子どもの眼

2025年4月8日

公園に大きな噴水があった。中央の噴き出し口が堂々と立派な体を成している。その周りを、浅い人工の池が円く取り囲んでいる。
 
小学校に就学前であろう子どもたちが二人、寝そべって、水の方に手を伸ばしていた。兄弟のように見える。危ないなあ、と直感的に思った。
 
見回すと、少し離れたところに、親らしい人がいた。子どもたちを見守っている、というふうではなく、スマホに熱中しているように見えた。
 
言うまでもなく、子どもは比率的に頭が重い。頭が先へ出ると、重心が大きく変わる。時折、ベランダから落ちたというような事故が聞かれるが、大人の体とはバランスが異なるため、大人の思惑とは違う結果を招いてしまうのだ。この噴水においても、頭が明らかに水面の上に出ているのだから、何かの拍子に落ちこむ危険は、当然あるものと見なければならない状態であった。
 
人間は、顔が浸かるだけの水があれば、溺死する可能性は十分にある。浅い溝でも、うつ伏せになればそうなってしまうし、甚だしくは、洗面所で溺死することもあり得るのだ。
 
でも、さすがに目の前で子どもが水に落ちたら、親はすぐに気づくだろう。この場で、命を落とすような事故になることはない。親としては、そのように考えていたのかもしれない。
 
私の見解は違う。子どもにとって、水に触るのは楽しいからそうするのであるが、「このように遊んでもよい」というふうに覚えてしまうことが、怖いのである。親が許しているのであるから、「これはしてもよいことだ」と子どもに教えていることになる。
 
日頃、危ないことについては、親は「だめ」と教えているはずだ。子どもはそうやって、「してはいけないこと」を学習する。それは逆に言えば、「だめ」と言われないことについては、「してもよい」として覚えることになる、ということである。
 
横断歩道が近くにあるのに、親が小さな子の手を引いて道路を渡るのを見ることがある。あれも、道路をそのように渡ってよい、ということを子どもに教えていることになっている。赤信号を渡る大人を見て、幼い子どもは、真似をするのではないか。よほど小学校で、信頼のおける先生に出会って、「いけません」と教えられていないと、方向転換はできないと思われる。そうなると、逆に「おかあさん、それはだめだよ」という考えを親に告げることもできる。しかし、幼い子にとり、親は絶対の存在である。虐待する親に対しても、最後まで信頼していたという報道を、悲しい気持ちで何度耳にしたことか。
 
子どもに対して、教育するという責任を、大人は担っている。自分の子どもに対してだけではない。小さな眼は、大人の私を、自分の将来として見るかもしれない。否、自分を支える世の中の大人の一人として見ることだろう。反面教師に見えるかもしれない。しかし、潜在的にであっても、何かしら模範のように感じることがあるかもしれない。
 
そのような目で見られている、ということを、大人はもっと自らに戒めていなければならないはずなのである。



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