【メッセージ】一言もお答えにならなかった

2025年4月6日

(マタイ27:1-31, 申命記32:28-29)

しかし、総督が非常に不思議に思うほどに、イエスはどんな訴えにも一言もお答えにならなかった。(マタイ27:14)
 
◆ユダの最期
 
ただの「裏切り者の最期」とするには惜しい。「ユダ」とくれば「裏切り者」という形容が結びつくかもしれませんが、特に近代人で、優しい気持ちの人でしょうか、考えました。これではユダが可哀相だ。イエスに十字架への引導を渡したのは、確かにユダです。しかし、それがなければ、イエスの十字架がなく、人類の救いももたらされなかった、とも考えられます。引き立て役を宛がわれた末地獄に落とされた、というのなら、ユダが気の毒でならない、と。
 
「生まれなかったほうが、その者のためによかった」(マタイ26:24)などともイエスに言われていますが、だったら何のために、ユダはいたのでしょうか。こういう視点が、時々与えられますし、多かれ少なかれ、聖書を読む人は感じたことがあるかもしれません。
 
だから神は……などと、神学の理論をここから構築しよう、とすることには、私は賛成しかねます。確かに神の業について思いを巡らすことは大切かと思いますが、自分の感想や感情で、神を評価するような真似は、したくないと考えるからです。
 
マタイ伝のこの場面でのユダの後悔と破滅については、ルカ伝にも記録がありますが、内容にかなり食い違いがあります。そのため、聖書の記事には信憑性がない、と言ってのける人もいます。それも一つの見方でしょぅが、歴史書というのは、えてしてそういうものでしょう。現代の歴史書が、互いにどんな一致と食い違いを以て描かれているか、考えてみるとよいかと思います。現代でも、書かれていることは本によりばらばらではないでしょうか。
 
それよりも、このユダの言動の中に、私たち自身の姿を見るようにした方が、読み方としては健全であるような気がします。
 
「私は罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と、ユダは後悔します。キリスト者だって皆、「罪を犯しました」と神の前に告白して、それから救いを受けたのです。しかし、ユダはこの後、自ら首をくくります。
 
自死については、デリケートに言及しなければなりません。少し前までは、それは罪だ、と突き放すような言い方をするクリスチャンも少なからずいたのです。でも、名高い説教者でも、自死に至った人がいます。聖書が禁じている、と言う人もいますが、そう解釈することはあるにしても、それほどはっきり記されているわけではありません。
 
要するに、傍観者が自由に他人を非難しているのです。パウロだって、生きながらえるべきかどうか心が分かれている、といった思いを綴ったことがありました。こうした点をもっと考慮して、慎重に扱いたいものです。増して、殉教者を貶めるような言い方も、あるいは逆にそれを英雄視するような言い方も、当事者でもないのに軽々しく口にするのは控えたほうがよいのではないか、と思います。このような私の発言によって傷ついた人に対しては、ただ謝ります。以後、耳を塞いでくださっても結構です。
 
◆沈黙のイエス
 
今日は、イエスの裁判の席に注目します。
 
1:夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺すために協議した。
2:そして、イエスを縛って連れ出し、総督ピラトに引き渡した。
 
ユダヤの権力者サイドの目的は、イエスを殺すことでした。政治的には、詳しい方の解説を学ばれたらよいかと思いますが、要するに、「死刑」という法的な措置がとれるのは、ローマ政府だけでした。自治領のようなユダヤには、法的に死刑にする力が与えられていなかったわけです。
 
ローマ帝国からユダヤに派遣されていたのは、ピラトという総督でした。「総督」と訳してよいのかどうかなど、歴史を知る人からすれば問題があるようです。「長官」とか「知事」とか、私たちのイメージに近い言葉もあるようですが、それもまた、歴史学者などの議論にお任せすることにしましょう。
 
11:さて、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前はユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることだ」と言われた。
12:しかし、祭司長たちや長老たちから訴えがなされたときは、何もお答えにならなかった。
13:すると、ピラトは、「聞こえないのか。あんなにお前に不利な証言をしているのに」と言った。
14:しかし、総督が非常に不思議に思うほどに、イエスはどんな訴えにも一言もお答えにならなかった。
 
思い出すのは、ユダとの会話です。
 
イエスを裏切ろうとしていたユダが、「先生、まさか私のことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」(マタイ26:25)
 
ピラトが「お前はユダヤ人の王なのか」とイエスに問うたときにも、イエスは「それは、あなたが言っていることだ」と応えています。ユダの場合は、言ったのは過去のことであり、ピラトの場合は、現在です。ユダとは長く付き合っていましたが、ピラトとは初対面です。この言葉には、深い読み取りが可能でしょうが、それは各自の理解と解釈にお任せしましょう。
 
