隣人愛について
2025年4月7日

新年度が始まることで、新年度の標語のような聖句を発表する教会がある。その決め方が、当教会では、信徒から募集することになっている。それを役員会で話し合い、決めるのだそうだ。私の感覚だと、最終的には牧師へ一任することでよいような気がするのだが、ここではいわば民主的な決め方であると言ってよいかと思う。
聖書的に言うならば、律法の専門家が権威を以て決定してよいと思うのだが、一人ひとりが祭司であるというプロテスタントの心構えからすると、やはり皆が意見を発した方がいい。その人でなければ気づかないような、教会の中に潜む輝きの原石のようなものが指摘されて、それに「おお」と心動かされる人々によって、支持される、というのはよいことなのだ。
「どうして神がこの言葉を教会にくださったのか」と、説教者は告げた。たとえ話し合いで決めたものでも、それは神がくださった言葉だ、という信仰の表明である。他方、神がくれたのだから絶対的な権威をもつのだ、とでもいうように、上層部が勝手に決めたことを信徒の隅々にまで押しつけて圧迫するような教団も実在するから、たんに「こうすればよい」と言えないところが、信仰が生きている、ということの実情ではないか、とも思う。
いずれにしても、今年度の聖句には、次の箇所が掲げられた。
隣人を自分のように愛しなさい。(マルコ12:31)
これを提案した人、支持した人、それぞれの胸に、それぞれの思いがあったことだろうと思う。イエスがこの言葉を口から発したのは、律法学者の一人が、イエスに謙虚に質問をしたときだった。この人物は、イエスの心に適っていた一人であっただろうと目されている。「あなたは神の国から遠くない」と言われたくらいである。
説教者は、受難週の出来事を、福音書の記述に基づいて、これは何曜日のことであろう、と一つひとつ辿った。それによると、今日のこの問答は、火曜日の出来事となるらしい。イエスの運命が、次第に十字架へと傾いてゆく中で、すでにその道の半ばである。
「あらゆる戒めのうちで、どれが第一でしょうか」と、彼は尋ねた。これに対してイエスは、二つの戒めを回答した。第一は「聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」である。そして第二は「隣人を自分のように愛しなさい」である。
戒めの最高峰をひとつ尋ねたはずが、イエスの回答は二つであった。これには、明確な理由がある、と説教者は告げる。見た目は二つであるが、これらは決して切り離すことができないからであるという。
ここから、加藤智神父についてのエピソードが始まる。仏門で得度までした人が、キリスト教会の門を敲き、英国国教会の司祭まで務めるが、2011年にカトリック教会としての司祭叙階の秘蹟を受ける。隣人への愛が、自分の中から相手を消し去ることではない、と気づかされるその証しを説教者が代弁するのだった。
ヘブライ語では、「隣人」という言葉と「友」という言葉とでは、基本的に違いがなく、訳し分けられているのだという。もちろん表現する語は様々あるはずなのだが、私たちのような、文化を異とする者が「隣人愛」と口にするときには、弁えておきたい視点である。キリストが、「友のために云々」と言うのを聞くときにも同様である。
イエスが挙げた二つの、戒めのトップは、結局一つのことだ、というのが今日の説教の大きなポイントの一つである。「神への愛」と「人への愛」とは一つである、と。説教者は後半で、このとき第三の愛を指摘する人もいる、と紹介した。それは「自分への愛」である。「隣人を自分のように愛しなさい」という言い方には、すでに「自分を愛すること」が前提されているからである。
「自分を愛すること」ができないと、精神的に問題が生じる。心理学的には、そういう捉え方がある。キリスト教関係でも、だいぶ前に、そのような観点から、神に愛されている自分を愛することを受け容れよう、と提言する本を読んだことがある。説教者もまた、「人を愛することで、自分を本当に愛することもできる」という考え方を示した。ただ、それはまず「神を愛することから始まる」というのが、キリスト者のスタンスである、ということは忘れない。
ちょうど今、レオン・モリスの『愛-聖書における愛の研究』という本を読み進めているところである。とにかく聖書の中に出てくる「愛」という言葉と概念について、実に細かく検討している。加藤常昭先生は、この本を非常によくできていると評価しながらも、必ずしも著者の考えに全部賛成することはできない、と書いていた。私はまだ全容を把握していないから、その点は保留するが、少なくともこの本では、「自己愛」というものを弁明はしない、という態度が窺えた。どのような説明をつけようが、「自己愛」という捉え方を肯定して、善いもののように見なすことは危険だ、とするのである。
「神への愛」「人への愛」そして「自分への愛」については、安易に言い切ってしまわない方がよさそうだ。近年の世相には、自分を大切にできない病理もあれば、自分を大切にしすぎる病理とが見られるような気がする。それらは別々の現象であるのか、それとも、何かしらある一つの原理が、二つの双極的な姿で立ち現れてきたものなのか、それはいま私にはとりたてて言うことはできない。
