祝宴に招かれている

2025年3月24日

2年間の神学生としての務めを終えて、この春からある教会へ派遣されることとなった、女性の神学生の、この教会での最後のメッセージである。4月にはイエスの受難と復活を覚える時を迎えることになる。ではそれに備えて何を語ろうか――そうした背景から語り始めた。
 
選ばれた聖書箇所は、マタイ伝の22章1-14であった。すでにイエス一行は、エルサレム入城を果たしている。そこで論争を挑まれるなどのトラブルに巻き込まれ、ますます命を狙われるようになる。その極致が、裁判と十字架なのであった。その中でもまだ始まりに近いわけだが、不穏な空気が流れる。
 
祭司長たちとファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気付き、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。(マタイ21:45-46)
 
イエスは、彼らに当てつけをしたのである。少なくとも、マタイはそういう編集をしている。だからここでも、ずいぶんと突飛なたとえを話したことになっている。
 
「天の国」のたとえはマタイ伝にはたくさんあるが、ここでも、天の国が何に似ているかを語っている。「ある王が王子のために婚礼の祝宴を催した」ようなものである、とここでは言う。場面設定である。
 
「婚礼の祝宴」に人を招く。招く「王」は、もちろん神を表している。「祝宴」は、神の国の喜ばしい集いである。ここで目指している風景は、明らかである。王の招きを伝えたのは「家来」とあるが、実質奴隷である。だが、人は来ようとしない。さらに呼びかけると、その奴隷を、一部の人々が殺してしまう。
 
この直前に、イエスが「ぶどう園のたとえ」をすでに語っている。その展開と明らかに類似性がある。ぶどう園の場合は、祭司長たちや民の長老たちにイエスが問い、これからどうなんだろうか、と考えさせていた。しかし今度は、イエスは激しい結末をイエスの側から告げる。王は「軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った」というのである。
 
説教者は、彼らが「人の心を踏みにじった」と説明した。さらに、断った本人だけを滅ぼしたのである、というような言い方をした。たぶん、町全部を焼き払ったのは残酷だから、イエスがそのような意味のことを言うはずがない、と思ったのだろう。あるいはまた、自分の中で、そんな残酷な仕打ちを神にさせたくなかったのかもしれない。
 
だか、聖書は明確に行っている。「軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った」のだ、と。
 
この後、説教者は、この部分が、ユダヤ人のことを言ったのだ、ということについては全く触れることがなかった。わざと避けたのではなく、考えつかなかったのかもしれない。ここは話す相手と場面、そして言っている内容を考えると、どう見ても、ユダヤ人たちへの当てつけである。
 
神は預言者たちをユダヤ人たちに派遣した。しかし、ユダヤ人たちは預言者の言うことを信じなかったばかりか、それを迫害した。その結果、どういうことが起こったか。ローマ軍が、エルサレムを焼き払ったのである。マタイがそれを見ている、ということが明らかなので、マタイ伝の完成が、エルサレム陥落以降であると考えられているのである。
 
ここにはもう一つ、謎の付け足しがある。焼き払った後、つまりユダヤ人相手の福音宣教の時代がひとつ終わって、今度は、「見かけた人は善人も悪人も皆集めて」来ることになった。説教者はここも読みながら、「善人も悪人も」という点に問題意識を感じておらず、何も語ってくれなかった。聞く方は、それは何のことだ、と誰もが思っているだろう。不思議なフレーズではないか。だが、その期待には応えてくれなかった。
 
ユダヤ人のエリートたちは、もちろん自分たちは律法を守る「善人」だと自認していた。そして、律法を守れない者たちを「悪人」だと見下していた。イエスは、その社会構造と精神構造を徹底的に否定しようとしたのだった。従って、善人たちだけではない。悪人と呼ばれていた人々も当然のことのように、福音宣教の対象となったのである。
 
祝宴には人が集まり、一杯になる。神の国の宴会に、異邦人たちも集まるのだろう。ただ、ここでマタイは独自の不思議な点を表に出す。祝宴の場に出た王が、「礼服を着ていない者が一人いた」ことに気づくのだ。そして、礼服を着ない理由を尋ねたが、その者が黙っていたために、その「男の手足を縛って、外の暗闇に放り出」した。「泣きわめき、歯ぎしりする」という、お決まりの結末をそこにもたらして、この事案から得られる教訓として、「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」と結論づけるのである。
 
「礼服」について、説教者はそれを「キリストを着ること」と説明した。「キリストを着る」という表現は新約聖書の中に幾つかある。そのイメージを伝えるのは、もちろん優れた着想だった。そして、その礼服は与えられるのだ、という点も、強調して然るべきであった。
 
たぶん、祝宴の場では、そのような「礼服」というものは、王が準備して与えるものではなかったかと思う。貧しい者たちに、祝宴のきらびやかな服を用意させるはずがない。王が揃えた服を着た人々で満たされてこそ、パーティーは華やぐであろう。そのような「礼服」は、王が備えた救いの君、イエス・キリストである、というのはとても自然な重なりである。
 