注意したいのは、ユダヤ側に対しても、イエスは同様に応えている点です。ここも、過去のことを表して、同様に返答しています。
 
大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。……(マタイ26:63-64)
 
ここから、相手を怒らせるに決定的な言葉をイエスは述べますが、そこから、イエスはもう何も語らなくなります。久しぶりに口を開いたのが、このピラトの問いかけに対してでした。
 
こうして、イエスはもう言葉を発しなくなります。祭司長たちや長老たちが何やら訴えたときも、もう答えることはありませんでした。それを見てピラトが「聞こえないのか」と問うても、「総督が非常に不思議に思うほどに、イエスはどんな訴えにも一言もお答えにならなかった」のでした。
 
イエスの沈黙が始まりました。この後イエスは、十字架の上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言ったことを除いては、叫んで息を引き取ったことしか書かれてありません。イエスの声は、この父への祈りと叫びのほか、人間に対しては、このピラトの前にて終了するのです。
 
私たちが、もし「神の沈黙」を感じているとしたら、このイエスの沈黙に、もっと注目してよいのではないかと思います。そして、マタイ伝が人間に対するイエスの声として最後に載せた言葉、「それは、あなたが言っていることだ」に、思いを馳せたいと思うのです。このことは、もう少し後で考えてみることにします。
 
◆無為のピラト
 
15:ところで、祭りの度に、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。
16:時に、バラバ・イエスと言う名うての囚人がいた。
17:ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアと言われるイエスか。」
18:人々がイエスを引き渡したのは、妬みのためだと分かっていたからである。
 
ピラトは、イエスの中に、死刑にするほどの極悪な性質を見出せなかったようです。ローマという社会は、特に法に基づいて動いています。その徹底性は、現代でも、ローマ法を基本として法学が成り立っていると言われるほどです。特に民法への影響は非常に大きいと見られているようです。ですから、法の適用については、かなり合理的な理解を示していたと見なされ得るのです。
 
この有名な強盗バラバについては、人類の想像力かき立てるものがあるようです。ラーゲルクヴィストという作家が、『バラバ』という作品を呈しました。その後のバラバを自由に描いたものですが、1951年度にノーベル文学賞を受賞しています。
 
バラバも他の福音書では、暴動を起こし殺人を犯した者、あるいは強盗であったように書かれていますが、もしかするとユダヤ人の一種のリーダーとして、ローマに対して反乱を起こしたか計画したか、そういうところなのかもしれません。もちろん、ただの想像です。しかしそうだったら、民衆はバラバの釈放を求めるでしょうから、逆効果となったことになります。よく分かりません。やはり安易な想像に過ぎなかったかもしれません。
 
いわゆる「恩赦」という正当な法的措置により、訴えがあったとはいえ、イエスに極刑などを科すことから免れようとしたピラト。イエスをここに引き渡したのは、「妬み」の故だというところまでは、ピラトも見抜いていたことを、マタイ伝は説明しています。
 
19:ピラトが裁判の席に着いているとき、その妻が彼のもとに人をやって言わせた。「あの正しい人に関わらないでください。その方のために私は今日、夢で非常に苦しみました。」
 
ピラトの妻について言及したのはマタイ伝だけですが、まるで、イエスが「正しい人」であることを証拠立てるために登場したような感じになりました。
 
20:しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。
 
ピラトは無為というか、為すすべがありませんでした。ユダヤ教側は、暴動を起こしかねないほどに、イエスを「十字架につけろ」とのシュプレヒコールを繰り返します。ついにピラトは、「手の付けようがなく」、イエスを引き渡すことになります。そのため、ピラトの名は、「使徒信条」の中に挙げられて、全世界の教会で毎週、信仰の敵のように晒されることになりました。少しばかり気の毒な気もしますが、そういう感情をもってはいけないでしょうか。
 
◆傍観者
 
よく見ると、この場面で、ピラトは終始受け身に回っています。「総督」という地位は、決して望ましいものではなかったのかもしれません。皇帝とローマ政府の視線を恐れ、びくびくしているようにも見えるのです。地位にしがみつく小さな人間のようでもありますが、役人というのはそういうものなのでしょう。ことさらに、ピラトが自分の保身をしていた、と非難するのは、攻撃の方向が間違っているように思えてなりません。
 
先週のメッセージにおいて、皆さまへ告げました。ペトロを見た目で直ちに非難することへ、ブレーキをかけたつもりでした。他人事として眺める私たちが、とやかく言うことではないのです、と。
 
だから、ピラト自身をけなす資格は私たちにはありません。ピラトの姿勢から、何かを学ぶのはよいでしょう。ピラトのようにしたくはないものだ、と教えられるのであれば、まだよいかと思います。でも、ピラトを直ちに見下すようなことは、適切でないと思うのです。翻ってみれば、私たち自身は、ピラトどころの話ではなく、さらに何千倍も臆病で、まともな仕事ができていないのです。
 