牧師という職務は、牧会という任務を負う。牧会とは、魂の配慮のことである、という理解の仕方もある。牧師の前に現れる人は、とにかく様々であるだろう。野球で言えば、どんな球種を投げてくるか全く分からないし、下手をすると、三塁手がいきなり投球してくるかもしれない。時を問わず電話をかけて自分をかき乱すような人をも、「愛すること」が求められる。説教者は、一般の人の立場で語ったと思うが、私には、牧師職における経験を踏まえてのことではなかったかと思う。この「愛すること」は、同時にまた「赦すこと」でもあり、それは実のところ、相手を「解き放つ」ことでもあるのだ、と説いた。
これはなかなか深い。何かに囚われているから、捕らえられているから、相手はそのような態度に出るのだ。相手がとにかく究極の悪なのだ、という決めつけ方を、私の方から外すことが、きっとできるはずだ。そのとき「赦すこと」が必要になるのだろう。すると相手もまた、縛られていた何かから「解き放たれる」ことができるかもしれない。
そこに神が介入していたら、それは「救い」となることだろう。この「愛すること」は、人間のやせ我慢で実行できることではない。説教者は実例を挙げる中で、「そのままでいるのはシャク(癪)ではないか」という人間の心理を複数回示した。人間はどうしても、腹が立ってしまうのである。だが、それを超える働きが、私の外から及ぶことができる。「神の愛」である。
これらの関係は、単純に応報的な説明で済まされるものではない。神に愛されていること、そして神に仕えること、こうしたものが、一筋の中でつながってゆくのは、一種の神秘体験かもしれない。だが、それは神との出会いにおいて、必要な体験であるはずだと私は思う。
この4月から、第2日曜の午前に放送される「NHK宗教の時間」では、ヘンリ・ナウエンが取り上げられる。半年間で全6回のシリーズであるが、すでにそのテキストが販売されている。私は早速購入して、いま半分余りを読んだところである講座のタイトルは「傷ついた癒やし人となる」であり、その本(邦題は『傷ついた癒し人となる』と表記が異なる)を私は今年偶然読んだところだったので、このテキストにはすぐに飛びついたわけだ。
その本の解説かと思ったら、どうやらヘンリ・ナウエンという人の紹介と、様々な著書から人物像を浮かび上がらせ、その思想が、必ずしも信仰を前提にしなくても、あなたの心を力づけることになるだろう、というような方向性をもつテキストのようである。NHKの放送としては、それはそれでよいかと思う。
偶々今日読んでいたところで、「孤独」という大きなテーマが扱われていた。「孤独」には二つの英訳があるという。lonelinessとsolitudeである。前者は、独りぼっちの寂しさを表すが、後者は寂しさは含まれないという。ナウエンはsolitudeを、「神が招く場、神とともに創り出す場、神と共有する場」と考えたのだ、と紹介している。つまり「神とひとりになる」という、逆説的な表現がここに成り立つのであった。
しかも、solotudeとは「自分と神だけの場ではない」とも言う。「神とひとりになる」というのは、「神と繋がっているほかの人たちと、自分が繋がること」をも意味するのだ、と解説している。それは排他的なものではなく、「孤独であっても一人ではない」というのである。
この説得のために、テキストの著者である酒井陽介氏(上智大学)は、そこまでに、ヘンリ・ナウエンが孤独な人生を歩んでいたことを、たっぷりと聞かせていた。彼が見出した、孤独でありながら一人ではない、ということが、神と共にあることなのだ、ということは、キリスト者ならばきっと誰でもすぐに分かる。しかし、彼が人生の最も辛い経験をした時期に生まれたこの捉え方は、現実の人間関係の中でも、孤独を超えてゆくものとなったのであった。こうしてヘンリ・ナウエンは、知的ハンディをもつ人々のためのグループ・ホームで暮らす人生へと進んでゆくことになるのだろう。
傷ついた者だからこそ分かる、真の癒やし。本書がそのゴールに着きたかったからこそ、講座のタイトルが「傷ついた癒やし人となる」となったのであり、同題の本の解説を試みたものではなかった、ということになるのだろう。
ちょうど読んでいる本につながる内容の説教だったことを、ただのタイムリーな話題だ、と見なすのは簡単かもしれないが、私はかなり満たされた思いを懐くこととなった。そして本といえば、説教の最後に紹介された野村祐之さんのことをさらに知りたくなって、その著書を見つけて、早速注文したところである。イエスの十字架刑の様を描いた映像を見たのが、肝臓移植を受けるときであったという。臓器提供者の死によって、自分は行かされることを痛感したという。そこから、「identity」という言葉ではなく、「wedentity」という考え方をするようになったそうだ。その辺りを検索してみたら、そういうTシャツの工房が現れてきた。ひとはいろいろ考え出すもののようである。
さて、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉が、出来事にこれからなるかどうかは、私たち一人ひとりの信仰と生き方に掛かってくる。まずは神の愛から始まるのであるが、そのためには、ヨハネの手紙なども添えてゆくとよいのかもしれない。その土台の上にあって、つまりキリストという岩に立った上で、「神と共に生きる」ことと直結した形の「ひとと共に生きる」ことが実現してゆくように、祈りたい。