【メッセージ】心を痛め、心から歌う

2025年3月23日

(アモス6:1-14, エフェソ5:18-20)

鉢でぶどう酒を飲み
最高の香油を身に塗るが
ヨセフの破滅に心を痛めることがない。(アモス6:6)
 
◆責め立てる言葉
 
アモス6章全体を開きました。ずいぶんな裁きの箇所です。
 
1:災いあれ、シオンに安住し/サマリアの山を頼みとする者/イスラエルの家が行って仕える/国々の名高い頭たちに。
 
スタートからして平穏ではありません。この調子で、イスラエルに対して、あれこれと、そのやっていることを取り上げて、責めるのです。それは「ねちねちと」と言ってもよいくらいです。「驕れる人々」をターゲットに、やっていることを細々と挙げ、ずいぶんと酷いことばかりやっているじゃないか、と攻撃します。
 
聖書の中に、このような記述が、特に預言書には多々あることは、承知しています。でも、何も礼拝のためのメッセージとして、ここを正面から取り上げる必要はないではありませんか。これのどこが福音なのだ。そのようなお叱りを受けることは覚悟しています。けれども、私に示された、確かな「福音」を、お伝えするには、これでよいのだと思っています。いましばらくご辛抱ください。
 
確かに、聞きたくもない言葉ばかりかもしれません。聖書からは、もっと優しい言葉を聞きたい、とお思いの方がたくさんいるでしょう。何もそんなきつい言葉を聞くために、教会まで来て、時間をとっているんじゃないぞ、と言いたい気持ちもおありでしょう。イエスの優しい、愛と赦しの言葉を求めて、礼拝に出るのだ、との気持ちは、十分理解できます。
 
アニメやコミックスにもいろいろありますが、そうした物語の中では、自分の意見をはっきりとぶつける場面がよくあります。感情を露わにしないと、ストーリーが展開しないのです。しかし、現実には、私たちは周りの人に自分の感情をはっきりとぶつけることは、普通しないものです。日本人が、そうなのかもしれませんが。
 
いまの世の中では、反対意見もはっきりと口にはしないし、他人が悪いと思っても、それを告げることは殆どしません。駅で酷いマナーの人を見ても、注意をしたことで殺されたような事件報道を聞くわけで、わざわざ正義ぶって余計なことを言わなくても、黙っておくのが身のためだ、というふうな見方が普通なのでしょう。
 
電車の中で、延々と話をされるととても嫌なのですが、私は耳に指を入れて塞ぎ、本に集中しようとします。喋る人は、そもそも他人に関心がないのでそういう他人を見てもいませんし、たとえそれが目に入っても、自分が迷惑をかけている、などと感じて声を潜めるような人には、いまだ出会ったことがありません。優先席に堂々と座る若者がいくらでもいるし、席を譲るつもりもなく、スマホを見ているから気づきませんでした、というような態度をとる風景は毎日必ず見ます。優先席に座る何か理由があるのかしら、と思っても、その若者は駅に着くとスタスタ元気に降りて行くので、そういう事情はないようです。
 
でも、そういう人に何か言ってやる、というようなことはできません。「逆ギレ」されそうでもありますから。小学生に、そういうのを見たら「注意します」と、小学校で教わったように作文に書く子がたくさんいますが、学校で教える「道徳」も難しいものだと思います。たまに、毅然とした小学生がいた、などと称えられる声も聞きますが、複雑な気持ちがします。
 
確かに、何でも厳しく指摘すればよい、というものでもないようです。ある程度お互いの間に信頼関係が成立してからなら、ズバリと言ってよい場合もありましょうが、なかなかはっきりとは言えないものです。また、心に弱さを抱えている人に対しては、デリケートな物言いが必要だというのは常識でしょう。病気のタイプにもよるでしょうが、強く責めるような言葉をぶつけることは、たぶん誰もしないでしょう。
 
◆差別の背景
 
預言者の書は、キリスト教の世界では大きなものが四つ、それから小さなものが十二あるとされています。伝えられているその預言者の名前が、果たして実在した人物のものなのか、などと神学者たちは研究しますが、確かに小さな方では、その人物についての情報が他には全くないということがあり、書かれてあることから推測するしかありません。
 
アモスという人も、よく分からないのですが、このアモスは、他の預言者とは少々異なる立場にいるように見られています。祭司やその一族、ということが案外多い預言者たちの間で、預言者であることを否定していることがユニークです。
 
