119エマージェンシーコール

2025年4月2日

基本的に月曜日は定休日であるため、ちらちらと夜もテレビを見ることがある。妻が見ていたので、「119エマージェンシーコール」がかかっていた。引き込まれるものがあった。横浜市消防局の協力で、そこを舞台にすることにおいて、また車両や衣料などにおいてリアルさが伴い、丁寧な仕上がりのドラマとなっている。
 
ストーリーもシリアスで、また消防や救急関係の仕事の大変さがリスペクトをこめて描かれていると思った。だが、番組の背景には問題があった。
 
CMがないのである。正確には、同局の他のドラマや、映画の宣伝が入るだけであった。
 
この枠は、いわゆる「月9」と呼ばれる、フジテレビのドラマの花形と言える時間帯である。名作の歴史を刻み、またドラマ評論においても必ず言及される枠である。これまでも、CMでは破格の営業効果を上げていたのではないかと推測する。
 
それが、あの事件で、すべてのスポンサー企業が去った。一芸能人が契機ではあったが、テレビ局の社長その他の対応が、世間から総スカンを食らうことになったのである。それが2025年1月のことであった。週刊誌で問題が上がったのは2024年の終わりがけのことだったが、1月17日という、私から言わせてみれば何もこの日に、と思わせるような日を用いて、フジテレビは定例社長会見を開き、これが世間の非難を浴びることとなる。
 
横浜市消防局とのタイアップポスターもお蔵入りとなり、協力はしていても、協力のクレジットに名を出さないことになってしまった。
 
あの事件についてとやかくいま言うつもりはない。第三者委員会の報告は、会社にとっては事態を一層厳しくするものとなったが、自ら蒔いた種から出た芽は、自ら摘まねばならないことになるには違いない。だがここでは、事件自体やその意味について考察することは、一切しない、という前提での感想だけを言う。ドラマそのものは好感がもてるものだけに、「もったいない」と思ったのだ。
 
「人の噂も七十五日」という。問題の定例会見の75日後が、今日、4月2日である。事件についての噂の声も、一旦は沈静化した。その話題をとやかく言い放つ声は殆ど聞かれなくもなった。それでも、フジテレビへのスポンサー企業の対応は、ことこのドラマ枠に関しては、最終回まで少しも変わることがなかった。
 
演じる俳優陣は、事件とは無関係であるはずなのに、ずいぶんと気の毒なふうに見えた。番組制作スタッフなどは、予算や報酬についての不安があるかもしれないし、今後の活動への影響次第では、死活問題となりかねない情況であろう。
 
テレビ局という存在も、このウェブ時代になって、形や意義が変わってくることを想定して、すでに動いているだろう。デンマークでは、今年での郵便配達の終了を決定している。国内で書店が消滅しているのは、もう当たり前の現象になってしまった。いまや選挙でさえ、ネットの気紛れな空気が左右するようになってしまったし、ついに直情的な判断が、国や人間の運命を動かすことも、大いに可能性がある世の中となってしまった。
 
先月末は、ラジオ放送開始百年ということで、特にNHKでは、過去を振り返る特集番組が多く組まれていた。私はずっと、「伊集院光の百年ラヂオ」というラジオ番組を、定期放送から2年間、欠かさず聴いてきた。貴重な音源と共に、伊集院光氏の的を射たトークに感心しながら楽しませてもらってきた。
 
テレビでも、放送というものについて考えるものがあった。「クローズアップ現代」が枠を拡大して「放送100年SP テレビが伝えた“あの日”と未来」と題して、放送の功罪について真摯に語っていたものを、3月24日に見た。松本サリン事件については、もう誰も、自分の正義を言える立場にはなくなってしまっただろう。あのとき誹謗中傷を吠えまくっていた一般市民は、果たして「悔い改めた」のだろうか。
 
「リテラシー」という言葉も、近年話題に上るようになってきた。だが、よくよく考察が必要である。内田樹氏がある本で、太平洋戦争中、自分たちは軍部に騙されていた、と主張していた人々を、とことん批判していた。それは「悪」であり「罪」なのだ、と容赦なかった。それは、内田氏が偉いとか正しいとか言いたいためではなかったはずだ。それを信じて、自ら加害行為をした視点を棚上げすることはできないし、そういうことをしてしまったら、本当に加害者そのものでしかなくなる、という危険性を指摘していたのだろうと思う。その意味で、私も全く同感である。
 
さて、話はずいぶん大きく深いところまで届きそうな勢いになってきた。私はただ、「119エマージェンシーコール」というドラマが良かった、と言いたかっただけのことであったのだが。



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