現代のキリスト教のために

2025年3月17日

今日は、特別な礼拝だった。ふだんは分散して開かれる、年齢層別の礼拝が、一つになるのだ。私が以前いた教会では、「合同礼拝」と呼んでいた。しかしここでは、それがなかなか大きな集まりとなる。今日のメインは、多分に幼稚園児たちである。今週に卒園式を迎える子どもたちのうち、何分の一かが礼拝に出席している。そのお祝いを含めての礼拝なのである。
 
そんなに長い時間の説教を語るわけにもゆかない。語る口調も、子どもたちが聞きやすいものを心がけることだろう。しかも、大人もまたその説教に向き合って恵みを受けるという姿が必要であろう。
 
教会というのは不思議なところで、老若男女、とりまぜて一つになれる場であると言える。ほんとうは、このように信じる者がただひとつになっていればよいのかもしれない。
 
最後に、主にあって、その大いなる力によって強くありなさい。(エフェソ6:10)
 
この言葉だけを、子どもたちの前に示す。長い聖書箇所の解説は要らない。何かひとつが心に伝わればいい。心に残ればいい。それは、「たったひとつ」という意味ではない。その「ひとつ」を伝えることが、実は最大限に難しいのだ。その「ひとつ」ですら伝わらないから、教会に人が押し寄せるということがない。
 
さあ、子どもたちには、今日、聖霊の風が吹いていただろうか。きっと吹いていただろうと思う。ふだん幼稚園で、聖書のお話も、それからお祈りも、子どもたちには日常のこととして位置づけられているのかもしれない。だが、それがありふれたことであるにしても、その子には、霊のいのちとなるものである。私たちがふだん食べている食事が、とりたてて自分の血となり肉となるようには見えなかったとしても、見えないところで確実にいのちを支えるエルネギーとなっている、そういうことなのだろうか。
 
「最後に」とは、これまでの話を踏まえての言葉だったのだろうが、説教者はこれを、「いまから大切なことを言いますよ」というサインだと伝えた。それから、「主にあって」ということは、「神さまがいっしょにいてくださること」のように話す。そして、「強くありなさい」、ここは、今日の説教のメインへと展開して行くことになる。
 
「お話」としては、サムエル記上17章が選ばれていた。大人向けのアナウンスとなるのだが、少年ダビデがゴリアトに挑もうとする場面である。
 
サウルはダビデに自分の装束を着せ、青銅の兜をその頭に載せ、身には鎧を着けさせた。ダビデはその装束の上にサウルの剣を帯びて歩いてみた。だが彼はこれらのものに慣れていなかった。ダビデはサウルに言った。「こんなものを着たのでは、歩くこともできません。慣れていませんから。」ダビデはそれらを脱ぎ捨てると、自分の杖を手に取った。そして川岸で滑らかな石を五つ選び、身に着けていた羊飼いの袋に入れ、石投げを手にして、あのペリシテ人に近寄った。(サムエル上17:38-40)
 
もちろん、ここだけを語るのではないし、説明をするというのでもない。この前後のひとつの物語を、説教者は演ずるように語った。園児あたりを対象の、教会学校でいつもこのようにやっているのだろう、と思わせるような話し方だった。
 
このダビデの口から出てくる言葉であるかのように、エフェソ書の言葉が繰り返される。「主にあって、その大いなる力によって強くありなさい」という言葉が、この文としてではなく、神さまがいるから、という確信と、「強くありなさい」という呼びかけが、心に残るのではないか、と私には思われた。
 
まだ若いダビデには、重い兜や鎧はむしろ邪魔だった。ふだん羊飼いとして力仕事には慣れているから、身軽に、動きやすい仕方でダビデは巨人に挑む。兄たちはやめろと言うが、ダビデは聞かない。兄としては、力ずくでも止めるのが当たり前ではないか、と現代の私などは考えるか、そこまではできなかった。
 
この後、ダビデは石投げの道具を用いて、拾った石をゴリアトに命中させたのだ。巨大な敵が、その一撃で倒れる。そのありさまも、説教者は演ずる。なかなか爽快な情景である。
 
どんなに怖い相手であっても、神が共にいれば助けてくれる。この教えの実証の場面である。敵を殺すということが、成功話という結論になる。
 
説教者の世代からすれば、敵をやっつけるというのは、正義が勝つ爽快さをもたらすことが普通だっただろうと思う。時代劇でも、悪代官に仕える武士たちは、ヒーローにより斬り殺されるのが番組のクライマックスだった。ウルトラマンは怪獣を爆破させたり切断したりして殺すし、仮面ライダーが倒したショッカーの怪人は、溶けてしまうか爆破するかしていた。
 