それに対してアモスはアマツヤに言った。「私は預言者ではなく、預言者の弟子でもない。私は家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。(7:14)
 
預言者ではない。預言者の弟子でもない。家畜を飼っている。アモス書の冒頭では、「テコアの羊飼いの一人であるアモスの言葉」(1:1)と書かれていました。また、いちじく桑を栽培する者である、ともここでは言っています。
 
羊飼いは、ダビデがそうだった、という背景のほかにも、特によくクリスマスの物語で取り上げられます。そのとき、羊飼いは最下層の者たちであった、と言われ、イエスの誕生を祝ったのは、差別された人々と外国の博士たちだった、というのがメッセージの定番になっています。
 
でも、そのメッセージを語る人は、普通そう言われているからただ繰り返しているだけで、丁寧にその辺りの事情を調べることは、私の出会った限りは見られません。  
ユダヤではなく、その後の西欧思想においてですが、そこで「差別」がどのように起こったか、という点についての仮説を、私はある本で見て驚きました。
 
阿部謹也さんという歴史学者の『自分のなかに歴史をよむ』という本です。中高生向けに書かれた分かりやすい本で、自分が歴史学を学び始めたことについて、それから、中世の西洋史を調べたことで分かった「差別」の原因のようなものについて、あまり誰も指摘しなかったようなことを提言しています。
 
それによると、簡単に述べるのは難しいのですが、中世以前のヨーロッパの人々は、大宇宙と小宇宙と二つの世界観を同居させた形で理解していて、小さな人間という小宇宙の出来事は、大宇宙の出来事とリンクしているのが当然、と考えていたのだというのです。それが占星術ですね。この二つの世界を行き来し、それらの考えを結びつける知恵をもった人は、尊敬されていました。
 
ところが、キリスト教では、すべてをひとりの神という原理で説明しようとします。中世では、キリスト教が政治と結びつき、人々の世界観を、信仰という名の色に染め上げていったわけです。このとき、二つの世界という考え方は退けられます。異世界と交信しているような人がいたら、魔女などとして迫害します。それが正義だ、というのがキリスト教会の考え方でした。地動説への攻撃も、そういう流れで見ることができます。
 
こうして、二つの世界をとりもつことをしていた人々が、賤しい存在へと価値転換させられていった、ここに「差別」が正義となっていった、という説明でした。例えば死刑執行人は、生と死との世界を結ぶことで、宗教的に地位のある者がかつては執行していたのが、その後それを執行する者は賤しい者に限られるようになってゆく、ということなどです。
 
この『自分のなかに歴史をよむ』という本は、本当に良い本です。自分の生い立ちと、学問を志すとはどういうことかなど、体験を丁寧に描いていると共に、このようにヨーロッパで研究したことから、誰も問わなかった、文明や文化に対する根本的な批判の眼差しを、教えてくれます。なお、著者は、中学時代を、修道院で生活するという特殊な体験をもっていますし、何もキリスト教の悪口を言おうとして先のようなことを言ったわけではないのです。
 
◆労働者
 
ここで預言をしているアモスは、自分を「預言者ではない」と称しました。アモスは「家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者」だと自分を言いました。祭司でもないし、律法学者でもありません。市井のファリサイ派の人間でもありません。アモスは農民です。アモスは労働者です。そこには、何の権威もありません。
 
ここで思い起こすのは、シモーヌ・ヴェーユという哲学者です。フランスの女性です。歴史上、女性の哲学者の名前を何人挙げられるか、という問いかけがありますが、本当に少ないのです。しかしそのとき、きっと多くの人に、この名前が浮かんでくることでしょう。
 
20世紀初頭に34年間の生涯を駆け抜けたヴェイユは、無名のままイギリスで客死しますが、遺された原稿が貴重な思索の跡を示しています。フランスの学校リセの教師を勤めていましたが、あるとき休職して、幾つかの工場で未熟工として労働します。そのときの労働の中での思索が、後に大きな実りをもたらします。
 
哲学者がその研究や著作により生計を立てるというのは、ごく近代になってからのことです。18世紀のカントの頃から、大学で教えることと哲学者が結びつくようになりました。デカルトは、軍隊生活の後に隠棲して著作をしていましたが、最期はスウェーデン女王に頼まれて教師的な仕事を始めつつ、寒さに冒されて亡くなりました。デカルトと同時期で対照的な思想をもち、後世に大きな影響を与えたスピノザは、レンズ磨きをしていたという有名な話があります。尤も、それは生計のためというわけではなかったそうですが。
 
