのではないか、という気がします。
自分の判断する「律法」を、自分は守れているが、あの者たちは守れていない。従ってあの者たちは「悪」である。「悪」が勝手に定められてゆく。果たしてそうなのか――イエスの眼差しが、それを私に問うてきます。イエスを見上げるとき、私たちはそれを問われているように感じます。イエスは、そのループを壊すために、人に問いかけるのです。決して、これが「悪」だ、と決めて教えるのではなくて、「もっと悩め、考えろ」と差し戻そうとするのです。
おまえの決めた「悪」、そしておまえが決めつけている、自分の「善」。そうしたものがおまえの世界を彩っているかもしれないが、何か「違う」ものがあるのではないか、と問いかけます。
39:そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスを罵って、
40:言った。「神殿を壊し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
41:同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。
42:「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。
43:彼は神に頼ってきた。お望みならば、神が今、救ってくださるように。『私は神の子だ』と言っていたのだから。」
こんな罵声を浴びせたのは、おまえにとって、「誰か他の人」であって、「自分ではない」と言い切れるのか。
◆神の沈黙
十字架刑は、世にも残酷な刑だと言われています。死に至るまでの苦痛の強さと長さの点が指摘されます。もちろん死刑に残酷でないものがあるのか、と問われればそれまでなのですが、見た目が残酷であっても、早くに死に至るのであれば、苦痛の長さはないかもしれません。十字架刑は、自分の体重が自分を苦しめ、しかもそこから逃れる術がありません。内蔵からじわじわと冒されてゆく苦痛を退けることができないと言われます。
45:さて、昼の十二時から全地は暗くなり、三時に及んだ。
46:三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。
記録によると、イエスは、その絶命までの時間が、比較的身近だったと考えられています。ヨハネ伝によると、同時に十字架に架けられた三人のうち、イエスだけがその脚を折られなかったそうです。いろいろな説明がありますが、支える脚を無効にすることで、死期を早める意味があった、という理解がひとつあります。苦しみを短くしてやろう、という情けであるように見えますが、イエスはそれをするまでもなく、すでに死んでいた、ということが示されているわけです。お陰で、復活のときに、折れた脚で立ち上がる問題を避けることができました。
この「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という言葉は壮絶です。「十字架上の七つの言葉」などといって、福音書の中で、十字架の上でイエスが発した言葉の一つひとつに、意味を見出そうとする試みです。マタイ伝では、この一つの言葉だけを遺して、イエスは息を引き取ります。今日は、この言葉を中心に据えて、聖書を読んでいきます。
絶望的な言葉ですが、そのことはもう少し後で申し上げます。いまは、ここに「神の沈黙」があったことを感じ取りたいと思います。父なる神は、子なるイエスのこの十字架での苦しみに対して、何の応答もしていなかったようなのです。群衆が、「神の子なら、自分を救ってみろ」とか、「お望みならば、神が今、救ってくださるように」とか、悪口を叩いたときにも、神は何の反応もしませんでした。
いえ、ここへくるまでに、イエスこそ、沈黙を続けていたのではなかったでしょうか。二つの裁判の中で、わずかに口を開いたことはあるものの、特にピラトの前では、イエスは沈黙を貫いていました。反論もしませんでした。反発の声を挙げたとも言えません。
私たちの祈りについては、どうでしょう。神は反応を示したでしょうか。私たちの神も、時に沈黙します。時に、恵みの奇蹟を見せてくださいます。時に、それはいけないと叱責をくれることがあります。けれども、大抵の場合は、沈黙なさらないでしょうか。
モーセが、何かと神に伺いを立て、親しく主と話した、というようなことは、私たちの身には普通起こりません。遠藤周作の『沈黙』の中に共感を覚えるのは、私たちも、神のだんまりを経験しているからではないかと思うのです。
50:しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。
◆そこに自分がいた
