さもしさ
2025年4月4日

旧統一教会に、東京地裁が解散命令を出した。その法的な問題、社会的な意義については、すでに各新聞社が論評を出している。私の見た限りであるが、問題点を挙げながらも、被害者救済のために、解散命令を肯定する考えである。そうしなければ、新聞社としては成り立たないであろうという事情を抜きにしても、やはりそれは妥当な判断ではないかと思われる。
なお、かねてから「統一協会」との表記を私は使っていたが、今回は新聞報道を中心に扱うために、「旧統一教会」という報道の表記を用いることにする。
この決定に対しては、個人や団体により、意見は様々であるだろうと思われる。時事通信社によると、(以下引用)――「日本基督教団」は「刑法であれ民法であれ、不法行為をした宗教団体の法人格が取り消されるのは当然だ」と賛同。その上で、憲法では「信教の自由」が保障されており、「宗教活動まで剥奪されるわけではない」とした。(引用終わり)
他方、次は我が身かという虞を抱いたのかどうか知らないが、同じような目的を、もう少しおとなしい形で抱いていると思われる「幸福の科学」は、(以下引用)――文部科学省の解散請求は信教の自由を侵害しているとし、「『民法上の不法行為』を理由に(解散命令の)適用範囲が不当に拡大される恐れがある」と危惧した。(引用終わり)
旧統一教会の場合は、その「不法行為」が偶々のことではないし、少数事案というわけでもない。本来犯罪として処理して然るべきところを、法人格の取り消すだけに留まるのであるから、私の目には、寛大な措置のようにすら見える。もちろん、「信教の自由」そのものを奪うことにはならないので、宗教活動を禁ずるということにもあたらない。
そもそも旧統一教会は、根柢的には宗教団体と言えない。目的からすると、政治団体と言うべきだと考えられており、特にアメリカではそういう認識ではないかと思われる。日本でもそう言って差し支えないように見えることから、そのときには宗教は手段として用いられていることになる。この辺りのことは、昔から指摘が続いている。
被害者の訴えを、国や社会が支持する傾向になったのは、昔に比べれば、よくなったと言えるだろう。国が問題をこれまで放置していたために、被害も拡大した。いずれ、その責任や問題も、大きく取り上げられるだろう。たいへんな目に遭った人たちには、どう補償されも十分だとは言えないだろうが、本当に苦しい人々が、少しでも助けられるようになればよいと思う。
しかし、いまここで社会問題や法律問題についてお話ししようとしているわけではない。私はそちらには素人もいいところで、適切な根拠や意見を提示できる立場にはない。旧統一教会への、その措置の是非を定めようというつもりもない。
確かに、このまま法的に解散命令が最高裁でも肯定されれば、執行に移ることになるが、そうすれば、旧統一教会は、自民党との関係を全部晒すぞ、というようななりふり構わぬ態度に出るかもしれない。そこで特に野党の皆さんにお願いしたいことは、そのとき自民党を責めるようなことに急がないで戴きたい、ということだ。最高法院で、パウロが復活の教理を持ち出して、サドカイ派とファリサイ派とを対立させ、議論を混乱に陥れたという例を知って戴きたい。
あるいは、すでに指摘されているように、昔からある、キリスト教とは違う仏教の形で同じ目的の下に活動している「天地正教」(それにしても「正」とか「真理」とか「統一」とか、自ら名乗るこの手の団体が、なんと多いことだろう)に、資産を移すことで、実質的に痛手を負わないように「法」をとことん研究して画策しているとなると、今度は「被害者救済」に影響が出ることとなるし、政治的活動は同様に続くことになるから、実のところ政治の責任は決して小さくはないと言えるだろう。
ともかく、私の目を惹いたのは、TBSの報道にあったことだが、次の事実である。(以下引用)
東京地裁が旧統一教会に解散を命じたことを受け、教団側はきのう、公式ホームページ上に「お詫び」のコメントを載せていましたが、その後、削除していたことがわかりました。
旧統一教会をめぐっては、東京地裁がきのう、「信者によって行われた不法な献金行為で甚大な被害が生じた」として、解散を命じました。
これを受け、教団側はきのう午後3時半頃に公式ホームページ上でコメントを発表。
その末尾には「信徒の皆さまを始めとする多くの関係者の皆さま、国民の皆さまに多大なご心配やご不安をお掛けしたことについては、心からお詫び申し上げたいと思います」と綴られていました。
しかし、掲載からおよそ1時間後、この「お詫び」の文言が削除されていたことがわかりました。(引用終わり)
要するに、強気に出たということなのだが、解散命令の後で、一瞬でも、「お詫び」の言葉を出したのは、内部で意見のズレがあったのだろうと推測される。低姿勢を表に出したほうが有利との判断が早期にあったのだが、直ちに上層部から徹底抗戦を図れという声が強まったのであろう。あるいは、上層部そのものが揺れたのかもしれない。
これとケースが同じというわけではないが、私はふと、ダビデのある態度を思い出した。もちろん、旧統一教会の態度と同じだ、と言いたいのではない。だが、ダビデ王には悪いが、人間のさもしい一面が、頭に浮かんだのである。サムエル記下12;13-23の記事である。
バト・シェバとの不倫とその夫ウリヤの謀殺は、闇に葬られず、預言者ナタンにより発かれた。ダビデは自分のしたことが神に見抜かれていることと、それをナタンが指摘したにも拘わらず自ら気づくことがなかった点に、さすがに項垂れた。「私は主に罪を犯しました」と言うダビデに対して、ナタンは「主もまたあなたの罪を取り除かれる。あなたは死なない」と、赦しを宣言した。但し、ウリヤの妻がダビデによって孕んだ子は「必ず死ぬ」と宣言した。
ダビデは、「その子のために神に願い求め、断食をして引きこもり、夜を徹して地に伏した」が、七日目にその子は死ぬ。家臣たちは、それを王に知らせたら王の気が狂わないか、自死するかもしれない、と恐れていたが、ダビデは家臣たちの様子に結果を覚る。そして、「地から起き上がり、体を洗って香油を塗り、衣服を着替えて、主の家に入り、礼拝した。それから自分の家に帰り、料理の用意をさせ、食事をした」のであった。
家臣たちは、あれほど何も食べず祈り続けていたダビデが、子どもの死を知ると、あっさりとそれをやめ、食事までしたことを不思議がった。それはどうしてですか、と王に尋ねると、ダビデは答えた。
「子どもがまだ生きていたとき、私は断食して嘆き続けた。主が私を憐れみ、子どもを生かしてくださるかもしれないと思ったからだ。
23:しかし今、子どもは死んでしまった。私が断食したところで何の意味があろう。彼を呼び戻せるだろうか。私があの子のところへ行ったところで、あの子は私のところに戻っては来ない。」
「さもしい」という評価は、不適切であるかもしれない。ダビデが本当にそうだったか、については私は判断を控える。ただ、私がこのダビデだったら、きっとこう考えた。ざっくばらんに言うと、「よいこにしていればゆるしてもらえるかもしれない」と演技をするが、それがかなわないとなると、「よいこにしているのをやめる」わけだ。どうせ「よいこにしていても、ダメなんだ。あーあ、やめちゃえ」ということである。私のようなケチな人間には、その「さもしさ」がよく分かる。
曲がりなりにも、聖書を使って人々を引き寄せた旧統一教会である。「原理講論」を書いた人ももういないのだから、その本とは比較にならないほどに偉大な「聖書」の声にも、耳を傾けるとよいのではないだろうか。