20世紀へと近づくと、共産主義という思想が生まれます。共産主義者の中には、労働という苦渋を舐めた中で、資本家の搾取を訴えるような人も多くいました。貧困や最下層の生活の中で、初めて見えるものがあったのだ、とも思えます。
 
アモスも、そのような眼差しをもっていたのかもしれません。権力が支配するイスラエル政府を批判しているのです。アモスはイスラエルを叱責します。それは、自分が滅びるかもしれない、という視点を全くもたず、危機意識が全くそこにないことに、業を煮やしてのことだったのではないかと思われます。もうここでは繰り返しお聞かせはしませんが、国を導くべき者たちの贅沢三昧を、具体例を細かく挙げながら、批判しています。
 
これを、現代の日本、あるいは幾多の国々に当てはめて読むということは、私たちがぜひやらねばならぬ読み方のひとつです。
 
◆教会の姿
 
これは、ある人が本の中で述べていたことなのですが、私が誤解してご紹介するとその人に迷惑がかかるので、私の解釈した言葉として、取り上げてみようと思います。
 
それは、牧師はもっと貧しい生活をした方がよい、という意見だと私は理解しました。私の知る事例では、牧師が、安定した給与を受け、パリッとしたスーツでも着て、高級感のある車に乗っている。どこそこへ、ひょいと飛行機や新幹線で出かけ、旅館の豪華な食事を喜ぶ。中には、そうした姿をSNSで嬉しそうに報告する人もいる。
 
それでよいのか、という考えでした。貧しい人への福音を、イエスは宣べ伝えています。その言葉を、神の言葉として、牧師は壇上から会衆に語ります。貧しい者は幸いです、神は貧しいものに恵みを与えます――綺麗な服に身を包み、昨日も豪勢な食事を楽しんだ、その牧師が。
 
ええ、これが普遍性を帯びたものでないことは、よく分かっています。多くの教会は経済的によろしくありません。牧師が他の職業でようやく自分の食い扶持を稼ぎ、なんとか生活している、という教会が多々あることは、統計的にも分かっています。信徒の数が激減している中、その傾向は益々強まっています。すでに、「無牧」と呼ばれるように、牧師という身分の人がいない「教会」が、加速度的に増えていることも、もはや常識となりました。
 
しかし信徒として、牧師には、生活に困らない給与を手渡したい、という心理があるのも確かです。そのためには献金に励むしかありませんが、信徒の生活も多くの場合、楽ではありません。それでも、伝道が教会の命だ、とそうした方面に教会の収入を用い、牧師の給与のために偏った予算を組むことを、否んでいる教会があることも知っています。そのような教会には、命があります。信仰があると思います。たとえば、献金は牧師の生活費ではなく、神に献げるものだ、という信仰が底辺にあるわけです。
 
他方、牧師給与を確保するために、伝道費を切り詰めている教会があるのも、残念ながら本当です。こうして、教会は、牧師を雇った形でつくられる、仲良し倶楽部へと堕してゆくのです。そしてその牧師が、経済的に何不自由ない生活をして、ちっとも福音でない聖書講演会を毎週実施しているのです。
 
プロテスタント教会は、元々ばらばらで成り立つ背景がありました。カトリックのような統一的な組織の下にはないからです。しかし、こうした事情では、益々ばらばらになるばかりです。高齢化した教会員は、昔からの習慣を旧態依然と続けており、若者を寄せ付けません。せっかく教会を訪ねた若者を、もてはやそうと躍起になりながらも、君たちの要求は間違っている、と追い出すようなことさえ、実際に起こっているのです。
 
アモス6章を、私たちはもっと誠実に読み直してみましょう。私はそこに、エリート気取りで、貧しい人や若い人たちを虐げている、自分の姿をそこに見いだすのです。あるいはここに、教会の姿を見ることは、ないでしょうか。
 
◆教会は別世界
 
キリスト教会に在籍する人々は、自分たちでは、美しい信仰をもつ者たちだと自認していますし、政治の決定が迫害だとすぐに文句を言うのが正しい、という確信をもっています。ノンクリスチャンは可哀相であり、ほんとうの神を知らない滅びの中にある、というようにさえ見ていることがあります。
 