裁判後、イエスが息を引き取るまでのこの場面では、幾つかの出来事や登場人物が目を惹きます。
32:兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、この人を徴用し、イエスの十字架を担がせた。
37:イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。
38:同時に、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられた。
46:三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。
47:そこに立っていた何人かが、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言った。
48:するとすぐ、そのうちの一人が走り寄り、海綿を取って酢を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませた。
それぞれに、立ち止まって味わおうとすれば、しばらく分かち合う何かが得られるような場面です。しかし、いま私たちは、そうしている暇はありません。皆さまが、これからの受難週の中で、一つひとつじっくりと噛みしめてゆくことを願っています。いまこの場面を横目で見た私たちが、それぞれに何かを受け止めるとよいのです。それぞれが、何かに気づくとよいのです。何かを感じることが必要です。それは、神とつながることでもあるからです。神との関係を結ぶことが、救いになるのです。
ただ、「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」(27:42)という、権力者たちがぶつけた蔑みの言葉にだけは、どうしても立ち止まることに致しましょう。それは、先ほど私が、人間の悪を捉え、また自分を正当化することがある、と指摘したところで少し取り上げかけていた箇所です。
何故か。私ははっきりと、ここに、自分がいることを知らされたことがあったからです。それは、私が神に脳天を殴られ、惨めな姿で引きずり出されたときのことでした。それまで、自分はキリスト教がこの世界にもたらした悪を成敗してやる、という意気込みで哲学を営んでいました。それが、この烏合の衆のようななりをした中で、先頭に立って「十字架につけろ」と叫んでいた自分であることを、後に知ることとなりました。
手のひらを返したように、イエスを死刑にしろと罵声を浴びせました。そして、そこから降りる超能力でも見せてくれたら「信じてやろう」と、高飛車な態度で嘲笑っていました。しかもこの記事を、誰か他人がした悪いこと、というくらいにしか感じないのが、世の常であっただろうと思います。おやおや、こんな悪いことを言っている人がいるぞ、その言っている本人こそが、罪人ではないか、と冷ややかに見ているのです。自分とは関係がない、という前提でしか、イエスの出来事を眺めることができないのです。
残念なことですが、教会でリーダーシップを執っているような人の中にも、そのような人がいることを知っています。そのような人物を、教会の代表のように立てた「教会」は不幸です。黙示録の扱いからならば、「災いだ」という嘆きが聞こえてくるかもしれません。
◆受難週をどう迎えるか
復活祭は、必ず日曜日になるように定められています。十字架刑は、そこから数えて三日前の金曜日だという計算になります。安息日に入る前にイエスは墓に葬られましたから、金曜日の午前から刑が執行されていたことになります。金曜日に礼拝を執り行う教会もありますが、日曜日の礼拝としては、復活祭の一週前の日曜日を、受難週の礼拝として、キリストの十字架を思う時として用いるのが普通です。
そして、一週間、十字架の受難を思って過ごします。キリスト者として、最も重い心を抱えて過ごす週であろうと思われます。この週を、悲しみの極みとして体験してゆくプログラムをつくる教会もあるそうです。何の思い入れもなく、日常的ないつもの一週間を過ごす教会もあります。イースターの朝の卵や、祝会の準備だけに勤しむ教会もあります。日本では特にこの頃は、春の異動の慌ただしさが漂います。ああ、そういえば、と気づけばイースター礼拝なんだな、という程度の人も、いるかもしれません。
マタイ伝ひとつとっても、まだまだこの記事の中に、注目すべきところはたくさんあります。垂れ幕が裂けた事件は、神と人との隔てが取り去られた象徴だと説く人もいれば、それはただの脚色に過ぎない、と言い捨てる学者もいます。墓が発かれた復活劇を、マタイ伝の奇妙さだと揶揄するような研究者もいます。