キリスト教会の中に、政治の悪口を言うのが好きなタイプの指導者を時折見かけます。説教壇で、政治の悪口を言えば、ちょっと洒落ているし、教会らしい毅然とした態度をとっているように見られる、と思っているのかもしれません。政治は悪いものであり、政治は批判されるべきものだ、という前提を定めているかのようです。そして何よりも、悪い政治家を非難することで、語る者が正しい人であるように見せることができます。
 
様々に対立する意見や立場があるこの社会全体を、切り盛りすることは、並大抵のことではありません。神を信じる者だけが集まっている教会とは違うのです。神を信じない者は教会から追い出せばよいだけの話ですが、社会ではそうはいきません。政治家の悪口を言えば自分が正しい人になる、などという心理を、私は肯定することはできません。
 
自ら政治家となって労苦しているキリスト者であれば、いくらかは批判もできましょう。しかし、自分では何の責任ももつことがない社会のことで、批判は大切なのだ、と嘯いて、常に「正論」だけを振り撒いているような人は、要するに「傍観者」として、自分の言論の自由だけを押しつけているようなものです。
 
しかし、私たちはこの世で「傍観者」でいるわけではありません。ピラトがもし批判されるのだとしたら、この場面で「傍観者」になってしまったことでしょうか。
 
そして、自分が「正しい人」であるかのように振舞う「傍観者」は、キリストと出会った信仰者ではないような気がしてなりません。キリストと出会ったならば、神の国においても、地上の国においても、もはや「傍観者」でいることが、苦痛になると思うのです。
 
◆流される私たちv  
そこで、ここでは、次のことに目を移して神の声を聞きたいと思いました。ピラトが「この人の血について、私には責任がない。お前たちの問題だ」と、責任を逃れるような発言をした直後のことです。責任はユダヤ人たちにあるのだぞ、と脅したつもりだったと思われます。
 
25:民はこぞって答えた。「その血は、我々と我々の子らの上にかかってもいい。」
 
気づかれましたか。「祭司長たちや長老たち」が言ったのではないのです。「民」が言ったのです。もちろん、発端は祭司長たちや長老たちの訴えでした。その扇動に乗った一面があったのは確かでしょう。また、マタイ伝の記事からも、その疑いは十分理由をもつものです。
 
20:しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。
 
たとえ説得や扇動があったとしても、庶民は、その後、しっかりと「加害者」としての役割を果たすようになります。このとき、民はどういう心理だったでしょうか。恐らく、自分が「加害者」だという意識はなかっただろうと思います。自分には加害者意識のないままに、大きな圧力をかける言動を起こします。その圧力は、権力サイドの判断を形成することになりますから、権力が一方的に断罪を下すのではなく、民一般がそうさせているはずです。
 
が、「みんな」が同じ声を重ねる中で、自分一人の責任など全く感じない中で、そういう「無責任」な者が「みんな」をつくり、それを「正義」として重大な事態を起こしてしまいます。「みんな」が、無意識のうちに共謀して、「正しい人」となるのです。これは、ある意味で最も質が悪いものだと私は常々感じています。
 
空き缶がひとつ塀の上にでも置かれたら、それに続いて次々とまた誰かが置いていくのだそうです。独りで事を始める勇気がなくても、誰かがしていたら、「みんな」がやっているから構わない、というふうに自分に言い聞かせるのだろうと思います。
 
エスカレータは、いまやそこで歩くことは危険だという認識が、社会通念となってきています。良いことです。しかし、誰か一人が歩いて行くと、我も我もと後ろから歩く人がそれに続きます。
 
こういうのを見ると、私は危惧します。いま日本の中で「戦争はいけない」という意見が強くて、正義の顔をすることができている間はよいのですが、何かの拍子に「戦争は仕方がない」とか「戦争しなければならない」とかいうような声が大きくなると、それに乗じてぞろぞろと、その意見に加わっていき、社会全体がそのような声で染まっていくのだろう、と。つまり、人々は、考えに固執しているのではなくて、「みんな」の動きに同調したくなるものである、という危惧です。
 
自分の責任が露わにならない場所でなら、つまり匿名の場でなら、隠れ蓑に入ったかのように、人は堂々と暴言でも誹謗中傷でも吐くことができます。こうして炎上やネットいじめが加速します。しかも、それを「みんな」ですることで、「みんな」は「正しい人」になったつもりでいるのです。
 
私たちは、簡単に流されます。それを何者かが利用しようとさえしているのですが、自分は自律しているつもりで、流されてゆきます。極めて無自覚に、流されてしまうのです。流されることにより、今度は加害の側に回るのですが、それもまた、自覚されることがありません。
 
