2歳児のように

2025年3月17日

2歳ともなると、言葉がだいぶん出てくる。それまでずっと聞いていた言葉が、自分のものとして出てゆくようになるのだろう。きっと、元々何かを言いたかったのだが、どう言ってよいか分からなかったのが、言葉として発することができる、ということなのだろうか。
 
発した言葉は、親が喜び、肯定する。それでよいのだ、と自信がもて、繰り返し使う。親はまた喜び、また言葉を返してくれる。こうしてコミュニケーションがつくられてゆく。
 
たどたどしい言葉でも、親は、どういう意味かを解そうと努める。発音が不正確でも、実は何が言いたいのか、を理解したいと思うため、これを言いたいのだ、と解釈して聞きとってくれる。正しくはこう言うのだ、と厳しく直そうとするようなことはしないだろう。教育の場では、言えるように訓練をすることになるのだが、幼い子どもに対しては、まずは全面肯定から始めるべきである、と大人は基本的に分かっている。
 
私が英語を口にしたとしたら、たぶんそのようにネイティブには聞こえるのだろう、と思う。こちらが何を言いたいのか、たどたどしく不正確な発音の英語もどきを、聞きとってあげようとしてくれているからこそ、コミュニケーションが成り立つのだろうと思う。
 
私の手話もそうだ。日本手話どころか、日本語手話としても怪しいものだが、たぶんこれを言いたいのだろう、とろう者が思いやって解釈してくれるからこそ、なんとかコミュニケーションができてゆく、ということになるのだ。
 
さて、私の祈りは、神に知られているはずなのだが、その言葉も思いも、きっとたどたどしいものであるのだろう。自分の言いたいことが十分表されない。あるいはまた、親の役の神の心を理解しない、わがままな自己主張ばかりを連発するような、的を外した祈りばかりぶつけているのかもしれない。
 
だが2歳児の親は、子どもの要求を、できるだけ叶えようと努めてくれる。欲しいと言うものを手渡し、そこをどいてくれと言えばどいてくれる。だっこを求めれば、だっこをしてやるだろう。
 
他方、いくら要求しても、ナイフをちょうだいと言われて渡す親はいない。危ないこと、いけないことに協力するようなことはしないだろう。私が祈り求めていることも、危ないことになるのなら、それは助けてはくれないに違いない。しかし、ナイフの代わりにクレヨンを渡す親はいるかもしれないから、神もまた、こちらが欲しがらなかったけれども、こちらのためによいものを代わりに与える、ということがあるかもしれない。
 
祈りはまた、はっきりと求めるとばかりは限らない。何をどう求めてよいのか分からない場合もあるだろう。呻きのようなものをも、それが幼子であれば、親は何のことかと懸命に理解しようとするだろう。どこか体が悪いのではないか、心配して、何の原因があるのか、考えてくれるだろう。人の親でさえそうなのだから、神はなおさらである。
 
ただ、神に見守られていること。神の前にいること。そして神の方を向いて求めること。私たちは、その2歳児のように、たどたどしいコミュニケーション能力を用いながら、そのようによちよちしているようなものなのだ、と思う。しょせん、いつまでも。



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