【メッセージ】神がつくる教会
2025年3月16日

(エフェソ4:11-16, ミカ7:14)
キリストによって、体全体は、支えとなるすべての節々でつなぎ合わされ、一つに結び合わされて、それぞれの部分は分に応じて働いて、体を成長させ、愛の内に造り上げられてゆくのです。(エフェソ4:16)
◆キリストの体
妻たちよ、主に従うように、自分の夫に従いなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。教会がキリストに従うように、妻もすべてにおいて夫に従いなさい。夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。(エフェソ5:22-25)
教会生活を送ってない方も、どこかでお聞きになったことがあるのではないかと思われます。キリスト教式の結婚式で、しばしば開かれて、読まれる箇所です。とはいえ、妻は夫に従え、という言葉が、時代に即さなくなっているのも事実です。ここで聖書が言わんとしていることは、夫婦そのもののことでもありますが、狙いは、キリストと教会との関係になぞらえて家庭を築いてほしい、ということです。当時の社会常識の中での考え方であり、言い回しですから、さしあたりご勘弁願いたいとは思います。
それよりも、いまも挙げましたが、キリストと教会との関係の方に、目を注いでくだされば幸いです。特に、「キリストの体」という言い方や捉え方は、伝道者パウロの中に根強くあって、その手紙の中でも幾度も説かれます。信徒はキリストの体の一部分であるから、私たちの科学からいうと、細胞や組織のようなものとして働くものだ、とするのです。それぞれに役割があり、要らないものはない、一人ひとりが生かされ、働くのだ、という考え方です。
但し、学者の殆どがパウロ本人の手によると認める文書の中では、パウロは「キリストの体」を「教会」のことだ、と明言していることはありません。エフェソ書は、幾多の学者によって、パウロよりもずっと後の時代の文書だろう、とされているからです。
「キリストの体」を「教会」の意味で用いたのは、恐らくコロサイ書が最初です。洒落ではありませんが。
今私は、あなたがたのために喜んで苦しみを受けており、キリストの体である教会のために、キリストの苦難の欠けたところを、身をもって満たしています。(コロサイ1:24)
「キリストの苦難の欠けたところ」というのは穏やかではありませんが、正に私たちが生かされているこの時代が、まだ神の国の完成に至っていない、という点に目を注いでいるものと考えることもできるでしょう。
このコロサイ書では不十分だという思いからか、その改訂版としてまとめたのがエフェソ書ではないか。そのように見る学者がいます。比べてみると、確かに共通点が多いのであり、エフェソ書全体が、コロサイ書の焼き直しであることが、素人の目にも窺えます。この「キリストの体」が「教会」だという点を、コロサイ書よりももっと強調したように読めるのは確かです。
◆教会
ところで、そもそも邦訳の「教会」という語は、それでよかったのでしょうか。「教会」と訳されているギリシア語は日本語表記で「エクレシア」と呼ばれますが、基本的に「集会」というような意味合いをもつと言われています。そのため、日本のプロテスタントの中には、「教会」ではなく「集会」と呼んでいる団体もあります。
また、ギリシア語本来の使い方では、古代ギリシアの用語としては、「民会」と訳されていました。市民総会とでもいうのか、直接民主制の本体である集会のことです。
「エクレシア」は、キリストを信じる弟子たちにより、それが自分たちの共同体の名として相応しい、と考えて選ばれた言葉です。そこには、「集められたもの」という意識が伴っていたと思われます。自分たちは、神により呼び集められた者なのだ、という信仰に立つのです。
このように「呼ばれる」という捉え方は、キリスト教の中心にある姿勢でありましょう。特に宗教改革以降かもしれませんが、「職業」を表す語には、「呼ばれる」という意味の言葉が表に出されています。英語なら「calling」、ドイツ語なら「Beruf」です。それらは、特別に区別するときには、「天職」と訳され、神が、あるいは天が与えた職業、という意味で受け取られています。
もちろん、建物のことを「教会」と呼ぶのは、二次的な使い方であり、本来の呼び方ではありません。そのような事情を、一般に向けてはよくアピールすることがありますが、なかなか「呼び集められた」という点は、教会の一員であっても、滲透していない場合があるかもしれません。
どうかすると、人間づきあいのために教会に通う人もいます。もちろん最初はそれでも差し支えありませんが、中には、口が巧くて役員にまでなっても、人間づきあいにしか関心がないような人もいます。甚だしくなると、教会に来ると人から褒められやすく、自己肯定感を得るために好んで通う人もいます。自己愛の塊であるため、ほんのちょっとした冗談に激怒し、教会をばらばらにする行為に出た人も、私は知っています。その人が罪も救いも信仰も知らないままであったことを、当時見破って指摘できなかったことを、いまでも私は後悔しています。
呼び集められた者たちは、神を礼拝するために、集まります。礼拝は、こうした人々の信仰により成功します。神と出会い、神の言葉に命を与えられ、生かされた人々が集い、それが「教会」を形成します。教会とは、神との交わりによって集められた人々の共同体なのです。
しかし、人間の性なのでしょうか。そうした集まりは、次第に組織化されてゆきます。組織化され、機能分化し、やがては権力をもつようになります。西洋史において、私たちはその苦い歴史をまざまざと見せつけられます。
◆チ。
『チ。-地球の運動について-』というアニメが、2024年10月から放映されており、昨夜から本日にかけての放送で、完結しました。コミックスの方は、2020年から2022年まで連載されていました。私はアニメで初めて接したわけですが、これがなかなか面白い。いえ、実のところ、拷問シーンなど、まともに見ることができなかったくらい怖かったのですが、ストーリーやちょっとした言い回しなど、大変心惹かれるものを感じました。
ネタバレはしないつもりですが、タイトルの「チ。」はさておいて、アニメなどご存じない方でも、サブタイトルの「地球の運動について」という言葉で、あのことか、と思い当たることがあるのではないでしょうか。そうです。地動説です。
15世紀のヨーロッパを舞台に、地動説を命懸けで研究する様々な人間たちを描きます。神の教えに反する地動説を研究するものは異端審問所から追及され、否定しなければ拷問で殺されるのですが、物語はすべてフィクションであり、史実に基づいているわけではなく、史実だと告げているわけでもありません。また、明確に「キリスト教」と指摘しているのではなく、神の教えという点で、一般化できる表現をとっています。
但し、当然これがキリスト教の歴史を題材にしている、ということは明らかで、そのために、キリスト教関係の一部の人が、これはとんでもないマンガだ、と一方的に非難している声もありました。あの『ハリー・ポッター』が現れたときも、キリスト教の一部が、悪魔の物語だ、と糾弾していたのを思い出します。遠藤周作の作品が、禁書扱いされていたのも、ついでに思い出しました。
残酷なシーンも多々ありますが、神の教えに反する、と言い張るわりにはそれ以上の根拠を決して説明できない役人たちなど、私の目には、天動説にしがみつく人々を揶揄しているように見えて仕方がありません。実際上、聖書をにおわせることもよくあるのですが、聖書のどこにそれが書いてあるのか、という点については、地動説を考える勇気ある者の反論に、応えることができない様子です。
プロテスタントは、地動説をさほど気にしなかったはずだ、と躍起になって批判する人もいましたが、そのプロテスタントは、一つの原則を「聖書のみ」に有っています。聖書に書いてあることが神の言葉だ、聖書に書いていないのなら意味がない、という捉え方に走る人もいます。でも、その言い方は、殆どが、かなり都合好く振り分けてのことだ、ということになかなか自ら気がつきません。
聖書のとおり、と言いながら、旧約の律法は無視しますし、タコもイカも私たちは食べます。新約聖書の教会のあり方についても、それは過去のことだから今はしない、と説明します。聖書には、神学校に行かなければ牧師になれない、とは書いていませんが、実質そうなっています。行かなくてもなれる、という建前の教団もあります。昔は独自に教会を拓いた人もいたようですが、さて、そういう人がいま現実にどのくらいいるのでしようか。
『チ。-地球の運動について-』には、信仰について自分本位になり、それに従わない人々を悪魔だと決めるような様子が描かれています。一つの揶揄であり、また戯画化された姿であるとは言えるでしょう。しかし、それに対して弁明したり、作品を貶めようとたりすればするほど、その指摘の通り、いまでも決めつけた迫害をするものだ、と理解されてしまいます。
かといって、逆に、新しい思想をなんでもオーケー、と取り入れるような教団もあるでしょう。その点についての説明はしませんが、世相に媚びてばかりいて、もはや聖書を聖書とはしなくなっているようにも見え、そうなると何のために聖書を開いているのか、神を信じているのか、その辺りもまた、危なくなっているような気がしてなりません。そして、だからこそ逆に、保守的な信仰の立場が暴走するような現象が、アメリカで起きているのだ、というようにも捉えられているのです。
◆生物体と比較して
教会とは、神との交わりによって集められた人々の共同体なのだ、と先ほど申しました。エフェソ書などによると、それは「キリストの体」なのだ、と言います。教会がキリストの体である、ということであれば、教会に集う私たち一人ひとりは、その「体」の中で、どういう位置にあり、どういう役割を与えられているのでしょうか。「体」という捉え方が比喩である限り、この検討も比喩のままで進みたいと思います。
生物はひとつの生命体として「個体」だという捉え方ができます。個体は、生命活動のために一定の役割を果たす「器官」が集まってできています。その器官には、さらにひとつの仕事をなす「組織」という概念で理解できる部分があり、さらに組織を構成する一つひとつの「細胞」というものがあります。
すると、一人ひとりは、この「細胞」に位置すると考えるのが妥当なような気もします。けれども、私などは、一端の細胞どころか、細胞の中に充満する細胞質の欠片程度でしかないような気もします。酸素や栄養成分か運ばれてくることにより、なんとか活動をすることができていますが、個体全体からすると、あってもなくてもどうということのない程度の存在ではないか、と感じます。
でも、私の思惑とは別に、神は、そのようにお考えではないらしいのです。「教会組織」と呼ぶようなことがありますが、正に教会は、生物個体の中の「組織」のようなものでしょう。組織の中にある細胞の一つ一つは、それぞれの役割を担っています。エフェソ書4章は、このように告げています。
11:そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師としてお与えになりました。
12:こうして、聖なる者たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストの体を造り上げ、
13:ついには、私たちすべてが、信仰と神の子の知識において一つとなり、完全な者となって、キリストの満ち溢れる成熟した年齢に達するのです。
どうにも目立つ役職のような肩書きが書かれてありますが、この人たちは、「奉仕の働き」をしているといいます。神から任命された働きをなすのです。そして、「キリストの体を造り上げ」る、と言うからには、役職の人だけで体ができるはずがないことが分かります。小さな一人ひとりもまた、この組織の中にあります。奉仕ができるようにさせられています。いえ、キリストの教会の中で、礼拝に加わることだけでさえ、奉仕なのです。礼拝を英語で「サービス」と言いますが、奉仕もまた「サービス」と呼べるではありませんか。
むしろ、教会で肩書きのようなものをもった人が、権力を手にしたときに、人間の本性が露わになる、ということの方が心配です。小さな私たちは、大きな役割の中に置かれているのです。その一人が欠けても、その全体には欠けが出ます。不完全になってしまうのです。あなたが教会にいて初めて、教会というジグソーパズルは、すべてのピースを揃えることができるようになるのです。
◆弄ばれ振り回され
エフェソ書の、その先から言葉を受けることにしましょう。
14:こうして、私たちはもはや子どもではなくなり、人の悪だくみや、だまし惑わす策略によるどのような教えの風にも弄ばれたり、振り回されたりすることなく、
15:愛をもって真理を語り、頭であるキリストへとあらゆる点で成長していくのです。
教会は、役職がどうであるかどうかはともかく、一人ひとりが役割を分担しつつ、ひとつの体を呈しています。先にこのように述べた後、「もはや子どもではなくな」るのだと言います。幼子のようにならなければ神の国へは入れない、としたイエスのような視線とは違います。慣用句のように、知恵の足りない者ではなくなる、というのでしょうが、子どもが呼んだら不愉快に思うことでしょうね。
もう私たちは、黙れたり利用されたのしないのだ、と強気です。コロサイ書の焼き直し、としてエフェソ書を見るなら、コロサイ2:8の言い回しを利用しているような気がします。
空しいだまし事の哲学によって、人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、人間の言い伝えに基づくもの、この世のもろもろの霊力に基づくものであり、キリストに基づくものではありません。(コロサイ2:8)
これを、「哲学」というのはけしからん、という意味に受け取るようであってはならない、と以前申し上げました。理性や論理を用いることそのものが悪かろうはずがありません。それよりもむしろ、霊的な誤りに陥るほうが深刻です。
「教えの風に弄ばれたり、振り回されたりする」ことが、教会の歴史の中に、どれほど度々起こってきたか、私たちは学ぶ必要があります。それをいま逐一挙げるようなことは致しません。
怖いのは、人が簡単に靡いてゆきやすい、という点です。特に日本人に植え込まれた性質と言ってもよいと思いますが、「みんな」がしていると、簡単に同調します。「自分一人くらい何の影響もない」と、「みんな」が考えやすいことで、天秤は簡単に逆に傾いてゆくことになりかねません。戦争に協力したことも、当時は神に従うことなのだ、と殆どの教会が思いこんでいたのです。異性愛に向かわない人を、いじめぬいてきたのです。ろう者を、教会から追い払っていたのです。
私たちは、自分がしていることが分かりません。ダビデ王について考えを巡らせたとき、そのことを痛感しました。だからよくよく目を覚まして見張っていなければなりません。社会をも、そして自分自身をも。
しかし、ただ自虐的に教会自身を非難することがよいわけでもありません。私たちは、見えていようが、見えていまいが、「教会」に属しています。イエス・キリストに出会い、その救いを受けた者は、「教会」の一員です。
15:愛をもって真理を語り、頭であるキリストへとあらゆる点で成長していくのです。
「教会」に生きるキリスト者は、愛と真理に身を置いて、成長してゆくこの約束を、信じたいではありませんか。
◆教会の交わり
プロテスタントの教会には、ほんとうに様々なタイプのものがあります。教団毎にも制度が異なりますが、同じ教団でも、一つひとつの教会が、まるで別ものとしか思えないような事態も珍しくありません。信徒が主体である教会もあれば、牧師が専ら強い力をもつ教会もあります。あるいは、信徒の中に権威ある神学者などがいる場合、実質その人の声ひとつで教会の動きが決められてゆく、という場合もありました。
一概に、どういう教会が良いのか、悪いのか、そのようなことは言えないでしょう。ただ、福音が語られ、信徒が聖書からの声をよく聞き、上からの喜びが与えられて生き生きと働いている教会が、私には幸いな教会であるようには思えます。私も、そういう教会生活を与えられていたこともありました。まだ私が、若かったためにそう見えたのかもしれませんが、信仰がしっかりと語られていたことで、交わりの基盤が人間臭くないのは、頼もしかったとは思います。
教団に属するわけではない、単立の、小さな教会でした。しかし、同じ信仰の流れを汲む仲間の教会はいくつもあって、緩い交わりを継続していましたから、決して孤独な集団ではありませんでした。しかも、大きな教団とのつながりもありましたので、信仰的にも強い基盤がありました。いわゆる「聖会」は、その大きな教団のものに加わっていて、私にとっても大きなエポックとなったことは間違いありません。
教会規則はもちろんありました。宗教法人としての活動のために必要です。しかし、闇雲に規則を振り回すことはなく、牧師が家長のような責任をもちつつ、信仰をリードしてゆく様子は、温かなものがありました。それでも、「家庭的」というフレーズには気を付けるべきだ、と牧師はメッセージの中で、自ら戒めていました。小規模の教会を美しく飾る必要はない、というのです。
帰省したときにだけ礼拝に出る、その近しい信仰の教団の教会は、かなり大きなところでした。ずいぶん山手のほうにあり、交通の不便なところではありましたが、だからこそ広い土地が得られたのかもしれません。明るい牧師でしたが、礼拝後、出口に牧師が立ち、出てゆく一人ひとりと握手をし、声をかける、という風景がありました。家庭的な教会では、そのような光景はありませんでしたから。
そのことをその牧師に話すと、人の多い教会では、こうでもしないと、信徒との関係がつくれない場合があるのだ、と教えてくれました。大きな教会には、それなりの苦労があるのだ、と思いました。
メガチャーチと呼ばれる巨大な教会が、海外にはいくつもあるそうです。どのような教会生活や制度になるのか、想像もつきません。日本では、何十人か礼拝出席者がいれば上々であるような教会が多いのではないでしょうか。
そのような教会では、確かに、こざかしい規則をちらつかせる必要はないでしょう。年に一度の「総会」の義務がありますから、その報告と議決については、手続きを踏む必要がありますが、ふだんは決まりらしいものをさほど意識しないのが普通です。考えてみれば、私たちも日常生活で「法律」というものを、特に考えずにいるように思います。法律を考えなくてはならないのは、何かトラブルが起こったときです。教会も、何か事が起きないのであれば、それで結構でしょう。
しかし家族的になればまた、言いたいことが言えずに、心の中で感情がくすぶっている、ということがあるかもしれません。「愛」が求められるのは、そのような場合です。気づかずに、そのような人を追い詰めているのではないか、それを自問できるような「愛」が求められます。
そして、聖書を基準にした信仰がベースになっていること、そこにこそ、教会の基盤があり、存在意義があります。聖書講演会には、命がありません。説教を通じて、神の言葉が現実になり、命が注がれる、その基盤が、どうしても必要です。そこを顧みないでいると、ただの「仲良し倶楽部」になってしまいます。
洗礼者ヨハネが、ファリサイ派の人たちから、なぜ洗礼を授けるかと迫られたときに、このように答えました。
私は水で洗礼(バプテスマ)を授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられる。(ヨハネ1:26)
教会にいるキリスト者は、それが誰であるかは知っています。教会の真ん中には、イエス・キリストがおられます。教会で親しく交わる信徒の話も、隠れた主人としてイエス・キリストが聞いている、というような言葉を書いた板が、教会にありました。とてもよい戒めだと思いました
◆神がつくる教会
旧約聖書のミカ書7:14に、このような言葉があります。
どうか、あなたの杖で、ご自分の民/あなたの所有の民である羊を治めてください。/彼らは森の中、果樹園の中に/一人離れて住んでいます。/遠い昔の日のようにバシャンとギルアドで/草を食むことができるようにしてください。
キリスト者は、この日本の世間の中で、「一人離れて住んで」いるようなものです。しかし、主はその「杖」ひとつで、主の民であるキリスト者を治めてくださいます。
家庭の中で、夫婦が同じ信仰にあることは、とても幸いなことです。キリストと教会の関係が、そこに成り立っているからです。聖書が女性を従属的に描いている点は、いまはどうかご勘弁願いたい。仲睦まじく二人で力を合わせて生きてゆくことが望ましい、という程度でご辛抱戴きたい。どちらかが主人だと決めつけずに、二人して生きてゆくのであってほしいと思います。一方だけが信仰者というときの難しさもあるでしょうが、何かよい導きがあるようにと願います。
たとえ一人が襲われても/二人でこれに立ち向かう。/三つ編みの糸はたやすくは切れない。(コヘレト4:12)
新改訳聖書では「三つ撚りの糸」と覚えています。二人に加えて、主イエスが絡まっているというのは、なんと力強いことでしょう。
これは、教会という単位で考える、人の交わりに於いても言えることです。「教会」というのは、人のことです。教会は、神との交わりによって集められた共同体なのです。
大切なのは、その教会の真ん中に神がいて、教会を動かすのが神だということです。教会は、神が営む人の群れだと言えます。
16:キリストによって、体全体は、支えとなるすべての節々でつなぎ合わされ、一つに結び合わされて、それぞれの部分は分に応じて働いて、体を成長させ、愛の内に造り上げられてゆくのです。
「つなぎ合わされ」という受身の表現は、その真の主語が神であることを隠している、と一般に言われます。だとすると、キリスト者をつなぎ合わせるのは神だ、ということになります。結び合わせるのは神です。私たちを、愛の内に造り上げてゆくのは、神だということなのです。