ウルトラマン・シリーズはその後、クリスチャンの円谷プロの手を離れることになるが、円谷一族の手にあるうちに、怪獣を殺さないシリーズも作成された。そもそもウルトラ・シリーズには、人間や文明を批判する動きも多々あったが、新たな時代になると、多様性とか共存とかいう概念を踏まえた作品作りが始まっていたのだ。
 
確かに、かちかち山で、最後に「ごめんなさい」とタヌキが謝って皆が仲良く手をつないで終わる、というのは、「おはなし」としては本来失格である。「ほんとうはこわい◯◯」のような言い方が流行ったことがあったが、「おはなし」には、懲罰や恐怖というものが描かれていても、基本的には問題はない、と考えられる。
 
だが、「多様性」の考え方は、一方的な正義というものに、ブレーキをかけるようになってきた。もちろん、SNSでの誹謗中傷や、論破気取りの流行など、我こそは正義、という「罪」は依然として人間に居座っているには違いないが、少なくとも公的には、相手の立場や言い分を認め合うことを善とする社会通念ができている。教育の場面でも、そうである。
 
聖書を語るときの、これからの課題の一つがここにあるかもしれない。旧約聖書は、そもそもが残酷な殺戮のために、特に近年、人々に抵抗を感じさせていた。十戒で「殺すな」と命じた神が、その直後に、神の言葉を信じなかった者を「殺せ」と命ずる。ヨシュアの時代になっても、周辺住民を「殺せ」と命じる。「キリスト教は戦争好きか」というタイトルの本も出ており、各地から真剣な問いが投げかけられている。
 
梅原猛が、一神教の自己中心性を訴え、東洋的な宗教の寛容性を主張したのがきっかけであるとは思えないが、後に政治的な発言力をもったこともあり、少なからぬ影響を与えているようにも思うが、一般社会から、キリスト教と戦争については、懐疑的な視線が向けられているのは確かだ。それに対して、そうではない、などと抵抗するキリスト教論者もあるが、内部的には説明が施されても、外部にそれが通用しているかどうかは疑問である。
 
ダビデはゴリアトを殺した。ゴリアトの家族はどう思うだろうか。そんなところまで、おセンチに考えることそのものが間違っているのかもしれない。しかし、いまの教育の現場では、そう考える子どもが育つようになっているように思えてならない。
 
一方では、「いじめ」は始めから終わりまで悪だとして教えろ、と教育現場には圧力がかかる。だが、すべてを尊重し多様性の原理が最重要だ、という方向性が正しいものとなると、死刑制度は完全に悪となる。先進国はそのように動いてしまっている。その犯人に殺されたという事実については、なかったことにするかのように。
 
ダビデによる殺人は、イスラエルにとり祝祭であり、正義であった。聖書の中には、この前提で語らなければ収まらないものが溢れている。しかし、子どもたちも、市民も、それはいまの世の中の考え方に反している、という前提を以て、正義と見なしている。ゴリアトが倒れてダビデが勝ったという演技が、子どもたちの中に、どのような反応を起こしたのか、私には分からない。もしかすると、それはゴリアトが可哀相、と感情移入した子など、いなかったかもしれない。しかしまた、いなかったらいなかったで、それでいいのだろうか、とも思う。
 
『チ。―地球の運動について―』のアニメ放送が、昨日完結した。神を信じる素朴な信仰者たちが、その教えに反する地動説を考える人たちを、拷問にかけ、殺してゆく。それが正義だった。物語をどう理解するか、は問うべきではないが、魔女狩りで罪なき人々を殺したのも、動物裁判で動物を不条理に罰したのも、LGBTQをつい少し前まで厳しく弾圧したのも、教会の掲げる正義であったことを思うと、聖書を語るということ、特に聖書を子どもに語るということについて、どうすればよいのか、分からなくもなる。
 
「強くありなさい」という言葉が、「神さまがいっしょにいるから」という信仰の根拠と共に、子どもたちの心を支えてくれればよい、と願う。地の塩、世の光となることの使命と喜びを、幸せに受け止めてくれる子が育てばよい、と心から思う。しかし、キリスト者が聖書を伝えるということについて、改めて切実に問う必要があることを、私はこの礼拝から、チャレンジされたように感じている。



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