そして、それを福音とするのは、よいメッセージであった。それをどうして着ようとしないのか、黙っていたのはどういうことか、またどうして「一人」だけだったのか、そこは、聞く者としては知りたいと思う。何も、「正しい学説」でなくてもよい。説教者なりの、筋の通った解釈を聞きたいのである。
 
イエスのたとえは、本来当時の文化の中にある人にとっては、分かりやすい話だったと思われる。だが、時間空間を異とする私たちには、難解に思えてしまうことがある。当時の生活文化を知らず、また一般常識というものを体で感じていないために、スッと入ってこないのである。悲しいことだが、それが事実である。
 
だから、語る者は、その「たとえ」に潜むギャップに、何か「橋」を架けなければならない。AとBと、矛盾したような話があれば、それをどうつなぐのか、示さなければならない。聞く者は、それを期待している。その期待を感じてほしい。語る方は、自分なりのムードや自分にある信仰から、当然のように思うか、あるいは細かなことは無視してしまうかもしれない。しかし、聞く側はそうではないのが前提である。
 
繰り返すが、聞きたいのは正しい学説ではない。神の言葉を語る説教は、その神の言葉の故に、人を生かす力をもっている。命の水が流れ込む場となっている。ただ、一筋の水が流れ込むことを求めている。いま語られている筋道というものが、淀みなく届けばよいのである。語る者が、このように筋道をつけて語ってくれた、それをこの礼拝の場では受け止めた、その経験で十分である。そのことにより、神から命が伝わってくるのである。
 
その意味で、最後に、引っかかる言葉を聞いてしまった。「神が礼服を用意してくださる」と言い、それを別の言葉で言い換えるようにして、「イエスへつながる道を用意してくださる」と連ねたのだ。先に、「礼服」は「キリスト」だと説いた。だがここでは、「イエスへつながる道」を同格に置いて説いた。「礼服」はイエスそのものではなかったのか。「イエスへつながる道」が「礼服」のことだったのか。そのように聞こえる言い方であった。最後にこれでは、いままで説いてきたことは何だったのか、聞く側は混乱してしまうのである。
 
この説教では、「よろこび」というキーワードもあった。説教者はその「よろこび」について、周知のように語っていたが、神の国の祝宴のよろこびについて、もっとイメージを与えてほしかった気がする。黙示録の説教をした牧師は、黙示録が有つ魅力としての、豊かなイメージを、さらに強調するように、説教の中で繰り返し描き続けた。今日のこの神の国の祝宴も、そこに「よろこび」があるというのなら、何か華やかな場面を、聞く者に想像させるようなひとコマがあると、うれしかった。
 
最後に説教を締め括るとき、説教者は、この祝宴にあなたは招かれている、と言った。さあいらっしゃい、と何度も呼びかけている、と告げた。その「呼ばれているよろこび」を感じるとき、「大きなよろこびに包まれる」ことに招かれる、そのような言い方だった。同じ「よろこび」という鍵になっている言葉を、全く違う意味に一連の言葉で使っている。説教者は、このようなことが時折見られる。同じ言葉を、違う意味で続けて用いると、聞く側は困る。祝宴という「よろこび」をずっと強調してきたのであるから、「呼ばれていること」を「よろこび」と称することはよくないのである。「恵み」でも何でもよいから、別の語を使わなければならないのである。
 
礼服を纏っていなかったあの一人は、そのよろこびの席に入ることはできなかった。せっかく、ユダヤ人の思惑とは別に、イエスが独自に、全世界の人に福音を伝えようとしたのに、イエスという礼服を着ていなかったのである。否、王が与えた礼服を、この者は、着ようとしなかった、ということである。
 
何故着ようとしなかったのか、それを一つの理由として決めてしまおうとはしなかった。様々な理由が、それぞれの人にはある者だから、これこれの理由で着なかった、と規定はしなかったのである。それは、人がイエスを信じないために弁明するような理由付けが、様々であることを示す。そして、私たち一人ひとりが、自分の中にイエスを受け容れない何かをもっていないか、問い直すこともできる場面であった。さらに、「一人」であるのは、実際数の上で一人なのではなくて、聞く私一人に向けて、それが問われたからであるはずだ。さあ、聞く「あなた」は、「黙るのかどうか」を問うているに違いないのである。
 
もちろん、私もまた、神自らが提供した「礼服」を受け取っているか、問われる礼拝となった。そして、もしそれを着ることをためらうような心理がどこかにあるとしたら、せめてそれを打ち明け、黙って自分の中に閉じこもっておくようなことをしてはならない、と戒められた。それは、悔い改めの祈りでもよかったはずなのだ。
 
イエスの救いの福音は、多くの人にまず伝えねばならない。それは神の招きである。もちろん、伝えられた全員がすんなり受け容れる、という事態は想像しにくい。そこに起こる「選び」については、神に委ねるのみであろう。私はまた、王の奴隷として、呼びかける使命も受けているのだ。
 
説教者自身も、触れていた。この教会は、礼拝にかける熱意にただならぬものを感じる、というようなことに。私はさらに付け加えたい。仕えてきたこの教会が、どれほど恵まれた環境であったか。ここは、日本でいま最も素晴らしい説教が語られている教会のひとつだったのである。
 
初めての任地で、どうか橋を架ける役割を担って戴きたい。そう祈っている。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります