書かれたもの
2025年3月23日

「聖書」と新約聖書で訳されているものを、新約聖書のことだ、と講壇で語った人がいた。神学校に入るときにも留保され、やっと入ったもののストレートには卒業できなかった人である。教会に戻ってきて説教をしたが、どぎまぎして何を離しているのか分からない。絶望的な暗いことばかり並べるのは、この人は「救い」というものを経験していないのだ、ということを証拠立てていた。
新約聖書で「聖書」と訳された語は、語感としては「書かれたもの」という成り立ちの言葉である。このことから、普通よく説明されるのは、「聖」という字が元々は付いていないのですよ、という話である。
実際、そこに書かれてあるのは、人間の醜い姿である。それを「罪のカタログ」と呼んだ人がいる。その通りだと思う。ではどうして後の人間は、これに「聖」の字をつけたのだろう。
「聖」という文字は、私たちは「清い」意味に理解する。もちろん間違っていない。だが、それは遡れば、「分離された」という感覚を伴うものであることが分かっている。普通のものとは違う特別だ、という意味である。日常的なものが分離された、特別扱いされるところに、「聖」の基本的な意味合いがある。
そこに、自然と「清い」という方向性が加わってくるのも理解できる。しかし「聖書」の「聖」は、「神」について言われることなのであった。とても人間の姿のことをいうのではない。人間世界からは想像できないほどに、「神」は特別であり、清いのである。
このように、「聖書」が「書かれたもの」であるということについては、説明が終わるのが普通である。そう、正にこの説明が「普通」なのである。もっと「特別」である意味は、そこから忘れられている。
そう、「書かれたもの」と言ったのだ。何が忘れられているのか。それは「読まれたもの」ではない、ということだ。「書く」と「読む」とを対比させることができるとすると、「聖書」は、「読まれたもの」ではなくて、「書かれたもの」だというのである。もう少し正確に言うと、「声に出されたもの」ではなくて、「文字となったもの」と言うべきだろう。以後、この「声」と「文字」という点で話を進めることにする。なお、ろう者にとってはこの「声」という言い方は適切でない。便宜上「声」とするが、たとえば「手話」をも、この「声」という概念に含めて捉えて戴きたいと思う。
そもそも「文字」の読み書きは、特殊なごく一部の者にしかできなかった。「万人」とまでは言えないかもしれないが、大多数の人が「文字」の読み書きができるようになったのは、国によっても異なるだろうが、先進国においてでも19世紀末頃ではないか、と言われている。そしていまなお、半分程度の人しかできない、という国も決して少なくはないという。「識字」という問題で調べてもらうと、推定のデータが得られるだろう。
聖書にしても、誰か特別な人が声に出して読み上げ、それを人々が聞く、というスタイルをとっていたであろうことは確実である。殆どの人々にとり、聖書は、声で触れるものなのであった。
この常識を背景に考えると、新約聖書の中で、「書かれたもの」と呼ばれたのは、それが特別な「文字」であったためではないか、と推察してよいのではないかと思う。いまの私たちが、「聖書」と口にするのとは違う重みを感じないだろうか。
それと同時に、神の言葉は概ね「声」として人に届いていたことを、改めて知る思いが強くなるのである。