そうした態度は、世間もちゃんと感じます。人々は、自分が教会に行くなどとは、夢にも思っていません。あそこは、自分とは関係のない場所だ、という思いが、世に漂う空気です。教会は、社会から浮いている、と見たほうが、きっと適切なのです。
 
元々キリストの弟子たちが集まり始めたとき、それはユダヤ教の一部だという自覚があったと思われます。あるいは、ユダヤ教の本当の解釈だ、ユダヤ教の理想の実現だ、という方向で捉えたのかもしれません。しかし、正統的ユダヤ教からは、それは厄介なものと見られました。
 
歴史は、このキリストの弟子たちが市民権を得るように動いてゆきます。あのローマ帝国が、キリスト教を認めねばならないほどに変わったことは、ある意味で奇蹟のようなものだとも考えられるでしょう。最初は怪しい集団だったのが、公認されてゆく過程がそこにあります。
 
いまの社会でも、怪しい宗教集団というものがあります。世間はそれに「カルト宗教」というレッテルを貼ります。キリスト教も、最初はそういうものでしかなかったと思います。それが西欧では、権力側に立つようになっていきました。そして現代では、犯罪の臭いに包まれたカルト宗教によって、同じ宗教のキリスト教も怪しいものではないか、というふうに見られるようにもなっています。それは、神が前提の社会ではなくなったからです。宗教が、社会の基盤ではなくなったという事情によるのです。
 
カルト宗教があの事件を起こして社会問題化したことにより、たとえば新たな宗教法人格を取得することが非常に難しくなりました。世間は、「宗教」というものに、益々警戒するようになりました。キリスト教会側もそれを感じて、「教会は敷居が高いところではありません」などとふれまわるようにもなりました。「敷居が高い」というのは、そこへ行く人が心に申し訳ないものを感じて訪ねることができない、という意味ですから、明らかに言葉の誤用です。少なくとも、適切な言葉を使う人からすれば、実に失礼な表現です。そうなると、よかれと思っての呼びかけが、よけいに傷口を拡げることになってしまいます。
 
そこで、「お気軽にお越しください」と今度は呼びかけます。そうでしょうか。とても、気軽に行けるところではないと思います。私は、苦しんだ挙句、聖書に光を見いだして、教会に行こうと思ったとき、ものすごい決意を要しました。一度足を踏み入れたら、二度と出てこられない、後戻りできない厳しいところだと覚悟して行ったのです。
 
友だちに連れられて気軽に行ける場合もあるでしょうが、独りで教会を訪ねるというのは、よほど自分に絶望してか、飢え渇きがあってかのことかもしれません。正に、生まれ変わる覚悟があってこそ、門を潜ることができる場所でもあるのです。逆にまた、教会としても、本当に「気軽に」来てもらっては困るのではないでしょうか。「気軽に」、併し「真面目に」「厳かに」礼拝に参加してください、と暗黙のうちに圧迫しているのではないでしょうか。
 
◆抱える悩みに
 
クリスチャンのあなたが心を痛めていたとしても、あなたは教会に来る。日曜日に教会に来て、にこにこする。にこにこしなければならない。教会に来て、礼拝に来て、「ハレルヤ!」と言うのがあたりまえなのです。教会で暗く沈んだ顔をしているわけにはゆきません。もしそんなことをすると、「どうしたの」との質問が飛んできます。場合によっては、「賛美すれば元気になるわよ」とか、にこやかな顔で「祈ってますよ」とか言われることもあるでしょう。どうかすると、「悲しんでいたら不信仰よ」というお叱りを受けるかもしれません。だから、やっぱり本音を言えないのです。
 
教会では、明るい信仰者という演技が必要になります。そうせよ、という無言の圧力が漂うのです。そうして、笑顔を装い、「ハレルヤ!」とまた叫びます。なにも、模範的な信徒になりたい、というほどの意欲があるわけではないにしても、教会でみんなが笑顔である中で、独り深刻な顔をするわけにはゆかない、と思うことがあるでしょう。そして、どうしても笑えないときには、礼拝を休むしかありません。
 
楽しそうな雰囲気を壊すわけにはゆかないからです。そういう忖度も働きます。教会では、悪気がある人は基本的にいないので、好意から出ているその笑顔に、水を差すようなことはできない、と考えてしまうのです。役員などで休めないときには、口元が引きつる笑みを浮かべているかもしれません。
 