◆自己認識
 
聖書、とくに福音書は、そうした事態から護ってくれる可能性を与えてくれます。福音書の知識があれば、流されない――そうは申しません。が、幾らかでも、流されることに気づくチャンスを与えられるかもしれない、と思うのです。それは、聖書の中に身を置いて、自分がそこに登場している、ということを経験した場合です。やはり、「傍観者」ではいられない、ということと、これは関係しています。先ほど、「傍観者」でいることが苦痛になる、と言ったのは、そういうことなのです。
 
人は、自分のいる立場を棄てることはできません。自分の立つところから離れて自分を見ることは不可能です。自分から見える世界の中に、自分の姿をまるごと見ることができないのと同様です。自分の目は、自分の目を見ることができない、ということです。
 
聖書、とくに福音書は、この不可能なことを可能にします。神には不可能なことはないのです。そこに自分自身を登場させることを知るとき、人は自分の姿が分かります。神の前に出た自分がどのようであるのか、聖書の中に見ることができるのです。
 
だのに、せっかく福音書を読んでも、それを外からしか眺めることができないでいると、その体験ができません。クリスチャンと名のっていても、そのような見方でしか聖書を見ていない人は、事実います。その人は、依然として自分から見える世界だけを見ているに過ぎず、その世界の中に自分は登場しません。自分のことは、見えないのです。
 
他方、自分が福音書の場面の中にい風景を知ることができたら、それはイエスと出会うことができた、ということになります。そのとき、自分の位置を知ることができます。そうすると、流されそうになっている自分のことも、分かるのではないか。そう思います。
 
イエスがピラトに言いました。「それは、あなたが言っていることだ」と言いました。この言葉を、私も突きつけられます。イエスが対話の中で語った、最後の言葉です。これを突きつけられたとき、私はどう返答するでしょうか。
 
「聞こえないのか」といった言葉を、まさかイエスに向けはしないだろうと思うでしょうか。しかし、神に祈ってもその通りにならないとき、私たちはそのように言ったことがないのでしょうか。神に「聞こえないのか」、神には「耳がないのか」と。
 
私たちは、自分勝手に、自分の都合の好いように、神のイメージをつくってはいるかもしれない。そう疑う必要があろうかと思います。それを偶像に、してはいないでしょうか。あるいは、神はどうせこんなもの、と高を括っているようなことはないでしょうか。単に「それは、あなたが言っていることだ」と、イエスは気づかせようとしてくれているのであり、イエスの方こそが、私たちに向けて「聞こえないのか」と言いたいに違いないのであるのに。
 
◆イエスと出会うとき
 
極めて大切なメッセージをお届けしたつもりです。だから、と敢えて申しますが、これ以上くどくどと述べることは差し控えます。「何をいまさら当たり前のことを言っているのだ」と、ここまで聞いてお思いの方もいるだろうと思います。その人には、確かにもうくどくど説明する必要はないでしょう。
 
逆に、「おまえの言っている意味が全く分からない」という人もいるでしょう。幾ら聖書について知識があり、ギリシア語などの意味を詳しく知っていても、そして誰も気づかなかったギリシア語の活用を指摘して、伝統的な読み方をこき下ろすことができたとしても、こうして申し上げていることの意味が、分からない人には分からないのです。その人には、幾ら説明を加えても、伝わらないのです。「思慮のない国民」(申命記32:38)であれば、分かりません。「知恵があれば悟り/自分たちの行く末を理解した」(32:29)はずなのですが。
 
だから、風の中にも、地震の中にも、そして火の中にもおられない主が、「かすかにささやく声」(列王記上19:12)でエリヤに語りかけたように、心静まったあなたに、神はそっと呼びかけてくださるだろうと思います。「あなたはここで何をしているのか」(19:13)と、神はあなたに呼びかけてくださるのです。
 
あなたは、自分が福音書のこの光景の中にいることを、ご存じですね。まだの方は、知って戴きたいと思います。それは、イエスと出会う場です。イエスと出会う経験をするときです。
 
イエスは、ピラトに対しては、殊更に説明をしませんでした。ピラトに問いかけるような一瞬はありましたが、他は沈黙でした。「それは、あなたが言っていることだ」との言葉は、私にも向けられていたのでした。それは、あなたがイエスの前に出たときです。イエスとの出会いによって変えられたあなたに対しては、イエスは無言を通しはしません。聖書を通じて、命の言葉を、数多く与えてくださるでしょう
 
十字架と復活という救いの時は、このような春の出来事でした。この時期に、福音書のイエスと出会うならば、人に見える世界が変わるでしょう。自分もまた登場する世界です。神との交わりの中に、命を与えられたてる自分の姿が見える世界です。そのとき神はもはや沈黙なさらず、溢れ出す恵みを、「溢れるほどよく量って、懐に入れてくれる」(ルカ6:38)ことでしょう。



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