100分de名著『ねじまき鳥クロニクル』

2025年4月10日

すでに今月、最初の月曜日から、Eテレの月曜日の夜、新しい100分de名著シリーズが始まっている。今月は、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』が取り上げられた。
 
存命の作家の作品が取り上げられるのは、この番組としては珍しい。ナオミ・クラインくらいしか思い出せない。ピーター・マクミランもいたが、「百人一首」の訳者としてであるから、著作とは少しニュアンスが異なる。
 
ともあれ、天下の村上春樹である。どの作品を選ぶか、これはスタッフも頭を悩ませてのではないか。『ノルウェイの森』はよく知られているし、『海辺のカフカ』の評判もいい。『1Q84』も宗教を扱ったものとして特筆すべきだし、私は『騎士団長殺し』は好きだった。『ドライブ・マイ・カー』は映画での成功でも目立っている。
 
しかし、ここで選ばれたのは『ねじまき鳥クロニクル』であった。1994年から翌年にかけて書かれたもので、その成立の経緯などは、本テキストに詳しい。まずは番組をご覧くだされば十分だが、より詳しい記述や、資料的な意味もこめて、関心をもたれた方は、テキストをお手元に入手することをお薦めする。これは、この「100分de名著」の番組に関して、私がいつも申し上げることである。
 
村上春樹は、どちらかというと、プロットをきちんと組み立ててから書くタイプではない。キャラクターが自由に活動をしてゆく、というふうに語ったこともあったと思う。しかし、作品の仕上げに関しては、実に細かく幾度も推敲をしていると記憶する。行き届いた点検があるために、単純な破綻はないと思う。
 
だが、謎が回収されない、ということはよくある。何もかもが伏線として位置し、解決してゆく、という方法をとらないためであるし、また一つひとつ答えを出してしまう、ということを嫌うからであるとも思われる。読者は、いくぶん消化不良気味のまま、読後に放り出されところもあり、あれはどうなった、あの人はそれでよかったのか、など、不可解なままに本が閉じられてしまうこともままあるものである。
 
小説そのものを辿ることは、ここではできない。また、それをどう解するのか、についてもここで明かしてゆけば、小説の味わいの醍醐味を奪うこととなる。だから私は、ひたすら宣伝に徹することにする。
 
担当は、ロシア文学関係の研究者である、沼野充義氏の解説による本書は、村上春樹とロシアとの関係もちらりと目配せをするなども面白いが、私にとっては、2013年から一年間ラジオで放送されていた、「英語で読む村上春樹」を聞いていたから、その講師だということで、思わず膝を打った次第である。
 
このテキストの表紙に掲げられた一番の呼び込みの文句は、「自らの闇を見つめる」とある。「闇」は「悪」と言い換えてもよいかもしれない。村上春樹の小説には、明確な悪が現れにくいような気がする。その中で、本作品の中の綿谷昇の存在は特異である。そして一人称で語る主人公の僕・岡田亨が、悪の権化という訳であるはずがなく、困難を乗りこえてゆく、読者が最も感情移入しなければならない存在であるにも関わらず、その「悪」あるいは「闇」と、どこかでつながってゆくような迷宮に、読者は入り込んでゆくようになる。
 
それは、計算ずくで仕掛けているようには思えない。どこかに鍵穴があるような気もしない。なんだか気がつかないうちに、その沼にはまりこんでしまうのである。私たちの日常というものは、きっとそうであろう。「俺たちは悪の組織だ」と名乗るような者は現実にはおらず、だが「悪の組織」は確かにある。「自分は悪人だ」とは決して思っていないような者たちが、世の悪を立派に形成しているという例は、いくらでも見かける。否、私自身もまた、その一人であるに違いないのだ。
 
講師は、「閉じない小説」だと指摘して、本解説を結ぶ。だが問題は、そこへ至る道のりである。文学は、その過程があるからこその文学なのであり、それがすべてである。結論があって終わり、というのは、エンタメとしてはよいかもしれないが、人の心に爪痕を遺す文学とはなり得ない。
 
幾重にも謎が重なり、また象徴あるいはメタファーに心が揺り動かされつつ、読者は物語の中に入り込んでゆく。その体験が欲しいから、いくらかの費用と貴重な時間とを使って、文学に浸るのである。
 
中には、おぞましい場面もある。小説を読んでも、ストーリーを忘れてしまうことの多い私だが、この酷い場面は、心からなかなか離れない。一度読んだら、その恐怖に震え上がるような場面がある。だが、ひたすら恐怖を煽るためにそれが書かれているのではない。この点、最初に本書を読んだときには知らなかったが、その後村上春樹が、生い立ちのようなことを語った本を出したときに、その場面の意味について少し知るような気がしたことを覚えている。
 
その場面も、確かに「悪」を描いていた。そしてキリスト教は「原罪」という概念を用いて、「悪」について説明をする。カントは哲学者として、そこから「根本悪」を説明したが、それは道徳の原理に基づくものであった。いま、キリスト教会は、「悪」について語らなくなった。「罪」という言葉すら語らない教会が少なくない。たとえ口先だけ「罪」という言葉を使っていても、語る本人が何にも「罪」の恐ろしさを知らず、従ってそこからの「救い」の経験がない、という事実をも、私は知っている。いわば、「薄っぺらい言葉尻としての罪」だけが安売りされている状態なのである。
 
「罪」の怖さ、「悪」のおぞましさ、そうしたものを知ることなく、教義やうわべの言葉だけで「悪」や「罪」を説明して、キリスト教はそれをよく知っている、というような説明を加える教会の説教があるならば、せめて本テキストを一度ご覧になるといい。そして直に村上春樹に触れ、「悪」とは何か、人間の中の「闇」について考えるだけでもいいから、自分自身について問うとよいと思う。
 
本テキストの中でさりげなく、こんなフレーズがある。「自分の中にある悪を見据えない限り悪を破るということは語れない」というのだ。これを見落とさない読者は幸いである。



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