あるいは、もう面の皮が厚くなり、しっかりと演技を続けて教会で明るく振舞い、家に帰ってからどっと疲れが出てくることがあるかもしれません。他人のことを悪く言うと「罪」なのだ、と思うから、自己嫌悪に陥る、という経験もないでしょうか。
 
クリスチャンは悩んではいけないのだ。そんなレッテルを、誰もが貼られているかのようです。みんなが互いに、「裸の王様」になっているかのように。
 
◆心を痛め、心から歌う
 
人を見に、教会に行くのでなかったら、どんなに楽でしょう。無邪気に圧をかける、幸せな信仰者に絡まれないのであれば、気楽に教会に行けるかもしれません。そしてもしかすると、世間の人が教会に近づきたくないのは、このようなことを恐れる心理が関係しているのかもしれません。
 
何か、解き放つ道はないでしょうか。アモスの指摘はもう十分です。それにはもう心が十分痛みました。ですから、神よ、私の魂を解放してください。そのような願いの中で、今日はエフェソの信徒への手紙の5:18-20を最後にお届けしようと思います。但し、その前に同じ5章の少し前の箇所から、弁えておくべき注意点を聞いておきましょう。
 
4:恥ずべきこと、愚かな話、下品な冗談もふさわしくありません。むしろ、感謝の言葉を口にしなさい。
5:すべて淫らな者、汚れた者、貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。
 
感謝の言葉を口にしたい、という信仰は、悲しい目に遭った人も、キリスト者であるならば、どこかに宿していることと思います。それが、笑顔の強制のような中ではできないにしても、独り神に祈るときには、感謝の言葉を口にしたい、という願いが、生まれてくるのではないでしょうか。もしそうであれば、もうきっと大丈夫です。
 
もっとイエスを見つめたいのです。人間を見に教会に行くことは止めにします。神を見上げましょう。教会までもが、どうかすると「人間関係」というものを気にする場所になってしまいがちなのが、人間の悲しい性です。あるいは「罪」です。しかし、風にそよぐ葦を見に教会へ来ているわけではないのです。何がどうあろうと、神を見上げ、聖書から聞くことを大切にします。この基準で考え、行動するのです。そこに、信仰があります。
 
18:酒に酔ってはなりません。それは身を持ち崩す元です。むしろ、霊に満たされ、
19:互いに詩と賛歌と霊の歌を唱え、主に向かって心から歌い、また賛美しなさい。
20:いつも、あらゆることについて、私たちの主イエス・キリストの名により、父なる神に感謝しなさい。
 
アルコールを飲むか飲まないか、そんなケチなことを言っているわけではありません。この世の楽しみや贅沢、暮らし向きを気にしていると、教会で「不自由」な精神に苦しめられることになりがちです。
 
口を大きく開ければ、神は豊かにそこに恵みを注いでくださいます。求める者には与えることを、神はやりたくて仕方がないのです。これでもか、と懐に押し込みたくて、うずうずしているのです。
 
その口から、私たちの腹の中にあるものが出てゆきます。よい言葉でありたい。感謝の言葉でありたい。エフェソ書はそれを、「賛美」という形で提言しています。口を大きく開けて、主に向かって心から歌いましょう。主を賛美しましょう。他人のためではありません。人の目や耳とは無関係でいましょう。奥まったところで、あなた一人のところでよいのです。人を介在させず、あなたと神とのつながりと関係の中で、主を称えましょう。――ただ、このことさえも、強制になって戴きたくはないと思っています。神がそのようにあなたに呼びかけている、と信じて私は語っているのです。
 
但し、それができるためには、あなたはまず心を痛めることがまず重要です。心を痛めているあなたには、きっとそれができるのです。現状を悲しむことなく、徒に明るく振舞え、というのは、聖書からすれば、おかしいのです。どうしようもない事実や環境、どうしようもない悲しい出来事、そしてどうしようもないこの自分。その悲しさから、神を見上げましょう。そのとき、神の救いが、ここに流れてくるでしょう。溢れるほどに、流れ込んでくることでしょう。かつて救われたときに見た輝く世界に喜んだ心が、いまもまた、そしてこれからも、あなたの身を取り囲むことを、神は実現してくださるはずなのです。



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