「まことに、この人は神の子だった」と言った百人隊長と下っ端の見張りの者たちについて、これは呆れた意味での疑問文ではないか、と解釈する人もいます。「大勢の女たちが遠くから見守っていた」として、逃げ出さなかった女たちを称える自称フェミニストもいますが、自分は差別などしていない、と豪語する人ほど、信用のおけない者もありますまい。
イエスの受難を、私たちは見ます。不条理な裁判でした。もし復活というものがなかったら、まるで意義のない苦難でした。不条理な苦難と言えば、旧約聖書のヨブの話を思い起こします。正に、故無き苦難を強いられた物語でした。しかし、そもそも苦難というものに、理由がなければならない、ということがあるのでしょうか。
私たちは、理由というものを求めすぎているのかもしれません。何か自分が安心できる「理由」というものがあれば安心できる、と、中毒のように求めているのではないか、と思うことがあります。「信じる」ためにも、何か理由がなければならない、という前提に立っているのは、何も信じない人々だけではなく、信じる側の人々も、信じる理由を探していることがあるような気がしてなりません。
「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」というような偽りの信仰であってよいはずがありません。ただイエスの声を、自分が聴くことでよいのではないのでしょうか。私たちがそれぞれに、聖書の中から声を聴くことから、いまここで始めることが必要なのではないのでしょうか。
◆絶望から始まる物語
イエスの放った声が響きます。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」
この「見捨てる」という言葉は悲痛です。そこには絶望しかありません。しかし、ある旧約聖書学者が、興味深いことを指摘していました。――創世記で人が創造されたとき、男のあばら骨から女を造った記事があります。このとき「こういうわけで、男は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2:24)という文があります。「父母を離れて」と訳されていますが、その語は別の場面では、よく「棄てる」というように訳されている、というのです。
そのため、この父母についても、男は「父母を棄てて」妻と結ばれるのだ、という見方をして然るべきだ、と語られていました。しかし逆に言えば、聖書で「棄てる」という邦訳を見たとき、その言葉に「離れる」というニュアンスを感じ取ることも可能であることになります。すると、先ほどのイエスの叫びは、このように聞こえる可能性がある、ということになります。
「わが神、わが神、なぜ私を離れたのですか。」
ただ棄てられただけではなく、神がいま離れている。このような受け止め方は、私たちも実はしばしば感じていることのように思えます。祈りが届かない。願ったことが叶わない。ああ、神はいま私から離れている、と感じます。神の前に、よくない考えを起こした。よくないことをした。ああ、いま私は神から離れている。神と自分との距離を覚えるわけです。後者であれば、人の弱さや信仰の揺らぎというものを強く感じていることになります。
イエスの姿は、私の覚える様々な場面につながることができます。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」ということも、自分としては神を礼拝する思いで発することがあるかもしれません。神に向かっているからです。神に背を向けていないからです。イエスもまた、十字架の上で礼拝を続けているのだ――そう語った説教者がいました。
私たちもまた、神に賛美したくても歌えないことがあるでしょう。しかし、それでも神の名を呼ぶことを止めたくない。絶望する私を、神に受け止めてほしいのです。それは、神を信頼しているからにほかなりません。どんなに惨めで汚れた私であっても、神を仰ぎ続けことができるという意志を貫きます。絶望していても、神を礼拝することができるのです。
その説教者は、希望を告げました。あなたは絶望してもよいのだ、と。否、安心して絶望の祈りを神に向けることができるではないか、と声を届けます。そこにイエスがいるのだから、安心して絶望してよいのだ、と。私はその言葉に励まされました。だからいままた、その言葉であなたを助けられたら、と願います。
それはあなたに強制するものではありません。ただあなたに問いかけています。あなたはどうするのか、待っています。他の誰でもない、正にあなたというかけがえのないただ一人の人が、ここから始まる神の救いの歴史の物語を、生み出し始めることを、十字架の上でイエスは待っているのです。そして、いまあなたから、ひとつの新しい物語が始まることになるのです。